第四話 俺と俺の一番星について
倒れた自分を放置して朝練に向かった幼馴染と、若干申し訳なさそうな視線を送りつつもその後を追いかけていった後輩。未だに痛む脇腹を抑えつつようやく立ち上がった流星は、何がそんなにめいろの機嫌を損ねたのかと頭を悩ませていた。その鈍感さこそが原因なのだとは露ほども思わず、
(しかし、すでに聞き及んでるってことは、あいつ一片さんと仲良いのか? とすると、いかに仕方がないこととはいえ、さすがに断った理由の言い方が悪かったかな。もうちょっと、一片さんがいい人だってこと伝えればよかった)
一周どころかXYZ軸すべての合計で540°くらい回って、それでもまるで見当違いな推測をしつつ、下足箱へ。
毎日のことだが、今日も流星がクラスで一番らしい。
「よし」
心の声が思わず漏れ、静まり返った校舎で妙に反響する。いそいそと靴を履き替えると、流星は自身の教室に向かった。こうも早く登校しているのには、めいろの付き添いだけでない理由が存在する。
無人の二年三組。時計が示すのは七時二十分。流星の目当ての『彼女』が来るまで、いつも通りなら十分程度ある。
参考書とノートを開き、シャーペンを手に取る。傍から見れば、朝早くから学校で勉強をする勤勉な学生だった。それは半分正解で、半分間違い。
(あくまで自然に、自然にだぞ銀流星。今日もいつも通りに)
いつ『彼女』が入ってきても問題ないよう、決して考えを口には出さず。時折教室の時計に視線をやりつつ、待つこと数分。
がらり、と教室の扉が開く。
「おはよう、銀くん」
静まり返った湖面に、一滴の雨粒が落ちたような。
待ち望んだ声に、今すぐ振り向いて大声で挨拶したい気持ちを抑えて、ゆっくりと声の方に向き直る。
さも自然に見えるかのように、本人としては精一杯の配慮をして。その成功具合は、実際には赤点ギリギリだったりするわけだが。
「おはよう、天文台さん」
視線の先にいるのは、一人の少女。
肩に届く長さの艶やかな黒髪は、内側に軽く巻かれて。くっきりとした二重のまぶたに長い睫毛が、澄んだ瞳を柔らかく彩る。ほっそりとした顔の中で、特に耳から顎にかけてのラインは、古代彫刻の様に美しさそのもの。その秀麗さは顔だけではなく、女性としては高めの背丈と見とれるほどにスラリとしたスタイルは、人ではなく神の手による美を思わせた。スクールバッグを両手に持ち、くるりと振り返って扉を閉める所作には、その育ちの良さが存分に表れており。指定の紺ブレザーに漂う高貴さ、暗いカーキ色のスカート丈は他の女子より少し長めで、学校の制服をこんなにも美しく着こなす人間がいること自体が衝撃的と言ってもよかった。日の光すら彼女を侵せないのではと思うほど、陶器の様で、それでいて不健康さとは程遠い白い肌。右隣りの席に彼女が腰かけた瞬間、輝きの盛りで咲き誇る春の花のような柔らかで甘い香りが鼻腔をくすぐる。
ああ、女神というものが存在するなら、それは彼女のことだろう。
ほんの一瞬のうちにそれだけの思考を巡らせつつ、少女が荷物を片付け終わるタイミングを見計らって、流星はまた声をかける。
「天文台さん、ちょっといいかな」
銀流星の意中の人。
星空は少しだけ首を傾げて、
「どうしたの」
と返す。
(可愛いなあもう! 天文台さん、今日も可愛い!)
「数学で、少し聞きたいところがあって」
少しでも外に漏れだした瞬間に塀の中に放り込まれてしまいそうな、早朝から浮つきまくりの内心を必死に抑え込み、本人としては平静を取り繕う。
「意外。銀くんみたいに賢い人が、私に質問するなんて」
心の底からそう思っているとしか思えない穏やかな物言いに、流星は敬服の思いで胸がいっぱいになる。
「俺は賢くないよ。天文台さんに勝てたこと、一回もないし」
入学以来、全ての定期試験・模擬試験において席次は常に一位。十段階評価の通知表には十以外なく、体育や芸術までお手の物。特にピアノにおいては並ぶ者がなく、進学校である流が丘高校において、比肩しうる者はいないと言われるほどの天才にして、日本有数の総合商社である天文台グループの令嬢。
それが流星の恋する相手であり、同じ天文部所属・同じ二年三組のクラスメイト、天文台星空であった。
「……そんなことない。偶然だよ」
ふるふると首を横に振って否定してみせる星空の少し困ったような表情に、流星は穏やかに微笑みを返す。
「謙遜も過ぎるとなんとやら、だよ」
(でもそこが好き!)
内心は、ちっとも穏やかではないわけだが。
参考書を机の端に、机を少しだけ星空の方に寄せる。大きな瞳が、流星の指し示す赤丸のついた問題をなぞっていき、ほんの少しだけ細められる。
細く長い指が、絹のような黒髪を左耳にかける。
胸が締め付けられるような感覚に、流星は身震いする。彼女は、本当に、どこをとっても美しい人だった。
「うん、だいたい分かったと思う。それで、どこ?」
「あ、うん。えっと、ここでの式変形なんだけど」
一瞬、没入のあまり反応が遅れつつも、昨日の晩一時間弱分からなかった点を質問。
話の口実に噓をついているわけではない。こうして質問しているのは流星の友人たちの入れ知恵だったが、内容は彼が本当に悩んで分からなかった部分だった。
星空は、解説を読むでもなく、端的かつ的確にその質問に答える。
時間にして、僅か数分。
「すごいな、すっきり分かった」
口をついて出たのは、感嘆の言葉だった。
自身が理解する能力と他者に教えられる能力。その両方が極めて高い水準にあることを、改めて実感させられる。
「銀くんの飲み込みが速いんだよ」
事もなげにそう言って見せる微笑みに、流星は、己が及ばない圧倒的な才覚を感じる。
ほんの少しの悔しさがあったが、それ以上に強い畏敬の念を抱いた。
「ありがとう」
頭を下げる流星に、星空は薄く微笑みを浮かべる。
早朝の教室に、再びの静けさ。
「ところで天文台さん」
「今度はどうしたのかな」
流星は、取り繕わない飛び切りの笑顔で一言。
「今日の放課後一緒に勉強しない? 俺、静かでいい場所知って――」
「ごめんなさい。今日は部活に行きたいし、その後はピアノがあるから」
星空は、微笑みを一切崩すことなく返答。
「部活は俺もお供するよ。勉強は明日でもいいんだけど」
「ごめんなさい。明日は予定があるの」
間髪入れず放たれた返しの刃に、星空はまたも完全にタイミングを合わせて相殺。
「じ、じゃあ明後日は。だめなら明々後日でもいいんだけど」
「両方予定があるの。どっちかは部活かな」
「ら、来週。来週のどこでもいいんだけどな」
「全部埋まっていく予定なの」
「ほあっ! 予定が立つ予定! 多忙なのね天文台さんは!」
星空は、変わらない微笑み。
流星も、泣きたい気持ちを堪えての笑顔。
早朝の教室に、今度こそ沈黙が戻る。
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