第6話 魔導師の女(前)

 宿からしばらく離れた路地裏で、三人は身を潜めながら一息吐いていた。

 いつの間にか、街中には松明を掲げた兵士がちらほらと現れていた。探しているのは、アリエキシアス達だろう。

 どうしてこうなったのかと、アイナは不安そうにしている。アリエキシアスは何を考えているのか、その表情からは読み取れない。


「ねえ、どうしてアタシたちが逃げてんの?」


 襲われたのは自分達だ。事情を説明すれば、誤解は解けるのではないか。アイナはそう言う。

 襲撃してきた者を殺したのは、日本なら過剰防衛だろう。だが、この国ならそうではなさそうだ。ならば、と。

 その考えに、アリエキシアスも同意する。


「私達は何も悪事を成してはいないのだから、追われる謂われも隠れる謂われもない。だのにどうしてこうなったんだろうね?」


 そう言うアリエキシアスは、どうも緊張感がない。 


「連中、得物が上等だった」


 忌々しそうに、トゥーラが口を開いた。


「それに、動きも素人や我流じゃねえ。奴ら、兵士だ」


 剣も盾も、決して安いものではない。それを四人分揃え、扱い慣れている。それはただの賊ではあり得ない。

 無論、敗残兵が盗賊に身を落とすことは珍しくない。だが、辺境ならばさておき、帝都にそのような輩がいることこそあり得ないのだ。


「部屋の鍵は、宿の親父に金でも握らせたんだろうよ。騒ぎを起こさずに寝込みを襲う手筈だったろうな」

「待って、待って。なんで兵隊に襲われるの?」

「知るかよ」


 アイナが口を挟むが、トゥーラは乱暴に一蹴する。

 襲われる理由などどうでもいい。それよりも、襲ってくる敵をどうするか。トゥーラにしてみれば、そちらの方が重要だ。


「街に兵が出るのも妙に早かった。前もって兵が控えてやがったんだろうさ」


 つまりこれは、事前に計画された謀略ということだ。トゥーラはそのように結論した。

 相手の目的は不明だ。相手が帝国の何者なのかも不明だ。だが、少なくとも、狙いがいことは、わかる。

 一介の剣闘士を、帝国がどうこうする理由はない。ならば狙いはアリエキシアスかアイナだろう。


「私は心当たりなんかないなぁ。帝都に来たのは今日……じゃないか、昨日が初めてだし」


 アリエキシアスは腕を組み、豊かな胸を押し上げながら考える。しかし、本人としては帝国から恨みを買う覚えはないようだ。

 ならば、アイナはと言えば。


「マジでなんにもわかんないんですけど」


 記憶喪失の人間に心当たりなどあるはずもない。

 結局、敵の狙いはまるでわからない、というこしかわからなかった。







 時は少しばかり遡る。それはアリエキシアスがトゥーラと出会う日の、午前中のことである。

 リヴォグリフ帝国帝都グリフィニウム、その帝城は謁見の間。大きな扉から真っすぐに赤い絨毯が敷かれ、その先は数段の階段まで続いている。そして、段上には絢爛豪華な玉座が置かれていた。

 玉座に座るのは、髭を蓄えた逞しい男────ヴィルフレド・アルフォンソ・リヴォグリフ。リヴォグリフ帝国第六代皇帝である。

 ヴィルフレドの両脇には近衛兵が控え、前方には幾人もの貴族、宮廷魔術師が並ぶ。

 そして、正面に跪く少女がひとり。腰まで伸びる青紫色の髪は、毛先だけが橙色をしており、黄昏の空を想起させる。

 少女に対し、皇帝の臣下の一人が声をかけた。


「面を上げよ」


 その声に従い、少女が顔を上げる。その美貌を前に、幾人かの貴族、魔術師が感嘆の声を零す。


「御初に御目にかかります、皇帝陛下。“無窮の”ターグディムスが最後の弟子、アリエキシアス・カリフィアに御座います」


 その名を聞いて、皇帝ヴィルフレドは小さく頷いた。


「御苦労であった、アリエキシアス。ターグディムスの手紙は読ませてもらった」


 ヴィルフレドの表情は、些か暗い。

 アリエキシアスが帝都を訪れたのは、皇帝に師の手紙を渡すためであった。

 “無窮の”ターグディムス。それは帝国北部の山に住まう、伝説的な大魔導師の名だ。彼の名は帝国建国の頃より語られており、いくつかの国難を、その知恵と魔力でもって打破したという。

