第十三話 俺と『二番星』について/2

 遡ること二年前。

 暑い暑い夏の日、炎天下の地方球場。観客席を除いて一番高いところにあるマウンドの上。

 そこに立っていた自分のことを、流星は今も手に取るほど鮮明に覚えている。

 九回まで一対一の接戦だった試合。

 他ならぬ自分自身が九回表に勝ち取った、乾坤一擲、値千金のホームラン。

 あと一球。あと一球ストライクを取れば、全国大会への出場が決まるという場面。

(そう、あと一球だった)

 決して人入りは多くない観客席から、力強い後押しの声援が響く。

 チームメイトも。監督も。親友も。幼馴染も。誰もが、最後の一球を応援してくれていた。

 だから言えるわけがなかった。言いたいとも思わなかった。

 自分の肘が、限界を訴えているだなんてことは。

(あと一球で、いいと思っていた)

 当然口には出さなかった。最後の決着まで自分でつけたいと思った。己がこれまで積み上げてきた努力を、裏切りたくなかった。

 だから振りかぶった。迷いも後悔もなかった。

 渾身。

 ミットに突き刺さった白球が最後にたてた鋭い破裂音を。ストライクのコールを。割れんばかりの歓喜の声を。己の身体の内側から響いた覆らない代償の音を。流星は確かに記憶している。


『流星――――おい流星、流星!!!』


 倒れた己に駆け寄る親友。そこから先のことは、よく覚えていないけれど。



『後悔なんてしてないよ』



 家族に、友人に、監督に、親友に、幼馴染に、そして自分に、何度かそう言ったことがある。それは間違いのない事実だ。

 その時の流星にはそうするしかなかった。だから、既に起こった覆しようのない現実を、後悔する気にもなれなかった。

(じゃあ、今は?)

