第5話 夜に逃げる
皆人寝静まった夜更け。真っ暗な闇の中を、真っ黒な四人の男達がゆっくりと進む。
男達が身に纏うのは黒い服。顔も黒い覆面で隠し、闇の中に溶けるような出で立ちだ。
手には小振りな剣と、小振りな盾。艶消しを施したそれは、光を反射することはない。
男達は、物音、足音を立てないように宿屋の廊下を進む。
彼らの仕事は、簡単だ。ある部屋に押し入り、女二人を拐う。護衛の男は殺す。
抵抗著しければ、女も殺して構わないとは言われている。その場合、女の死体も、持ち物も、全て持ち帰れとも。
故に、肝要なのは接近を悟らせないことだ。それさえ成せば、あとは一方的な略奪だ。
目的の部屋の前に、着いた。
一人が鍵を開け、ゆっくりと扉を開ける。辛うじて人一人が入れるだけの隙間が出来た。
そして、中を伺いながら、別の男が扉の隙間から部屋に滑り込む────ことは、出来なかった。
「かっ……?」
先陣を切ろうとした男が、声もなくもがき、その場に崩れ落ちた。
何事か。その答えは、すぐに見つかる。
倒れた男の頚から、何かが生えている。それは極東独特の刀であり、非常に短い刀身のもの────脇差である。
殺された。それに気付くや、男達は一息に扉を開けた。そして、一人が盾と剣を正面に構え、一気に室内に踏み込む。
切先は前に、盾は高く。頭と心臓を守り、室内の敵が打ち込んできても即応する用意だ。
しかして、この部屋にいるのは凡百の剣士ではなかった。
踏み込んだ男の正面に待ち構えていたのは、一人の極東人。既にその両手には一振の太刀が握られていた。
「
気合いの篭った吐息と共に、白刃が振るわれる。
極東様式の太刀、その切先が床を擦るように走り、そして天へと駆け上がる。
刃はそのまま股座から下腹までを斬り上げ、構えられた盾を弾き飛ばした。
滝のように流れ落ちる血と臓物。男は自ら作った血溜まりに倒れ、盾が天井にぶつかり落ちた。
「むぅ、なに?なんの音?」
ベッドから眠たげな声がした。闘争の音に、
「動くな!!」
腹を切り開かれた男は扉の前でうずくまり、声一つ発さない。もはや絶命しているそれは、トゥーラにとっても襲撃者にとっても、狭い入り口を塞ぐ障害だ。
よって、トゥーラは容赦なく死体を蹴り飛ばし、床に転がした。部屋の外で構える男二人が、びくりと後退る。
二人の仲間を瞬く間に殺されたことで、襲撃者は怖気づいている。まだ人数は二対一、有利ではある。しかし、部屋の入口を挟むことで、同時には仕掛けられなくなっていた。
トゥーラもまた、入り口の狭さから満足に刀を振ることはできない。横に振ろうが縦に振ろうが、引っかかってしまう。
互いに膠着状態になる……否である。
「応ッ!」
咆哮し、トゥーラが入口へ近づく。その意気に気圧され、男達がまた後退った。入り口との距離が開く。
男たちがこれ以上後退すれば、トゥーラは打って出るだろう。だが、自分達から打って出る決心もつかない。
二人が逡巡する中、他の部屋から物音が聞こえ始めた。他の宿泊客も、以上に気が付いたのだ。
これ以上時間をかければ、他の客が出てくる。そうなれば、彼らにとって都合が悪いことになるだろう。
「……ええい!」
男達が、逃げを選ぶ。トゥーラに剣を向けたまま、足早に数歩、距離を取った。
