第7話 魔導師の女(後)

 悪しき魔導師と、蛮族の剣闘奴隷。宿屋にて四人の市民を惨殺した、恐るべき二人の凶賊。彼らを捕らえるべく、帝都は騒然としていた。

 街中を捜索する兵隊。固く閉ざされた帝都外壁の門。帝都からの脱出は、困難を極めるだろう。

 姿隠しの魔法は、大勢を相手には通じにくく、魔法使いにはさらに通じにくい。空を飛ぶ魔法は、出来なくはないが、苦手だ。

 地上からも空からも脱出は不可能。ならば残された道はひとつ。


「地下から逃げるのさ!冴えてるね、私は」

「だからって、これはないわー」


 得意気に豊満な胸を張るアリエキシアスと、げんなりとした顔のアイナ。トゥーラは小具足と刀を改め、戦いに備えている。

 三人がいるのは、真っ暗な坑道だ。一切の光が差さないそこで、ランタンを置いて休息を取っている。

 だが、アイナの気分はまるで休まらない。彼女の目の前には水が流れているが、それは川ではない。水路だ。

 それも、生活排水の流れる下水路である。

 リヴォグリフ帝国の都市には、必ずと言っていいほど下水路が整備されている。一説には、グリフォニウムが建てられた場所は古代文明の遺跡であり、その痕跡として下水路があったのだとか。それを参考にして、リヴォグリフ帝国は街々に下水路を造ってきたのだ。

 そして、その下水路は今や、三人の脱出路となっているのだった。


「臭うかい?魔法でもって、空気は浄化してるはずだけれど」


 不思議そうな顔をするアリエキシアス。

 実際のところ、アイナが吸う空気は澄んでいる。すぐそこを汚水が流れているとは思えない。それは、アリエキシアスがくれた紅玉ルビーの首飾りのお陰だ。銀の鎖がランタンの灯りを反射し、美しく煌めいている。


「“紅玉11”にて」「“浄化11”する」


 魔法のかけられた紅玉は、周囲の毒素を浄化してくれているらしい。同じものを、トゥーラも身に付けている。

 汚臭、悪臭とはおおよそが有毒なものの臭いだ。なら、吸う前に浄化してしまえば、それもなくなる。お陰で不衛生な下水路にありながら、普通に呼吸が出来ていた。

 アリエキシアスが言うには、宝石は魔法の材料にしやすいらしく、いくつも持ち歩いているのだとか。


「でも、やっぱ下水道って気にならない?」


 要は気分の問題だ。

 敷物を敷いて座るアイナは、顔をしかめている。壁や床にはカビが生え、目の前の水路には汚水が流れている。到底、リラックスできる場所ではない。

 そう思っているのは果たして、アイナだけなのだろうか?アリエキシアスは平然と休息しているし、トゥーラも装備の点検を終えると、大あくびをしていた。

 これは、自分が神経質なだけなのだろうか。あるいはアイナの世界とこの世界では、衛生観念がまるで違うのかもしれない。いや、間違いなく後者だ。


「そもそも、ルビー一個で空気が綺麗になるって、不思議なんだけど」

「まあ、魔法だかんな。理屈なんざ通用せんだろ」


 首飾りを訝しむアイナに、興味なさそうなトゥーラ。

 二人の反応に、アリエキシアスはニヤリと笑う。


「いやいや、魔法にはちゃんとした理屈、理論があるんだよ」


 紅玉の首飾りを玩びながら、アリエキシアスは楽しそうに話し出した。

 彼女にとって、魔法の話をする相手とは師であるターグディムスばかりであった。自分より魔法の知識を持たぬ者と接する機会など、ほとんどなかったのだ。

 そして、自分の好きなものについて説明する時、人は常より饒舌になることが多い。


「私の魔法は数秘術と呼ばれるものでね。あらゆる事物に宿る真の数を解き明かし、活用する魔法だ。例えば紅玉ルビー浄化ピューリフィケーションは同じく11だ。だから、紅玉には汚れを清める力を宿すことができる」

