第十六話 私と『二番星』について

 時を同じくして、天文台星空の住まう豪邸。

 日本中で名を知らぬ者はいない天文台財閥の屋敷、豪奢にして洒脱、荘厳にして軽妙、合判する要素を包含する絶妙な調和を以って築かれた大邸宅の一室。

 天蓋付きのベッドに身を横たえて、星空は静かに目を瞑っていた。

 眠っているのではない。部屋の電気は灯ったまま。

 ここ数日の出来事と、少し前の出来事と、これまでの出来事全てを脳裏に浮かべて並べ立て、整理する。

 そう、銀流星。

 星空にとってもっとも不愉快で、不可解な知人。

 いや。彼の目的そのものは明瞭で、星空には薄々それが分かっていた。そうしてその疑念は、昨日確信に変わった。

 だが、不可解なのはそこではない。


 彼はなぜ、そうまでして勝負に拘るのか?

 戯れに彼との勝負を受け入れて、連戦連勝すること幾度目か。悔しがる素振りこそ見せども、彼はただの一度も泣き言は言わず、ただ私の才覚と努力への惜しむことない称賛を述べ、再び無謀な挑戦へとひた走るばかりであった。

 分からなくて怖かった。だから譲歩した。

 別にタイプではないが、芯から嫌いなわけではない。一回くらい遊びに行ってもよかった。この不可解な恐怖から逃れられるなら、それくらい訳ない。

 ただ彼は頷かなかった。もちろん、私の話題の切り出し方は最悪だったと思う。彼の心の内があまりにも読めなくて、遠ざけなければ気が済まなかった。

 けれど彼の態度はまるで、勝負して勝ったのでないと気が済まないとでも言いたげな、そんな在り方で。

 その姿に、かつて友人だった少女の面影を重ねた。


 神様に認められなくてはおかしいほど、実直で、正直で、美しい努力にひたむきだった少女。

 いつも明るい笑顔で、前向きで、私は何度も彼女に救われて。

 私の指が折れた時も、私以上に悲しんでくれて。コンクールに間に合ったことを、私以上に喜んでくれて。

 そんな彼女は、一緒に出場するはずだったコンクールには顔を見せなかった。

 そして私は、直前一か月というあまりにも大きなブランクを抱えて、当然のように優勝した。


 私に彼女の事故が知らされたのは授賞式の後で、大急ぎで向かった病院に、彼女は変わらない姿で、けれど決定的に変わってしまった。

 ピアノが弾けなくなってしまったのだ。

 高名な音楽家の家系に生まれ、将来を嘱望された彼女。才能に驕らず、誰よりも努力家で、咲き誇るべきだったはずの花。

 それまでも何度も、自分の才能を訝しんだことはあった。

 ピアノのコンクールは言うまでもなく、幼稚園のお遊戯会、小学校の運動会、中学校の文化祭、高校の合唱祭。それだけではない、およそ順位の付く全てにおいて、天文台星空(わたし)が一位にならなかったことはない。それは、努力や才能が人並外れたものだから、で片づけられる次元を、とうに超えてしまっていた。

 そして、なにより恐ろしいのは――――それは異常なことだと、誰も指摘してくれないことだ。

 天文台財閥の娘として、勉学も習い事も、人並み以上に熱心にこなしてきたとは思う。父と母は、友人たちは、彼女は、彼は、そんな私を称賛するばかりで。

 誰も気づいてくれはしない。


「いっそ誰かに、否定してほしかった」


 許されないと思っていた言葉を、初めて口に出す。

 お前はまともな人間ではないと、お前のせいで自分はと、誰かがそう責めてくれれば楽だった。だがそうはならない。

 他人の屍で築かれた賞賛と喝采の山の上に座る私は、そこに至るまでに踏み越えたものがある以上その座を降りられないし、踏みつけた身体の感触を忘れて悦楽に浸ることもできはしないのだ。

 そこまで考えてふと、彼の言葉が脳裏をよぎった。


『仮に俺が勝ったら、無駄って言葉は取り下げてくれる?」

 高慢で、残酷で、最低な私。自分を守るために彼を傷つけた私。それでも彼は、私ではなく私の言葉を否定した。

 そう言う彼の眼は優しかった。私の方に手を伸ばそうとしてくれていることが分からないほど、私も馬鹿ではない。


『……今回は自信あったんだけどな。やっぱりすごいや』

 彼に諦めてもらうために、包み隠さず明かし続けてきた、私の気色悪い一位ばかりの成績を見ても、彼は私を称賛するばかりだった。

 そう、彼はただの一度も。私自身を否定することはなかったのだ。だから苦しかった。だから受け入れられなかった。


 おかしいと思わないのか?