味方を失い、敵を恐れ、時すら失くした襲撃者達。既に彼らの心は同様に支配され、士気などありはしない。
ならば、刈り取るのみ。トゥーラは矢のように飛び出した。廊下に出るや、手前の男を睨み付ける。
「
奇声を発し、瞬時に踏み込む。甲高い叫びと襲い来るトゥーラに身を竦ませながら、男の一人が反射的に剣を振った。
トゥーラもまた、横薙ぎに斬り付けると、互いの剣が激突した。火花が散り、男の身体が傾ぐ。
その隙に、剣も盾も掻い潜り、トゥーラの太刀が男の首筋を撫でた。頸動脈を裂かれた男が、血を吹き出しながら壁にもたれかかる。必死に傷口に手をあてて止血しようとするが、もはや致命傷なのは明らかだ。
「ひ、わあああ!!」
残る一人が、悲鳴を上げて脱兎の如く遁走する。すかさず、狼の如き勢いでトゥーラが追撃した。
階段を降りようとして僅かに減速したその瞬間に、トゥーラの一太刀が彼の首を刎ねた。音を立てて、体と首が別々に階段を転げ落ちていく。それを見送ると、トゥーラは深く息を吐いた。
振り向けば、頸動脈を斬られた男もその場に座り込み、動かなくなっていた。
「なになに、何なのこれ!?」
物音に起きるなり、部屋の入口には死体がふたつ。どちらもトゥーラが斬り殺したのは明白だ。
寝起きにそのような物を見せられ、アイナは混乱の極みにあった。
おそらくは、彼女は人が人を殺すところなど見たことはない。立ち込める血の匂いと死の気配に、完全に怯えてしまっている。
一方、アリエキシアスは眠たげに起き上がると「あー、なるほど」と納得し、死体に歩み寄っていった。
「ア、アリエキシアスさん……ちょっと、なにしてんの?」
「んー、ちょっと調べもの」
死体の傍に、アリエキシアスがしゃがみこんだ。寝間着の裾が血溜まりに浸かり、赤く染まっていく。だが、彼女はまるで気にした様子はない。
ふむ、ふむと頷きながら、死体を検分している。アイナからすれば、あまりに異様な光景だ。
そして、血溜まりの中から何かを拾い上げた。
「お、本当にあった」
「なにそれ……?」
アリエキシアスが手にしているのは、鍵だった。血に塗れた、真っ赤な鍵。
その鍵を、アリエキシアスはおもむろに部屋の扉に差した。そして、捻る。
がちゃりと。無機質な音を立てて、錠が回る。
「この部屋の鍵だ」
彼らが何者なのかはわからない。だが、何にせよ、彼らがこの部屋の鍵を持っているのは明らかにおかしい。
死体を直視できないアイナだが、彼らが宿屋の関係者とは到底思えない。
「ひとまず片付いたぞ」
そこに、トゥーラが戻ってきた。
彼は部屋まで戻ってくると、最初に殺した男の首から脇差を抜き、血払いをする。それから刀身を確かめた後に、鞘へと納めた。
その、戦いから戻った姿を見て、アイナが恐る恐る尋ねた。
「この人達……トゥーラさんが、殺したの?」
「ん?応、キッチリ殺したぞ。安心しろ」
あっけらかんと応えるトゥーラ。アイナからすれば殺したことが恐ろしいのだが、それは剣闘士にはわからぬものだろう。
「御苦労さま。ありがとうね」
「用心棒だからな。仕事はやるさ」
和やかなアリエキシアスとトゥーラ。果たして、この世界の住人はこういうのが当たり前なのだろうか?ここは、それ程に恐ろしい世界なのだろうか?