「なるほど……?」


 よくわからない。そもそも、真の数ってなんだ。


「これらの数を組み合わせることで、様々な現象を起こすのが数秘術だ。だから材料になる数は必要だし、なんでもできるとまではいかないさ」


 アリエキシアスはそう言うが、アイナからすれば万能もいいところだ。頭が良くて、魔法が使える。

 チラリとトゥーラを見る。そう言えば、宿屋では彼が戦ってくれたから助かったのだ。実際に戦う姿は見ていないが、四人の敵を倒した彼は、きっと、とても強いのだろう。

 そこで、振り返ってみると、アイナは助けられてばかりだ。出会った時から今までの数時間、ずっと二人に守られている。


「……なんか、ごめん」


 つい、謝ってしまった。

 お礼を言うべきなのだろうけれども、ここまでくると申し訳なさが先立つ。それも、なんとなく口に出てしまった謝罪は、唐突過ぎて要領を得ない。


「アタシ、役立たずだ。二人の邪魔になってるよね?」


 溜息と共に、言ってしまった。

 だが、思ってしまう。二人はアイナを助ける義理などない。見捨てられても仕方がない。なのに、こうして一緒に逃げてくれているのだ。

 命がけのはずなのに、こんな足手まといを連れて行ってくれるのだ。

 それがどうしても、申し訳なく思えてしまう。


「俺としちゃあ、気にはしてねぇ」


 落ち込み出したアイナに、トゥーラの言葉が聞こえた。


「俺はアリエキシアスの用心棒だ。雇い主がお前を連れてくってんだから、ついでに守るのも仕事のうちよ」


 本当に、当然のことのようにトゥーラがそう言った。

 まるで気にしていない、と。

 次いで、アリエキシアスも笑顔を崩さず、アイナに応えた。


「私も、特に謝られることじゃないと思うよ。私は私で、勝手にキミを助けてる。だから、キミは勝手に助けられるといい」

「なにそれ……?」


 自分は好き勝手にしているだけだと、アリエキシアスは笑った。

 釈然とはしないが、とりあえず、それで納得するしかない。もしかすると、これから役に立てることもあるかもしれないのだし。

 もっとも、なんの特技もなさそうな自分が役立つときとはなんだろうか。


「……せめて、チート能力とかあればいいのにな」

ずるチートだって?なんだいそりゃあ?」


 また、口を突いて出た言葉にアリエキシアスが食いついてきた。

 しまった。くだらないことを言った。アイナはそう思うが、既に美貌の女魔導師は興味津々と言った様子だ。

 どう説明したものか、少し考える。


「よくある設定、かな。異世界に行くと、なんかすごい能力とかもらえるの」


 だからどうして、こんな知識ばかりスラスラと出てくるのか。記憶をなくす前の自分はオタクだったというのか。

 自分で言って、本当に馬鹿馬鹿しいと思う。そもそも、これまでステータスもスキルもなかったし、どうも冒険者ギルドもないようだ。ここはそういう、定番のものがある異世界ではないのだろう。


「成程。“歪み”のことかな」

「チートっぽいのはあるんだ……」


 しかし、アリエキシアスには心当たりがあるようだった。


「世界には色々な理がある。物は下に落ちるとか、火は熱いとか、そういう物理法則なんかを、理と称する。そして、これは世界ごとに少しずつ異なっているものだ」

「理が、違う……でも、別に違和感なんてないんだけど」

「きっと、体感できないほど細かな違いなのだろうね。けれども、この世界とアイナちゃんの世界は、間違いなく理が違う。そして、違う理を持った界渡りが存在すると……理が歪むのさ」


 界渡りというのは、世界にとって異物だ。定められたルールにそぐわない者が混入することで、世界の理に支障をきたす。

 言ってみれば、コンピューターのバグのようなもの。アイナはそう例えを考えてみたが、きっとこの世界の人々には通じないのだろうと、口には出さなかった。


「界渡りの周囲、あるいは自身に現れる“歪み”。それを能力というのなら、アイナちゃんの言うなのかもね」

「“歪み”かぁ……それって、どうやって使うの?」


 自分が役に立てるかもしれない。そう考えると、“歪み”とやらに興味が湧く。

 だが、アリエキシアスはその問いに肩をすくめて見せた。


「さあ?“歪み”は界渡りによって違うからね。調べてみないことには、なんとも」

「あ、そう……」


 がっくりと肩を落とすアイナ。どうやらそう簡単に力なんて手に入らないようだ。

 せめて“歪み”のヒントでもないものか。


「あれじゃねえか?お前の鞄」


 そこで、トゥーラが口を開いた。

 鞄……そう、鞄だ。アイナのスクールバッグは、二人と出会う前に一度、紛失したものだった。それが、いつの間にか手元に戻っていた。

 いや、それだけではない。そう言えば兵士に掴みかかられ、シャツのボタンが取れたはずだったが、そちらもいつの間にか直っていた。


「つまり、持ち物が元に戻る“歪み”?なんか……地味だね」


 正直、この状況では役に立つまい。


「ま、うだうだ考えてもしょうがない。ほれ、寝るなら今のうちだ。寝ろ寝ろ」


 トゥーラが横になりながら、二人を促した。

 そうだ。寝込みを襲われて逃げ出した三人には、何より睡眠が不足している。生きてこの帝都を出るために、今はゆっくりと寝なくてはならない。

 正直、かなり抵抗のある環境だが……贅沢も言ってられないのだ。


「そうだね……おやすみ」


 こうして、三人は下水路で夜を明かすこととなったのである。

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