 その弟子であるアリエキシアスが持ってきたという手紙は、皇帝にとって良くないものであった。


「ターグディムスは、もうこの世界にはおらぬのだな」


 皇帝の嘆きに、宮廷がざわめいた。

 二百年を生きた大魔導師が、世を去った……死んだというのか?一体何事かと、動揺が広がる。

 だが、アリエキシアスが、すぐにそうではないことを教えてくれる。


「はい。我が師は魔道の極みを求め、異なる世界へと旅立ちました」


 その言葉は、死んだということを意味するものではない。ただ、多くの貴族にはその意味するところはわからずにいた。

 逆に、多くの宮廷魔術師達は、その意味を理解し驚愕していた。よもや自ら界渡りとなるとは、まさに魔法の深奥に至った者の所業である。

 遥かなる世界の果てより、世界の外へと旅立つ。それこそは真理を求める者の行きつく先、そして本当の始まりとされる。それを成し遂げた者は、歴史上に十人といるかどうか。

 高名な魔導師がそれほどに至ったということは、驚くべきことであり、祝福すべきことなのであろう。しかし、残された側にとっては問題だ。

 ターグディムスは決して帝国廷臣というわけではないが、歴代の皇帝は莫大な恩賞をと引き換えに、危急の事態に協力を求めてきた。謂わば、帝国の切り札だったのだ。


「魔王との大戦おおいくさも、ターグディムスのお陰で救われた……これからもその叡智を借りたかったのだがな」


 十年前の出来事を思い返し、ヴィルフレドは苦笑していた。

 数多の怪物、数多の悪魔に君臨する魔王を退けるのに、ターグディムスは不可欠な男だった。いつか同じような危難が迫った時、もう彼を頼ることはできないのだ。


「なんとも、残念なことだ」


 何も、自分の治世で旅立たずとも良かろうに。そう言いたくなるのを、皇帝は堪えた。


「異なる世界に行ったとなれば、おそらく今生の別れであろう。そなたも辛かろうな」

「はい。私も、御師匠にはまだまだ教わりたいことがありました」


 アリエキシアスもまた、寂しげにそう口にした。その顔は儚げで美しく、貴族達の心を揺さぶる。


「で、あろうな……アリエキシアス。偉大なる師と別れ、そなたはこれからどうするつもりだ?」


 ヴィルフレドが問う。

 魔導師とは、知識を蓄え、魔法を研鑽し、真理を探求する者である。導き手であるターグディムスと離別したアリエキシアスは、これからは独力で研究と修行に励まねばならないのだ。

 それはきっと、困難な道程であろう。しかし、アリエキシアスは涼やかに微笑んでいた。


「私はこれより、旅に出ようと考えております」

「ほう……どこへ行くつもりだ?」

「世界中、どこへでも」


 それはまるで、世間話のような気軽さだった。


「十三の頃から、御師匠の塔で勉学と研鑽を積んでおりましたが……お陰で外の世界をてんで知りません。折角の機会ですので、ここは見たことのない物を見て回ろうと思います」


 大魔導師に師事し、長い年月を学ぶことに費やしてきた。それでも、世界は知らぬことのほうが多いのだ。本を読み理を解しても、知った気になっただけということが、どれ程多いことか。

 だから自分の目で見て回りたい。もっと学びたい。その探求心の、なんと素晴らしいことか。

 だが、しかし。


「それは良いお考えですが────」


 一人の宮廷魔術師が、口を挟んだ。

 柔和な顔付きの、壮年の男だ。丸い縁の眼鏡をかけたその顔は、人の好さを物語るかのようだ。

 眼鏡の宮廷魔術師は、少しばかりもうしわけなさそうな表情で言葉を続ける。


「女性の独り旅というのは、危のうございます。先年の戦の影響で、まだまだ治安に不安がありますからな」


 十年前の魔王との大戦に、二年前の西の蛮族との戦。短い期間で戦いを繰り返し、帝国辺境は怪物に野盗が跋扈するという。如何に大魔導師の弟子とはいえ、たった一人で旅をするのは危険と困難が多すぎるだろう。