不安がるアイナを余所に、アリエキシアスは血塗れの鍵をトゥーラに手渡した。
それがこの部屋の鍵であると気付くや、トゥーラの眼光が再び鋭くなった。
「────荷物を纏めろ。逃げるぞ」
有無を言わさぬ、強く重い言葉だった。
「“
アリエキシアスがマットレスを外套に収納しながら、トゥーラに問う。
「着替える時間ってあるかい?」
「……無い。急ぐぞ」
鬼気迫るトゥーラと、わかっているのかいないのかがわからないアリエキシアス。アイナがスクールバッグを拾い上げると、トゥーラが頷いた。
「敵が来る。既に玄関にいるやもだ」
正面突破になるかもしれない。トゥーラがそう示唆すると、アリエキシアスは少しだけ思案する。
「よし。なら、こっちから逃げようか」
言って、魔導師は窓を指さした。
「いや、ここ三階……」
アイナの指摘を無視し、アリエキシアスが身を乗り出す。
そして、躊躇することなく飛び降りた。
「“
アイナが悲鳴を上げる暇もない。アリエキシアスの身体は万物自然の法則、重力に従って落下する。
この高さから落ちれば、おおよその人間は致命的な怪我を負うだろう。決して屈強に見えないアリエキシアスに耐えられるものとは、到底思えない。
だが、しかし。華奢な魔導師は、当たり前のように地面に降り立った。
足を折った様子も、挫いた様子もない。彼女はにこやかに微笑みながら、こちらへ手を振っている。
「私がフォローするから、安心して降りなさい」
アリエキシアスはそう言うが、やはり、高い。ここから飛び降りて、アイナが無事なはずがない。
そう思うと、決心がつかない。そうこうしていると、突然、アイナの身体が浮き上がった。
魔法……ではない。もっと直接的な力だ。
「とっとと行くぞ」
トゥーラはアイナを担ぎ上げると、やはり躊躇なく飛び降りた。
「や、待って、待って待って怖いからぁぁぁぁ!!」
少女の絶叫が、夜の帝都に響く。
「“
トゥーラが着地すると、足には一切の痛みを感じなかった。驚くほど柔らかな着地に、トゥーラ自身も目を見張る。
「い、生きてる?アタシたち、生きてんの?」
アイナは、顔面を凍り付かせた上で蒼白にしていた。血の気が引きつつも、心臓が破裂しそうなほどに激しく鼓動している。初めてジェットコースターに乗った時も、こうはならなかった……ような気がする。
地面に降ろされ、ふらつきながらも自分の足で立つアイナ。だが、呼吸を調える時間はない。
「大声で叫んだからな。気づかれたろうよ」
トゥーラに言われるまでもない。そんなことはアイナにもわかっている。
でも、悲鳴を上げたのはどうしようもないことだった。せめて、もう少し丁寧な方法はなかったものか。アイナは非難の眼差しを向けるが、トゥーラは面倒臭そうに頭を掻くばかりだった。
一行が窓から飛び降りた、ほんの少し後。数人の兵士達が部屋へと乗り込み、もはやもぬけの殻であることを確かめた。
「逃げたか。まさか、飛び降りたのか?」
「しかし、三階だぞ?」
外の様子を見るが、そこには誰もいない。夜闇に紛れて逃げたか。
とはいえ、こんなところから飛び降りて無事に済むものではあるまい。
「いや、わからんぞ。何せあちらには“無窮”の弟子がいる」
兵士達の後ろで、一人の男が口を開いた。陰鬱な顔付きの、背の高い男だ。
他の兵士とは異なり、豪奢な衣服の上から要所を守る鎧を纏い、腰に帯びた剣も華やかな装飾が施されている。いずれも一級品であり、一兵卒がこれらを揃えるには、全財産を投じても足りるまい。
リベルト・ラストール。リヴォグリフ帝国の騎士であり、アドルアルディ魔術伯爵家に仕える者である。
「魔術師、魔導師であれば、高所からの降下が可能な者も珍しくはない。少なくともアドルアルディ伯であれば、この程度の高さは容易かろう」
窓の外を見下ろしながら、リベルトは低い声で言う。その声には、些かの苛立ちが含まれていた。
彼の任務は、“無窮”のターグディムスが弟子、アリエキシアスの捕縛ないし抹殺。侮ったつもりはないが、こうも見事に逃げられるとは思わなんだ。
「……凶賊は三人。この部屋に宿泊していた四人を手にかけ、帝都を逃走中だ。リヴォグリフ帝国の威信に懸け、必ずや捕らえよ」
踵を返し、兵達に命令を発する。
「賊は邪悪な妖術師と蛮族の戦士だ。油断、容赦、慈悲は一切無用と思え」
兵士達が動き出す。ある者は火を掲げ夜の街を捜索しに、ある者は他の騎士、魔術師にリベルトの報告を伝えるべく、馬を走らせた。
斯くして、何者かに襲われた筈の三人は、たちまち殺人犯として指名手配されることとなった。
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