ワン・アワー・ラヴ

有明 榮

ワン・アワー・ラヴ

 赤穂あこうが友人の結婚式を終えて名古屋にある実家から帰ってきたのは、風の涼しくなった九月下旬のことだった。福岡空港は地下鉄の駅に直結しているため、移動はかなり楽である。十八時半前の列車に乗ると、やはり車内に人は多かった。姪浜より先、筑前前原ちくぜんまえばるとか西唐津にしからつまで走る車両はいつも人が多いので、席が空いていなくても珍しくない。


 その日も同じように満席で車両の中央にも人がたまっていたので、赤穂はハンドバッグを乗せたキャリーケースを引いて、開いているドアの反対側に陣取った。自宅が大濠公園おおほりこうえんにほど近いのと、身長が平均的な同年代の人間より高いので、そちら側が空いているのは好都合だった。


 彼はハンドバッグから、おもむろに一冊本を取り出した。出張とか帰省とかで長い移動をするとき、彼は決まって小説を一冊か二冊ほど持ち歩いた。今日取り出したそれは志賀直哉の『暗夜行路』だった。

 主人公の謙作と年がほど近く、また名古屋からわざわざ出てきた身である為に一種の孤独を引き摺っていた赤穂にとって、謙作の身分にはどことなく親近感を覚えるものがあった。


 電車が博多駅に着いた時、ふと、自分の目の前に一人の女が立った。彼は本から目を上げて一瞥したが、思わず目を離せなくなってしまった。そうして、目を離せない自分に驚いた。


 彼女の見た目というより、身にまとう空気のようなものが彼を惹きつけたのだった。肩の辺りに伸びた焦げ茶色の柔らかな髪と薄い身体だけ見ると、他にも似たような人間はたくさんいた。だが決して太くはないが濃くて力強い眉と、マスカラなしにはっきりわかる睫毛、鳶色の瞳が、その人がその人であることを特別に引き立てた。

 黄土色のブラウスの下にあるはずの膨らみはほとんど分からなかった。逆に、膝上ほどの丈の黒いタイトスカートからすらりと伸びる白い脚が強く印象に残った。


 次の祇園ぎおん駅に差し掛かるとき、電車が揺れて人混みが波打った。つり革をつかんでいなかった彼女は前のめりになり、思わず赤穂に寄りかかる形になった。赤穂は咄嗟に、本を持っていない左手を腰に回した。他の乗客は皆手元のスマートフォンに夢中になっていたので、幸運にも誰も気にかけていなかった。女は小さくすみません、と言った。赤穂はいえ……と言ったきり何も言わなかった。


 女はなかなか赤穂から離れなかったが、彼はそれが元の姿勢に戻りにくいからだと考えた。こうも人が詰め込まれた電車の中では、迂闊に足を動かして立ち位置を変えることすらままならないのだろう。ところが彼女は、呼吸を一つ大きくすると、寧ろ赤穂の胸に顔を埋めた。そして顔を上げると、か細い声で何か言った。赤穂の聞き間違いでなければ、それは「私と来て」と聞こえた。

 赤穂は目を見張ったが、地下鉄の騒音と顎下にある二つの瞳が潤んでいるのとで、思わず首を縦に振ってしまった。それで、女に続いて次の中洲川端なかすかわばた駅で地下鉄を降りてしまった。目が合ってから三分と経っていなかった。


 そのまま、赤穂は彼女に連れられて川沿いの安ホテルに入っていった。部屋に入るなり、彼女はブラウスのボタンを外しながら赤穂に迫った。胸も腰も細いが、シルエットの整った美しい身体だと薄暗い中で赤穂は感じた。コンドームは彼女が持っていた。静かな見た目とは裏腹に、彼女は大きく髪を振り乱し、喘鳴とともに身体を仰け反らせた。彼も久しぶりだったので、それが余計に刺激した。


 ホテルを出るとき、彼女は何も言わなかった。交差点に来ると、それじゃあ、と言って彼とは反対方向に歩き出した。ホテルで何となく連絡先を交換していたので、帰りの地下鉄でメッセージを送ってみたものの、既読が付くことはなかった。まあ三時間弱過ごした程度だしそんなものだろう、と赤穂は飲み込んだ。学生時代、合コンの流れが発展して……という経験はあったが、その後も交流があったケースは無かった。

 赤穂が家に帰ったとき、時計は二十三時を回っていた。熱いシャワーを流しながら、彼は壁に手をついて、つい一時間ほど前に自分に跨っていた女性の映像を紡いだ。だが不思議と、平均的な体格と骨ばった皮膚の感触と、それから布を裂いたような吐息交じりの声だけが脳内に残っていた。下着の色すら思い出せなかった。目元と対照的に、口周りとか顔全体の印象が薄かった。


 風呂から出て髪を乾かすと、彼はベッドで横になり、そのまま吸い込まれるように眠りに落ちた。明日は有給休暇で休みだった。

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ワン・アワー・ラヴ 有明 榮 @hiroki980911

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