第十五話 私と『一番星』について

 放課後の部室には、珍しく流星と星空の二人しかいない。

(くっ、何話そう。この前の一件以来、どう思われてるか心配で何も言い出せない。どうするか結論を出すためにも、天文台さんと話したいのに!)

「……」

 星空は黙って、分厚い天文学の本を読み耽っており、流星の方を見ている気配はない――――と、流星は思っている。

 実際のところ。今日に関しては彼女もまた、流星の様子を伺っていたわけだが。

(何か、何か当たり障りのない話題を……そうだ!)

「て、天文台さん」

 緊張のあまり僅かにどもりつつ、流星は星空に声をかける。視線を書籍に潜らせていた星空が、ゆっくりと流星の方に向き直る。

「次の中間試験、もうすぐだから。また勝負に付き合ってほしいなと」

 星空は流星の方をじっと見つめて、何も言わない。何か言いたいことがあるのかとそれを見返していた流星も、やがて気恥ずかしさで目を逸らす。


「銀くん。もう勝負、やめにしない? 絶対に私には勝てないから」


 沈黙を破った言葉は、あまりにも意外なものだった。

 流星は、思わず、星空の方を、もう一度見た。

 その瞳の奥は、星のない夜空の様に暗く冷たく。その表情は、いつもと何も変わらない笑顔で。

「天文台さん? その通りだけど、それは、ちょっと酷いんじゃ……」

「酷くない。事実だよ」

 出会って初めて、流星は星空に言い返した。その言葉を、星空は躊躇なく切り捨てた。

 流星は心の底から星空を尊敬している。だからこそ、その発言が許せなかった。正しいのかもしれない。間違っていないのかもしれない。自分が悪いのかもしれない。けれど。だけど。それはあんまりだと思うのは自分の勝手なのだろうか、そんな思いが流星を衝き動かした。

