第十八話 過去の俺と俺の一番星について

 一人残された流星は、幼馴染の言葉を思い返していた。

 間違いでも自信をもって選べばいい。

 残酷なことだが――――その言葉の向こう側に、流星はかつて己の道行きを変えた別の光を見出していた。

 、ある少女の内に輝く人の焔を。


 流星がまだ一年生だったころ、まだ星空と同じクラスではなかったときの話。

 それは合唱祭を一月後に控えた、少し肌寒い秋の日だった。

 クラス有志での合唱練習が終わり、流星は部室に向かって校舎の中を歩いていた。

 既に下校時間まで三十分を切ったところではあったが、それはさほど重要ではなかった。

(天文台さんに! 会いたい!)

 クラスの違う星空に会える可能性が高いのは部室、ならば時間など関係なく顔を出す。

 銀流星は、当時からそういう人間であった。

(まだ部室にいたら、というかまず、今日部活に来てるといいんだけど)

 星空が天文部に所属している理由には、学業や習い事との両立による忙しさもあると本人は言う。行事以外は基本的に参加自由の天文部なら融通が利くから、と。

 したがって、彼女が部活にいるかどうかは不確定な点だったが、これもやはり流星にとってはさほど重要ではなかった。

 可能性が少しでもあればそうする。流星は妥協のない人間だった。

 と、早足で廊下を行く流星の足取りが急に緩まる。

 階下から、微かに聞こえるピアノの音。

 どこか聞き覚えがあるのは、それが有名な合唱曲であるからだと気づく。

(なんだ? 放課後にピアノの練習って、まだちょっと早い気がするけど)

 流星のクラスは、熱が入った合唱部などの連中が何人かと、流星の様に歌に自信のない者が練習していただけ。

 話を聞く限りでは、他のクラスでも大規模な練習はまだ始まっていない様子。

 なにより。

(これ、もう完璧じゃないか?)

 誘われるように音楽室に近付いていくに連れて、はっきりと聞こえ始めるピアノ。

 流星は決して音楽に造詣が深くない。どちらかというと音感もない人間である。

 だがその流星にも確信を抱かせるほど、その音色は美しいものだった。

 気がつくと流星は、音楽室の扉の前にいた。

 その手が自然と、扉にかけられる。

 誰がいるか、何を話すか。そんなことは、流星の脳裏にはない。

 新しい扉はほとんど音を立てず、流星は教室の中へ踏み入る。


 そこには、一人の美しい少女がいた。

 大きなグランドピアノに向かい合って一歩も引かず。

 奏でられる音は荘厳にして流麗。

 所作からは気品と高貴な育ちが垣間見え。

 いや、なによりも、その才覚そのものが空間を埋め尽くしているような。

 それでいてその顔は、勝ち誇るでも楽しむでもなく、嵐の中で黙って耐えているような。

 そんな感覚を、銀流星は味わった。

(誰も、この人には勝てない)

 直感的にそう思わされる。本能的にそう知らされる。

 流星には音楽のことなんて一つも分からないけど。

 彼女がいるだけで、彼女の伴奏があるだけで、彼女のクラスは優勝する。

 それどころではない。彼女のピアノは、きっと名立たる音楽家の誰をも上回る。

 天才、という言葉が、流星の脳裏を当然によぎった。

「……あれ、銀くん?」

 圧巻の演奏に抜け出していた流星の魂が、身体に引き戻される。

 演奏を終えた天文台星空が、きょとん、とした顔で流星を見つめていた。

「あ、ごめん。誰がピアノ弾いてるんだろうと思って、気になってつい。驚かせたよね」

「ううん。誰かが練習に来たのかと思った」

 少し気の抜けた表情はすぐに搔き消えて、常と同じ聡明な微笑が浮かんだ。

 流星は少しの逡巡の後、星空と話そうと、ピアノの傍まで近づいた。

「熱心なんだね。こんな早くから練習してるの、天文台さんだけじゃない?」

 好きな人との距離を縮めるのにいい機会だ、という極めて一般的な思考の下。

 最初はなるべく当たり障りのない話題を、と考えつつ、流星は問いかけた。

「私が失敗して、クラスのみんなに迷惑かけたくないからね」

 星空の方も、特段新しい情報を開示するでもなく、いつも流星と話すときと同じトーン。

 流星もそれに同調しようとして、軽くなぞった星空の言葉を反芻して、咀嚼しようとして。

 ふと、昔のことを思い出した。

 自分の右肘。野球を辞めることになった日のことを。


「それだけじゃ、ないんじゃないの」


 ふと、そんな言葉が流星の口をついて出て。

 普段とは全く異なる鋭さに、星空の表情が曇った。

「もう練習しなくても失敗しないだけの実力、きっとあるよね」

 悪意でない、と解釈するのは無理があるだろう、と星空は考える。

 流星の視線の厳しさには、明らかに負の感情が入り込んでいる。

 だが、しかし。

 その全てが悪意に満ちたものではないということもまた、なぜか星空には確信された。

「それは買い被りすぎだよ」

 もう少し話してみたい、という不思議な思いが、星空の胸に湧きあがった。

 だからあえて、煙に巻いたような言葉で続きを待つ。

 二人は確かに同じ部活の友人であったが、取り立てて深い話をする仲ではない。

 流星はこの時点で星空に一目惚れしていたのだが、アプローチはもっと控えめなものだった。

「いや。天文台さんのピアノは完璧だったよ。俺みたいな、音楽がてんで分からない様な人間にも分かるくらい」

 思わず語勢が強まったことに自身驚きつつ、流星は言葉を撤回しなかった。

 星空は少しだけ驚いたような顔をして、その後、なぜか笑ったような顔をした。

 いつもの、考えが読みづらい微かな笑みではなく。

 誰かを貶めるような笑いでもなく。

 しかし、心の底から嬉しい時に零れる笑顔でもなく。

 辛いことや悲しいことと向き合った時に、自分を鼓舞するためのような。

「……そうね。私は多分、このまま本番でも大丈夫なのかも。傲慢な言い方だけどね」

 そこには、咀嚼しづらい違和感があった。

 言葉では傲慢と評しつつ、確信があるような。

 ただそこには、己の実力に対する自負や自身とは違う、諦観のような色があるような。

 思わずそれを問いただすかのように、流星はまた問う。

「だったらなんで、練習してるの?」

「そんなの決まっているじゃない」

 少し呆れたような口調で、星空が返す。


「仮に一番でいられるがあっても、努力をやめる理由にはならないでしょ」


 流星の細い目が、常よりも大きく見開かれる。

 その瞳が星空を中心に捉える。

「銀くんだって、そうなんじゃないの?」

 振り向いた星空が、なんとはなしに流星に問う。

 深く広いあまり星の光までも飲み込む宇宙の孔ブラックホールのように、幾分か暗さも帯びた瞳。

 いつも以上に無感情にも見える、けれど気高い表情。

 違う、と言いそうになった。

 自分が努力をしているのは、一番になれない自分を慰めるためだ。ためだった。

「――――ああ。その通りだね、天文台さん」

 だけど、だから、今ここから変わればいいと思った。

 羨望。

 流星が星空に抱いていた暗い感情は、その瞬間に全て溶けて消え。

 隙間を埋めるように。いや、流星の心の内全てを塗り替えるように、浮かぶ気持ち。

 流星は、天文台星空に、今度こそ恋をした。

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