 それについて、ヴィルフレドも深く頷いた。


「確かに、アドルアルディ伯の言う通りだ。残念だが、我が国は未だ平穏とは言えぬ」


 ならば、と。切り札たる大魔導師を失った皇帝は、若き魔導師に向けて言った。


「この帝都で、我が臣として仕えてみる気はないか?ここには古今東西の知恵が集まる。魔道を研鑽するにも、知らぬものを知るにも、悪くはなかろう?」

「いえ、遠慮いたします」


 すっぱりと。にべもなく、アリエキシアスはヴィルフレドの提案を断った。

 この帝国でもっとも偉大な皇帝の誘いを、まるで興味がないと言わんばかりに、断った。

 貴族達も魔術師達も、唖然とするばかりだ。なんと畏れ多いことかと、ある者は戦慄し、不敬であると、ある者は怒りを覚えた。

 しかし、当の皇帝はと言えば、怒りや苛立ちがなど見せてはいない。強いて言えば、困り顔だった。


「ふむ、駄目か?宮廷でも学院でも、最高の環境をやるぞ?」

「御気持ちだけで結構です」


 食い下がる皇帝を一蹴する。周囲は背筋が凍る思いでそれを見守るしかない。皇帝ヴィルフレドの怒りに触れれば、あの可憐な少女はその首を刎ねられることになろう。

 そんな一同の不安を余所に、アリエキシアスは皇帝に微笑みを返していた。


「それでは御師匠の塔と、さして変わりありますまい。帝都で学べるのは、帝都に集うもののみ。私は私の意思でもって学びたいのです」


 柔らかで、しかし断固とした拒絶の意思。それは皇帝にすら屈せぬ決意なのか、はたまた、皇帝の権威に一切の畏敬を持たないのか。

 おそらくは、後者であろう。アリエキシアスの瞳を見て、ヴィルフレドはそう理解した。そして、それで良いと諦めた。

 魔導師は魔術師とは異なる。魔術師は、魔法を技術として修め、役立てる者だ。

 しかし、魔導師にとっての魔法は違う。彼らは魔法を力や技のために学ぶのではない。ただひたすらに、世の真理を解き明かすために学ぶのだ。

 思えば、ターグディムスもそうだった。ヴィルフレドが彼の賢者に会ったのはほんの数回だったが、世俗と断絶したその価値観には、ある種の崇敬の念を抱かされたものだ。


「あの師にしてこの弟子、か……野暮を言ったな。忘れよ」


 ヴィルフレドが苦笑し、勧誘の言葉を引っ込めた。

 独り旅が危険だなどと、そんな心配は元よりしてはいない。ヴィルフレドも、宮廷魔術師のアドルアルディも、“無窮”と謳われたターグディムスの弟子が、ただの小娘であろうはずがないと理解している。

 ただ、ターグディムスから受け継いだ叡知。それが欲しかっただけのことだ。

 もっとも、ただの方便であったことなど、誰の目にも明らかではあったろう。あれこれ理由を着ければ、あとは皇帝の権威で頷かせられると見込んだのだが。


(あれほどとりつく島もないと、返って清々しいわ)


 ヴィルフレドが苦笑する。それから、すっかり気持ちを切り替えることにした。


「よし。ならばせめて、始めにこの帝都を存分に見ていくが良い。確か今日は、剣闘試合があったな。観戦してみぬか?」


 こちらの提案には、アリエキシアスはパッと顔を華やがせた。


「是非に!剣闘は見たことがありませんでしたし、興味があります!」


 まるで無邪気な小娘のようだ。まったく、皇帝との謁見にあって、これほどまでに自然体であるとは、驚くべき図太さである。

 ヴィルフレドはいっそ微笑ましさすら覚えてしまう。


「では、誰ぞ剣闘に詳しい者を共に付けよう。楽しんで来るが良い」

「有難う御座いました、陛下」


 こうして、皇帝と魔導師の語らいは終わった。

 アリエキシアスは謁見の間を後にすると、闘技場への案内役を待つため、別室へと移った。そこもまた、客人に帝国の威信を見せつけるような、豪奢な部屋だ。

 そこで一人、物思いに耽る。


(女の独り旅は危険、かぁ。なるほど、そういうものか)