「そんなの分からないだろ。俺、まだまだここから努力して、」

「努力が覆せる物事の範囲なんて知れてるよ」

 一太刀で流星の息の根を止めるように、星空は吐き捨てる。

 流星が一度も聞いたことがない、冷え切った口調で。いつもと少しも変わらない、優しく人を遠ざける心の伴わない微笑みで。

「でも、絶対なんてことないだろ。やってみないと」

 食い下がる流星に向けられた視線は、驚くほどに冷たい。

 冷静ではなく冷淡。

 冷厳ではなく冷酷。

 冷然ではなく冷徹。

「食い下がるならこっちもはっきり言う。絶対に、」

 ほんの一瞬、空気を張り詰めさせる沈黙があった。

「無駄に終わるよ」

 なんの感情もない言葉が、流星の胸を貫く。

 十字架に磔にされ、流星の喉からは掠れた悲鳴すら出ない。

「この冬、ピアノのコンクールの前に指を骨折したことがあったの」

 罪状を並び立てるかのように、星空は続ける。

 流星には不思議と、その平素との変貌への驚きはない。

 あるいは心のどこかで、星空の内側にあるものを想定したことがあったのか。

 それは流星自身にも定かではない。

「コンクールまでになんとか治って、せっかくだから出場しよう、って勧められてね」

 自分自身についての述懐であるにも関わらず、他人の話をするようなフラットさで。

 そうすることでしか話せないのか。

 そうすることでしか生きられないのか。

「どうだったと思う? 優勝だよ。私と同じくらい上手な子、たくさんいたのに。直前の一か月、私は全く練習できなかったのに」

 結局、感情はベースラインから僅かの揺れを見せることもなく。

 それでいて、顔だけは流星に向けて笑顔を崩すことなく。

 乖離した表情と声色で、星空は流星に詰め寄り続ける。

「一番上手かった私の友達はね、前日に交通事故に遭って、ピアノが弾けない身体になったの」

 星空の声色に変化はない。流星の肩が、ピクリと跳ねる。

 それに気づいて、それでいて、星空は言葉を止めなかった。

 彼女は流星の過去を知らない。

 いつもの星空は、このような時に決して他人の領域に入らない。

 けれども、相手が自身に無遠慮に近づいてくる人間であるとみなしたからか。

 星空の間合いの詰め方に、一切の容赦はない。

「銀君。これ、ただの偶然なのかな」

 流星の身体が強張るのが、星空の目にもはっきりと分かった。

 ここでも勝負はもう終わったのだ、と思う。

 彼に何があったかは知らない。彼がなぜ私を追いかけているのかも分からない。

 でも、彼をそうさせていたものは、たぶんたった今折れてしまったのだ。

「私はもう嫌なの。半端な努力を寄せ付けない、群を抜いた努力ならほかの方法で無駄にする。そんな私のせいで、誰かや私が傷つくのは」

 激しかった声色が少しだけ緩まる。

 勝負に負けた相手に引導を渡す時まで、感情をぶつけることはないと思った。

 いま彼が傷ついたのと同じくらい、私は傷ついてきた。

 それでももう、穏やかに終わった方がいい。別に彼のことが嫌いなわけではない。

 仮面のような笑みから少しだけ脱力し、星空は言葉を結んだ。


「言うことくらい、聞いてあげるから。もう、勝負はやめよう」


 流星がなぜ星空との勝負に拘るか、彼女にも多少の見当はついていた。

 これでいい。彼から反発を引き出すだけの材料は既にない。

 項垂れる流星に近づき、観念の言葉を待つ。

「……仮に」

 結果は、星空の予想とは少し異なっていた。

 自分が悪いことをしたと分かっているときの子供のような。

「仮に俺が勝ったら、無駄って言葉は取り下げてくれる?」

 泣き出す寸前のような声で。その癖、どこから湧いたのか分からない自信が籠った声で。流星はまだ言い返してくる。

 一度は消えかけた感情の焔がごうと勢いを取り戻すのを、星空は胸の内に確かに感じた。

 ひどく。ひどく不愉快だった。

「そんなことは起こらないよ。奇跡は、起こらないから奇跡っていうの」

 だから今度こそ、星空は流星を明確に拒絶した。

 私の内側に入ってくるなと。

 もう終わったことを、決まったことを、変えられないことを蒸し返すのはやめろ、と。

「銀くん。私はね、きっと一番になる星の下に生まれちゃったんだよ」

 流星の顔が、何かに思い至った様に、驚きの色に染まった。

 それが何を意味するのか、星空は追及しない。どうでもいい。ただここを立ち去ってしまいたいと、そんな怠惰さにも似た感情だけがあった。

「それと、もう一つ言っておくね」

 だから、帰る己の背中にこれ以上しがみついてこないようにと。自分の中の苛立ちと、これまでの悲しかったことと、ほんの少しの罪悪感を綯交(ないま)ぜにして、一息に吐き出す。


「私、無駄な努力をしてる銀くんのことが――――心の底から、嫌いなの」


 それだけを残して、星空は部屋を出て行った。

 香水なのか、整髪料やシャンプーの香りか流星には分からないが、彼女が残していった微かな微かな甘い匂いが、身体を内側から刺すようだった。

「……嫌い、か」

 古びたソファに沈み込んで、流星は独り吐き出した。

 何もかもが、終わってしまった気分だった。心臓も脳も動いている、けど、生きていくための目標が致命的に欠落している、そんな状態。

 星空がそういうのも無理はない。多くの機会を得て、それでも星空は流星を下し続けている。いや、その事実がなかったとして、万事において一番であり続ける、あり続けてしまう彼女は、初めから流星が勝てるなんて思ってはいなかったのかもしれない。

 何事でも一番になってしまう定め。もしそれが、流星の『二番星』と同じものであるとしたら、彼女はどんな世界を見てきたのだろう。凡人を遥かに凌駕する才能、才人を打ちのめす天運。その寵愛で敷き詰められた人生の歩み心地は、客観的に見てどれだけ恵まれたものであったとして、本当に良いものだといえるのだろうか。

 普段とかけ離れた星空の様子を見た流星には、一番で居続けることが幸せなことだなんて到底思えなかった。

 二番にしかなれない運命。それを手放せば。

 いや。高い可能性でなくても。今よりずっと苦しい戦いになるとしても、それでもチャンスはある。彼女のこれまではまだ偶然かもしれない、そんなことは流星には分からないのだから、彼女がどう言おうと、気にせずもう一度挑みかかればいい。

 けど。けれど。だけど。あぁ――――

「無駄とは、言ってほしくなかったなあ」

 誰に努力を笑われてもいいと思っていた。

 けど、彼女にだけは。けれど、あなたにだけは。だけど、自分に努力の価値を示してくれた人にだけは。そう感じるのは自分の勝手なのだろうかと、流星は黙考する。

 告白する前に振られてしまったこともショックだった。けれど、それよりもっと悲しいのは、彼女が示してくれた大切なものの価値を、彼女自身が貶めたことだ。

 単純かもしれないが、全てがどうでもいいように流星には思えた。

 どんな理由があろうとも、ここまで積み重ねてきた努力を否定した彼女も。どんな恩恵があろうとも、ここまで自分の努力を笑ってきた星も。等しく、憎らしい。

 妙に存在感のある古時計が、秒針を動かす度にやかましく、けれども規則的で。

 催眠にかけられたかの様に、部室の古く傷んだ大きなソファに流星は沈み込む。底のない沼のようだった。いつまでもいつまでも、流星はそうし続けた。


 その日の夜、秋晴の下に一件のメールが届いた。

【『二番星』を捨てさせてください】

 ただそれだけの文面。

 秋晴が返したメールも、簡素なものだった。

【了解しました。では、三日後の十七時に先日の公園で。宝くじを買うなら明日までにしておくといいですよ】

「そんなもん、買わねえよ」

 流星は思わず笑った。笑ったつもりだったが、泣いているかもしれなかった。

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