 けど、もし。未来を知っていたなら。また、あの白球を投げる場面が来たら自分は――――迷いなくその一球を、投じられるのだろうか。




「驚かせてしまいましたかね」

 一分余りの沈黙があっても、秋晴は待ち続けた。思考の内側に沈み込んだ流星の意識が少しずつ戻るのを見計らい、静かに声をかける。

 沈み込んでいた流星の状態がゆっくりと起き上がり、何かに怯えるような、縋るような視線が秋晴の視線と交差する。

「けどあれは、避けられなかった偶然ではないんです。星の光に潰された痛ましいあなたの夢は、叶う可能性があって然るべきものだった」

 それを十分理解して、秋晴は、彼が望んでいるであろう通りの言葉を紡ぐ。

 噓ではない。真実を、もっとも適切な形に切り出して、より美しい形に仕上げただけ。そこに利己心があったとしても、同様にして善意が存在するからこそ、その言葉は響く。

「単に優勝したかったんじゃない。あなたは、自分がエースとして投げて優勝することを望んだ。だからこその、今のその右腕でしょう」

 流星の左手が、無意識に右肘に伸びる。

 かつては、歴史ある流が丘高校の野球部に見初められ、スポーツ推薦枠の話まで来ていた少年野球のエース。

 今となっては、二度と野球はできないという身体。

 それがどれだけ悔しいことだったか、一体その悔しさを、これまでに誰が心から理解してくれたというのか。

「銀くん。もう、夢を失う必要はありません。あなたの不断にして不屈の努力は、正当に報われることを待ち望んでいるはずです」

 聖女の如き慈愛。

 ぼんやりとした意識のまま、流星はその時確かに、ほんの一瞬だけ、秋晴に心を奪われた。

 この人は間違っていない。この人の言うことに全てを委ねれば、自分は救われるのかもしれない。


「『二番星』、渡してくれますか?」


 そうだ、と。あなたの言うことが本当なら、俺をその運命から、ぜひ解放してくださいと。『二番星』なんて、くれてやる。

 そう口に出そうとした。しかし、何かが流星の喉を閊(つか)えさせた。

 それが何なのか、輪郭をつかもうとして、流星には分からぬまま姿を消してしまったが、吐き出そうとしていた暗く熱っぽい言葉もまた、すぐに冷えていた。

 秋晴が見つめていた流星の視線に、先ほどまでと同じ、冷静で力強い意思が戻る。

「……どうして俺のことをそんなに詳しく知っているのか、そこは敢えて聞きません。けど、今日は決められません。本当に悪いんですが、もう少し時間をください」

 その事実は、内心秋晴を動揺させた。それは彼女にとって、滅多に、いや確実に起こることのないはずの不可思議な現象だった。

 秋晴は、星を捨てるという道を流星に示した。そうである以上、彼がそれに逆らえるはずはなかったのだ。彼女もまた、ある眩しすぎる星の下に生まれ落ちた命であった。

「勿論です。あなたの人生を大きく左右する重大な決断ですから。ただ、申し訳ありませんが、あまり時間は取ってさしあげられません」

 だがその動揺はどこにも表出しない。先ほどまでの自分と寸分の狂いもない自分のままで、秋晴は冷静に流星を囲う網を狭めていく。

「生まれた星を切り離す儀式には、天体の動きが重要です」

 閉じられていた手帳をもう一度開き、秋晴は視線をその中に落とす。いったんは乗り越えた風を装ったとはいえ未だ動揺の中にいる流星は気づかず、同じく混乱を押し隠している秋晴も自覚することはなく、しかも巧妙な演技の一つとして成立していたが、秋晴は流星と視線を合わせようとしていなかった。

「人気が少なく、夜空が見渡せる場所。満月の夜で、いくつかの星の配置が条件を満たしている――――こうした夜にだけ可能なのが、『星祓ほしばらい』」

 少しずつ重々しさを増していく言葉、時に不可思議ミステリアスな悪女として、時に迷える子羊に手を差し伸べる先導者として。彼女は流星に道を示し、示した通りの道を進ませようと策略の限りを尽くす。

「『星祓い』を行うならば四日後。それを逃せば、次の機会はかなり遠いでしょう」

 流星の内にある動揺を、秋晴は確かに感じ取っていた。それをみすみす見逃すような愚かな真似を、権謀術数に長けた彼女が冒すわけはない。追い詰めて、最後に一本の道を示す。最後の一歩は、確実に彼自身に踏み出させるために。

「準備が必要なことですので、少なくとも三日後には結論を出していただく必要があります」

 眉をひそめて厳しい表情。秋晴には、『二番星』を求める利己心の自覚はあっても、こうして言動のすべてを自ら思うまま調節し、流星を特定の決断に誘導していることに罪悪感は欠片もない。だって、口にしていることはすべて事実なのだから。秋晴は心の底から、流星にとって『二番星』を捨てる以外の正解などないと信じているのだから。

「もう一つ、質問してもいいですか?」

「えぇ、なんでもどうぞ」

 しばしの沈黙の後、流星が口を開く。脳裏に浮かんでいるいくつもの情報を整理しながら、秋晴は気軽に答える。

「二番をとる星があるなら、一番をとる星、ってのもあるんですか」

 その質問に秋晴は少しだけ面食らった。聞かれる可能性について考慮してはいたが、可能性としては決して高くはないだろうと見積もっていた。この状況で、まず他人の話から始めようとする人種は、そう多くない。

(それだけ、銀くんの中での彼女の存在が大きなものだということですか)

 とっくの昔に辿り着いている彼の想い人の存在を脳裏に浮かべつつ、馬鹿正直にその名前を出すことは当然しない。

「ご想像の通りです。何をやっても一番になる、なんて羨ましい限りですよねぇ」

 とはいえ、その程度のことで狼狽する秋晴ではなかった。頭の中には、流星には伝えていない『彼女』にも思いを巡らせつつ。親しい友人に軽口を叩くような気の置けなさで、にへら、と笑ってみせる。