 身の危険など、長らく感じてこなかった。それもこれも、人生の大半をターグディムスの魔法が守る塔に引きこもって暮らしてきたからだ。

 外の世界、人間の社会には危険と悪意が満ち満ちている。ヴィルフレドとアドルアルディの言葉は、それを思い出させてくれた。のみならず、帝都で安全に修行に励めと言ってくれたのだ。


「親切な人達だなぁ」


 本心からの呟きであった。

 流石は大陸に名高き偉大な皇帝。その人徳は確かなものだ。あれが方便だなどと、そのような疑念は彼女の中に一切ない。

 そして、そんなヴィルフレドが剣闘観戦を勧めてくれた。剣闘奴隷が戦い合う試合の観戦をだ。


「……そうか、剣闘士は基本、奴隷なんだ」


 ならば、金で買うことも出来る。

 独り旅が危険というなら、腕の立つ奴隷を買えばいい。ひょっとしてヴィルフレドは、剣闘士から見繕えと言っているのではないか?

 あれだけ親切な人だ、きっとそうだ。あの人は、御師匠のような偏屈で意地悪な老人とは違うのだ。

 人間に触れる機会の少なかった魔導師は、本気でそう思っていた。







 一方、帝城の中庭にて。

 美しい薔薇の咲き誇る庭園。その中央にあるのは、円形の屋根を、外周部に並ぶ柱で支えた神殿のような小さな建造物……装飾の為だけに建てられた、フォリーと呼ばれるものだ。

 リヴォグリフ帝国魔術伯爵、オルフレード・アドルアルディは、フォリーの影に佇んでいた。その傍らには、陰鬱な顔の騎士が控えている。


「アリエキシアス殿は、陛下の御誘いを断ったそうですな」


 騎士の言葉には、抑揚というものがない。人間性を排したかのような、冷たい声だ。

 その言葉に、アドルアルディは柔和な笑顔のままに頷いた。


「残念です。彼女にはターグディムス殿の智慧を教授願いたかったのですが」


 魔術師として、偉大な魔導師の叡智を、一端でも理解したいと思うのは当然だ。目指すものは異なっても扱うものは同じ。ならば、教えを授かることで得るものは必ずある。

 しかし、その機会は失われた。ならば、別の手を講じるのみだ。


「リベルト。アリエキシアス殿を、私の許へお連れしなさい。他の者には内密に」

「……如何なさるおつもりで?」

「ターグディムス殿の住んでいた塔……彼女は、その鍵を持っている筈です」


 魔導師の住処とは、言ってみれば研究所だ。そこにはターグディムスが積み重ねた魔導の歴史が遺されているだろう。

 それを手にすれば、より強大な魔力が手に入る。帝国に仕える魔術師として、更なる高みに至ることが出来る。故に、如何なる手段であろうとも、ターグディムスの塔を我が物にするのだ。

 厄介なのは、魔導師の住処はその魔法によって守られているのが常識だ。凡百の魔導師ならばさておき、“無窮の”ターグディムスが塔ならば、その守りは計り知れない。


「ですので、鍵を譲ってもらいます」

「生け捕りは困難と思われますが」

「ふむ……でしたら、死体でも構いません。所持品、身体、それから霊体。全て調べれば、いずれ鍵は手に入るでしょう」


 アドルアルディの顔は穏やかで、優し気だ。しかしそれは、彼が善良であることを意味しない。

 彼には、人間的な良心が欠如している。だから、非道に際しても心穏やかなのだろう。

 リベルトも、主であるアドルアルディの非人間性を理解していた。その上で、アドルアルディ家に仕えるのが、彼の生き方だった。彼もまた、私情に乏しいという意味では、人間味の薄い男なのだ。

 アリエキシアスを亡き者にする。それでアドルアルディ家が栄えれば、彼らに仕えるラストール家もまた栄える。そして、もうひとつ。

 アリエキシアスが他国に流れることは、危険だ。この一点のみは、リベルト個人の考えであった。


 このようにして、アリエキシアス暗殺計画は立案され、深夜に決行された。その意図を、アリエキシアス本人が知らぬのは無理からぬことであった。

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