第十九話 私と私の幼馴染について

「同じピアノ教室に通ってたんです。星空のピアノ聞いたことあります?」

 いのりの問いに二人はうんうんと頷いた。共に、脳裏には去年の秋の合唱コンクールの様子を思い浮かべる。

「去年の合唱祭で聞きました。なんて言えばいいか分からないけど、すごく上手でした」

「そこのクラスが優勝したんですけど、半分はピアノが凄かったからじゃないかって思うくらいで」

 二人して、高校までは野球以外何もしていなかったような人間であり、音楽の素晴らしさを表現するに足る語彙は持ち合わせていなかったが、それでも印象に残る演奏だった。星空を絶賛する二人の姿に、いのりは自分が褒められたかのように胸を張って気分良く返答する。

「ですよね! 教室でも群を抜いて上手で、しかも努力家で、すごく楽しそうに弾いてた」

 自分の好きな人が褒められて、それが嬉しい。自分にとっても極めて共感できるいのりの様子に、流星の顔には、ここしばらく浮かんでいなかった自然な笑顔が宿っていた。

「けど、私が入院してからは、あんまり楽しそうに弾かなくなっちゃって」

 しかし、いのりの声が尻すぼみに小さくなると同時に、親友を誇る表情は、どこか愁いを帯びたものに変わっていった。

「私、あるコンクールの前日に交通事故で頭を打って、それが結構大きな怪我で、ピアノが弾けなくなっちゃったんです。星空、すごくそれを悲しんでくれて、それからずっと」

 いのりの言葉は、手を離した風船のようにどこにも行きつくことなく、ふわりと終わってしまう。流星も黙り込み、正午は何を言うべきか分からず苦しげな様子。

「……私は、笑ってピアノ弾いてる星空が好きだったのに」

 意識的にか無意識的にか、雫のようにそんな言葉が落ちて、三人の間に気まずい沈黙の輪が広がる。

「た、確かに。一年生のころに比べて、天文台さんちょっと笑わなくなったかも……あ、違う、神楽坂さんのせいとか言いたいわけじゃなくて」

 打破しようとして切り出した正午の言葉はかえって悪い方向に転び、いのりは苦々しい表情で無理やり笑ってみせた。

「あの、もしかしてそのコンクール、天文台さんが優勝したんですか」

 流星は、思考の半分では正午の二の舞になることを懸念しつつも、どうしても確認したくなったことを問う。

 星空に痛烈な言葉で拒絶された時の話が、流星の脳裏によぎっていた。

「うん。星空、本当に抜群にピアノ上手いから! 私より一カ月くらい前に指を怪我してたんだけど、そんなの言われても分かんないくらい最高の演奏だった」

 幸いにして、こちらの話はいのりの地雷を踏むことはなかったようで、彼女は流星のもう半分の予想通り、親友を褒められた喜びを顔いっぱいに映して答えた。

 そしてその話の内容も、流星の記憶の中の話と符合するものだった。もっとも事実の解釈には、星空といのりの間で大きな乖離があるようだったが。

「その時から、なんでも一番とってたんだなあ」

 助け舟を出されたと思ったのか、安堵を多分に含んだ声色で、正午は思わず感嘆の声を漏らす。

「そうそう。昔から何でもできて、そのうえ努力家で、優しくて。本当に尊敬できる、一番の友達なんです」

 いのりは幸いにして正午の含意には気づかなかったようで、鼻高々といった様子、胸を張ってみせる。

「いつかまた、笑ってピアノ弾いてる星空の顔が見たいな、って……あ、ごめんなさい。初めて会った人にする話じゃないね」

 それは、出会って数分の流星や正午にも分かる、切実で真摯な願いだった。ばつが悪そうに言葉を取り下げようとするいのりに正午が何かを言おうとして、それより先に流星が口を開いた。