 ただの一科目ですら、彼や、あるいは他の級友が私に勝つことはなかった。学業だけではない。体育、芸術、果ては体育祭や文化祭、合唱祭といった行事。全部、全部、私が一番になってきた。

 だというのに、どうして。


「どうしてそんな人間に、すごいね、なんて笑えるの」


 あなたの貴い努力を踏みにじっているのは、他ならぬ私だというのに。



 翌日。迷小路めいろは、いつもと変わらず銀流星を起こしに来る。

 いつものようにインターホンを鳴らし、いつものように流星の母親に迎えられ、いつものように二階に上がり、いつものように流星の部屋の扉を開いた。

 けれど、いつも通り彼を叩き起こすことはしなかった。

(流星、くん?)

 頭まで布団を被り、丸まって眠っている様子の流星。普段はたいてい頭を出して眠っているが、絶対にそうというわけでもない。

 何も普段と変わったことはない。けれど、確実に何かがおかしい。絶対に何かがおかしいと、めいろは感じた。

「流星くん。起きてる?」

 触れることすらできず、普段であれば絶対に流星の眠りを妨げられないようなか細い声で、幼馴染の名前を呼ぶ。

「なあ、めいろ」

 返事はすぐにあった。泣き疲れたみたいな声だった。

「起きないと駄目かなあ」

 子供の駄々ではない。本当に苦しんでいる人間の声がどんなものかなんてめいろには分からないが、本当に苦しんでいる流星の声は痛いほどよく分かる。彼女はそんな流星の声を、一度聞いたことがあるのだから。

「今日、休む?」

 自然とそんな言葉が口をついて出た。甘えではない。甘やかしでもない。今、そういう言葉をかけなければ、流星は駄目になってしまうと。そう思った。

「……冗談だよ冗談、夜更かししすぎただけだって。今起きるから」

 数秒の間があって、柄にもなく勢い良く布団から飛び出した幼馴染は、気持ち悪いくらいに自然な笑みを浮かべた。奇抜なメイクでもしたのかと思うほど、目の周りが真っ赤に晴れていた。

「りゅーくん」

 考えるより先に、言葉が出ていた。

「私と一緒にさぼる?」

 流星は、いつもより大分つぶれた目でめいろを見た。めいろは、その中に確かにある泣き出しそうな感情を、しっかりと見た。

「ううん。大丈夫だよ、ありがとう」

 大丈夫なわけあるか、と思った。けれど、彼がそういう男であると、彼女は誰よりも知っていた。

 結局、流星はめいろに何も話さず。めいろは流星に何も聞かず、常にないほど静かな登校時間があり、流星はいつも通り教室へと向かっていく。その背にかけられる言葉を、めいろは知らなかった。

(りゅーくん)

 彼の姿が、校舎の中に消えても。めいろはすぐには、練習へと向かえないでいた。


 その日。星空は珍しく、始業のギリギリまで登校してこなかった。




「よ、流星青年。たまには私と一緒に帰ろうぜ」

 その日の放課後。二年三組の教室の前では、迷小路めいろが腕を組んで仁王立ちしていた。

 彼女が流星の幼馴染であること、それから同じ部活に所属していることはよく知られていた。チア部の可愛い女子と話す流星にはいくらかの羨望の視線も突き刺さっていたが、それも激しいものではなかった。

「いや、今日は用事が……」

 流星の方は何となくばつの悪そうな顔。左目の端がぴくぴくと震え、流星の心の動きを手に取るようにめいろに示す。

「だめ。たまには私の言うことを聞きなさい」

 流星より二十センチばかり背の小さな少女に立ちはだかられたとて、威圧感もへったくれもあったものではないが、めいろは一向に道を譲る気配を見せない。

 流星のクラスメイトは、めいろに生暖かい視線を投げかけて立ち去っていく。普段であれば恥ずかしくてそれが少し気になるところではあるが、今日に限ってはそんなものはめいろの敵ではなかった。

 膠着状態が続くこと十数秒。

「分かったよ。我が幼馴染さまの言うことであれば」

 結局流星が折れて、二人はそのまま帰路につく。

(……)

 その背中を、どこか安心した様子で、どこか寂しげな様子で、教室に残る星空が見送っていた。

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