 二番を取り続けてきた人間は、人並み以上に強い一番への憧れを抱く。

 大抵の場合、人間による結果の解釈は、絶対ではなく相対。故にこそ、二番にとっての一番は、そのほかの人間にとっての一番より眩しくて憎らしい。

「そう、ですかね」

 はずだった。

 常日頃、表情と所作、その全てを自らの意図した通りに操作している秋晴は、その瞬間、思わず目を見開いた。幸いにして流星はどこか別のところを見やっていたが、わずか数秒でその事実に気づいて取り繕った秋晴は、その程度のことに驚いた自分自身にひどく動揺した。

「俺にはそれ、もしかしたらつまらないんじゃないかって思います」

 暫しの黙考の後、慎重に言葉を選ぶようにして流星が口にしたのは、秋晴を落ち着かせるのに十分なほど平凡な内容だった。

 大丈夫。これくらいのことなら、今までも似たようなことを言う子はいた。何も問題ない、軌道修正は容易だ、と自分に言い聞かせる。

「つまらない、かあ。まあ否定はしませんが」

 選んだ言葉も、口調も、声のトーンも、表情も、仕草も思いのままになっている。大丈夫、と心で深呼吸する。なにより自分には、こうして人の考えを誘導するには、あまりに向きすぎた能力がある。

「それは強者の目線ってやつですよ。多くの人は、何かで一番になるなんて経験はそうそうしませんから」

 こちらを見ている流星の視線に、先ほどまでと異なった点はない。己への信頼が徐々に強まっていることは、人間観察に長けた秋晴からすれば火を見るより明らかだと言ってもよいくらいだった。

「そうなのかもしれません、けど」

 なのに、ここで黙り込む、という予想は、またしても外れる。秋晴の額に、無意識の冷や汗が浮き出た。

「自分の努力が実を結んだのか、ただお膳立てされた道なのか、それが分からない結果ばかりじゃ、きっと気が滅入っちゃうんじゃないかって」

 流星の口ぶりは、本当に何でもないことをただ口にしているだけといったもので、けれど、そうして話し出すたびに、彼は自分ではない誰かの姿を見ていた。

 秋晴の脳裏に、一人の少女の姿が浮かぶ。プラスでもマイナスでもない、不思議な感情が波のように押し寄せてきて、心はその中に攫われまいと必死に耐え忍んでいる、不可解な感覚だった。

「あ、ごめんなさい。俺の周りにも、そんな人がいるんです。天文台星空って言って、すごい素敵な子で。だから、もしかしたらって思って」

 しばらく物思いに耽るように黙り込んだのち、慌てた様子で流星は取り繕う。流星のことはほとんどといっていいほど調べつくしている秋晴は、恋煩いに囚われる思春期の少年の姿に可愛らしさを覚えつつ、しっかりと必要な部分を取り繕う。

「……私が現在接触を試みているのは銀くんだけです。天文台さんとおっしゃいましたか、彼女に関しては、なんとも答えかねます」

 先ほどひどく動揺させられた時より、よほど上手く誤魔化す必要があるはずの話だというのに。今回は不思議と何の焦りもなかった。しつこくなく、わざとらしくない程度の申し訳なさを顔に浮かべて、軽く頭を横に振って見せる。

「分かりました、変なこと聞いちゃってごめんなさい。今日はありがとうございました」

 流星は少しだけ残念そうな表情を見せたが、それだけだった。大柄な体を椅子から立ち上がらせると礼儀正しく深々と頭を下げ、元来た道を引き返そうと踵を返す。

「あ、銀くん」

 その瞬間。秋晴は、自分が流星の名前を呼んだことに気が付いた。

 流星は振り返り、秋晴の言葉が続くのを待つ。

「……いえ。なんでもありません、今日はありがとうございます。良い連絡をお待ちしてます」

 秋晴もまた頭を下げ、流星がそれに会釈し。流星は今度こそ、幾分か夜の気配が強まってきた公園を後にした。

 その背を見送りながら。秋晴は、なぜ自分が彼を呼び止めたのか、心の内で何度も自分に問いかけていた。

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