「俺も」


 正午は、前のめりになっていた自身の身体を引いた。この場では流星に喋らせなければいけないと、白球と親友の思いを受け続けてきた彼には一瞬で察知できた。

「俺も、天文台さんが笑ってる顔、好きです」

 めいろの言葉の後押しを受けてなお、流星の胸に引っ掛かり続けていた懸念。彼女の心に消えない影を落とした事件。

 流星が星空の眩しさを前にしても立ち上がれると説いたとして、それが自分だけでは意味がないと思っていた。根本的問題、彼女が傷つけてしまったと思い悩む相手。彼女の許しの言葉を確かに聞き届けてこそ、天文台星空はようやく救われるのだと。

 何のひねりもない、単純な同意の言葉。いのりは呆気にとられたような表情を浮かべて数秒沈黙した後、声を上げて笑った。

「うん。私も、星空の笑ってる顔、大好き! たくさん笑えるようにしてあげて」

 流星のあまりに真剣な表情から、いのりは簡単に彼の思いを察知した。口にこそ出さなかったが、とてもいい人に好かれているのだと、親友の魅力を分かってくれる男の子を、心から好ましく思った。

「あの、神楽坂さん」

「なに?」

 少し躊躇いがちに流星が口を開く。いのりの返事にも流星は押し黙ったが、やがて意を決したように、力を込めて問う。

「天文台さんって、なんでも一番になるじゃないですか」

 いのりは黙って頷く。隣に座る正午は、流星が何を聞くつもりなのか予想がつかず、その横顔を注視した。

「そばにいて、苦しいとかしんどいとか悔しいとか、思ったことないですか」

 水を打ったように場が静まり、他所の席から聞こえてくる喧騒が、かえってその沈黙を際立たせた。いのりは、先ほどまでとは違う真剣な表情で流星を見つめている。

 それは、流星も同じだった。

「おい流星、突然なに変なこと聞いてるんだよ。すいません、こいつ天文台さんのことになるとちょっと熱くなっちゃう奴で――――」

 ただ、正午にその真意は分からない。友人の失言を撤回すべくしどろもどろになる正午を遮るようにして、いのりがさっと手を伸ばした。驚く正午に向けて優しく首を横に振って見せると、いのりは流星に向き直る。

「銀君は」

 次の言葉が出るまでの数瞬、されど永遠のように感じる時間だった。

「銀君はどうなの」

 問いかけるような言葉だったが、返事を求めている様子はない。まるで、初めから答えがわかっているかのような、流星の心にある答えに流星自身を導いてくれるかのような、優しい口調だった。

「私、きっと君と同じだと思う」

 星空の瞳は宇宙のようだと、流星は何度か思ったことがある。見通せないほどに深く、焦がれるほどに深い。

 であれば、今のいのりの瞳は海。心地よい潮騒を伴って、大きくて暖かく、そして優しい。底は見えないけれど、そこにきっと、恐ろしいものは存在しないと思う。

「ありがとうございます」

 分かり合えたのだ、と流星は思った。

 きっと彼は私と同じだと、いのりは思った。

 だから、そのただ一言で十分だった。正午は彼らと同じことを思ってはいなかったが、自分の介入が無用で無粋だったことを察し、ひとり静かに腕を組んだ。ほんの少しだけ疎外感はあったが、二人は今分かり合うべきなのだと、なんとなくそう思った。目頭が、少しだけ熱くなっているような気がした。

「銀君、星空に伝えてほしいことがあるの」

 少しはにかみつつ、いのりがそう切り出す。なんですか、と流星は姿勢を正し。自分の名前が呼ばれなかったことに一抹の悲しみを感じつつも、正午もまた彼女の言葉へと注意深く耳を傾けた。

「私、星空のこと大好きだって。尊敬しているって」

 流星は真っ直ぐにいのりの方を見つめる。彼女の眼は、大切だった人との思い出を振り返るかのように、少し悲しげだった。

「それから、たまにはお見舞いに来てねって」

 自分の感情が表に出てしまっていることに気付いたのか、少し慌てて、そんな言葉を付け足す。先ほどとは異なる、どこか痛々しい笑みで、過ぎ去った日々を振り返るように笑い飛ばして見せようとする。

「ごめんなさい、半分は承りましたけど半分は無理です」

 その弱さを、流星は許さなかった。

 あるいは、いのりが自分と同じだと分かっているからか。その言葉は常の穏やかなものと違い、譲歩のない厳しさと、どうすべきか分かっているからこその優しさで形作られたものだった。

「必ずまた、お見舞いにくると思います。その時に、自分の口で伝えてあげてください」

 いのりは、もう一度、流星の眼を見た。流星の眼はどこまでも真剣で、その場を取り繕うためではなく、心の底から『その時』が来ることを確信している、あるいはそう信じる覚悟があった。

「――――うん、じゃあ、待ってるよって」

 新しくできた、無骨で不器用で、一本気な友達を。あるいは、その横で瞳を潤ませ、私と彼の両方に深く気持ちを寄り添わせてくれる、ちょっと強面な友達を。心の底から好ましく思った。

「二人で話してたところお邪魔しちゃってごめんなさい、それじゃあ、私はこの辺で」

 いのりは満足げな表情で立ち上がると軽く会釈。つられて二人も頭を下げ、彼女を見送ろうとしたところ。

「星空を捕まえたいなら、しっかり頑張ってね」

 いのりは最後にそれだけ言い残すと踵を返し、振り返らずに部屋を出ていった。正午は特に反応することもなく手を振っていたが、流星はわなわなと全身を震わせる。

「なんでバレたんだ……?」

「なんでバレないと思ったんだ……?」

 本気で不思議そうに身震いする流星に、正午はもはや何度目ともない突っ込みを入れる。こちらの方がよっぽど治療する必要がある、一種の病気ではないだろうか、と正午は真剣に考察する。



 一方、談話室の外。

「……いい友達ができたんだ。嬉しいな」

 いのりは心からの喜ばしさを嚙みしめながら、一人リハビリ室へと歩いていた。

「ああ、いのりちゃん。どうしたの、なんか楽しそうだね」

「うん。さっき、とってもいいことがあったの」

 担当のリハビリトレーナーが、いのりの様子を見て問いかける。その姿は、いつにもましてやる気に満ち溢れているように見えた。

 神楽坂いのりの指は、今やほとんど彼女自身の意志を受け付けていない。ましてや、ピアノを弾くといった高度なことに耐えうるだけの機能は尚更。医療に携わる者なら、奇跡でも起こらなければ叶わない夢だと思うだろう。目の前のトレーナーがどれだけ親しい間柄であろうとも同じ。それでも、笑顔でいのりは言い切る。

 本当は、彼らと話している中で、一つだけ噓をついた。

 天文台星空と並び立つ中で、苦しいと思ったことも、しんどいと思ったことも、悔しいと思ったこともある。

 自分がどれだけ努力しても、彼女の背中はそれ以上の速度で遠ざかって行って。その距離は永遠に縮まらず、劣等感を覚えもして。それは、進むことすらできなくなった今、尚更のことで。

 だけど。


「だから――――私も、またピアノ弾けるように頑張ろうって!」


 頑張りたいと、この子に負けたくないと思わせてくれたのは、ひたむきに全力で走り続ける、大好きな親友の姿だったのだ。

 強がりではなく。大切な親友の大好きな姿を思い出させてもらったがために。

 トレーナーは、一瞬押し黙って、いのりに負けないほどの笑顔で返す。

「そっか、じゃあ――――厳しく行くから、頑張って付いてきてね」

「はいっ!」

 心臓が止まるその日まで、脳が制止するその日まで、人は死なない。誰も成し遂げたことがないことであっても、不可能の証明は誰にもできない。

 だから神楽坂いのりは、戦うことをやめない。

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