第4話 異世界の少女(後)

 帝都の外れにある、決して高級ではないが、安宿というわけでもない、謂わば中流の宿。

 その一室で、少女は自らの境遇を話した。

 気が付けば、帝都の路地裏にいたこと。この街並みは、彼女の知らない景色であること。衛兵と言葉が通じず、追い回されたこと。

 そして、自分の名前も、自分が何者なのかも、思い出せないこと。


「ははぁ、記憶喪失って奴か」


 興味深げに言うのは、アリエキシアスだ。彼女は外套を脱ぎ、ベッドに腰掛けて少女の話を聞いていた。


「記憶喪失ってぇと……あれか、頭ぶっ叩かれた剣闘士がなるやつか」


 扉の脇に立つトゥーラが、物騒な例えを持ち出した。どうやら闘技場では、しばしばそういうことがあるらしい。


「うーん、それなような、違うような……ともあれ、この手の記憶喪失というのは、

大概、心の問題らしい。これに関しては焦らずじっくりいこう」

「焦らずって、そんな……」


 自分が何者なのかわからないのに焦るなというのは、なかなか難しい。少しくらいは手がかりが欲しいものだが、どうしようもあるまい。

 沈痛な面持ちで、少女がうなだれた。

 その様子を見て、アリエキシアスが思案する。


「そうだねぇ。何か身元がわかる物は持っていないのかい?」

「身元がわかる物って……あっ」


 言われて、気が付いた。鞄だ。

 目を覚ましたときから持っていた鞄。あのスクールバッグに、自分の素性がわかるものが入ってるかもしれない。

 混乱して気が滅入っていたとは言え、言われるまで気が付かないとは、自分のことながら間抜けな話だ。そのように思いながら、少女は慌てて鞄の中身を机の上にばら蒔いた。

 出てきたのは教科書、ノート、筆箱……およそ学生らしい所持品の数々。だが、自分が学生なのは、服装からわかっていたことだ。それよりも、もっと個人のわかる物を探す。

 そして、見付けた。


「あった、生徒手帳!」


 少女が手にしたのは、一冊の手帳。表には高校の名前が書かれており、それが生徒手帳であることは一目瞭然だった。

 急ぎ、ページを開く。そこには、一枚の写真があった。持ち主を写したものだ。

 それを見て、少女がしばし、動きを止めた。


「どうしたんだい?」


 アリエキシアスが尋ねる。すると、少女はおそるおそる、手帳の写真を見せた。


「あの……これ、アタシなのかな?自分の顔も、思い出せなくって」


 手掛かりを見付けながらも、改めて記憶喪失の重篤さを思い知った。複雑な気分だ。

 ともあれ、この写真が自分なら、自分が何者なのか少しはわかるのだ。期待と不安が混じった視線を、アリエキシアスに向ける。

 そして、写真を覗くアリエキシアスは────目を丸くしていた。


「まさか、別人……?」

「……えっ?ああ、いや、違う違う。そうじゃなくって、さ」


 不安がる少女に、アリエキシアスは慌てて首を横に振った。

 そして「キミも見てみなよ」と、手帳をトゥーラに差し出す。言われるまま、手帳を確認するトゥーラ。


「革表紙の手帳?紙も上質だし、やっぱ貴族だろ……うおおおぅ!?」


 手帳を眺めていたトゥーラが、突然、奇声を上げて手帳を放り出した。


「ちょっと、投げないでよ!」


 手帳を拾う少女に、しかし、トゥーラは心底驚いた様子で壁際まで後ずさっていた。

 何にそんなに驚いているのだろうか。写真に写っているのは、黒髪の女の子。高校生だろうが、少女としてはわりと美人だと思う。これが自分だったら、少し嬉しい。

 その写真を見て、二人は唖然としているのだ。


「お、お前!そりゃあ、絵か!?」

「は?写真じゃん」


 トゥーラの叫びに、少女は顔をしかめた。写真を絵と言う人は、初めて見た。正記憶がないので、より正確には初めてだと思う。

 しかし、やはりトゥーラは写真におののいているようだ。


?なんだそりゃあ……!?」


 続けて、アリエキシアスが咳払いをしてから話し始めた。


「うん、まず言っておこう。その絵は、間違いなくキミを描いたものだ。それはもう、信じられない程に良く似ている。うん、寸分違わずってやつだ」

「そっか……!」


 これが自分の顔なのだと確信し、喜びが込み上げてくる。ついでに、結構イケてるじゃん、とも。

 次いで、写真と共に記載されている名前を見る。そこに書かれているのが、自分の名前なのだ。

 2年A組、松葉愛奈。マツバ、アイナ。


「アイナ……アタシ、アイナって言うんだ」


 噛み締めるように、自分の名前を呟いた。そして、少しだけ安堵する。

 顔と、名前と、身分。それがわかっただけでも、大きな前進だ。まるでそれが宝物であるかのように、少女────アイナは、生徒手帳を抱き締めた。


「おめでとう、アイナちゃん。そして、キミに伝えなくちゃならないことがある」


 祝福と共に、アリエキシアスがアイナの所持品を一つ一つ、手にとって確かめ始めた。

 鑑定でもするかのように、丁寧に触れ、じっくりと見ている。物珍しそうに見てはいるが、どれもアイナからすればありふれた物ばかりの筈だ。

 それらを見定めながら、アリエキシアスは何かに納得してから、告げた。


「やはり。キミは恐らく“界渡り”……平たく言えば、別の世界からやって来た人だ」









 界渡り。ここではない世界、異世界からやって来た存在……あるいは逆に、この世界から異世界へと旅立った存在を、魔法使いはそう呼ぶのだという。

 界渡りは必ずしも人間とは限らない、と言うより、人間であることの方が珍しいという。また、そう頻繁に現れるものでもないと。

 もしアイナが本当に界渡りとやらならば、相当に不運であったということになる。


「そもそも異世界って、今時の漫画とかWeb小説じゃないんだから……」


 アイナは机に突っ伏して、そう呟いた。漫画だのWeb小説だの、求めていない記憶はすんなりと出てくる自分が恨めしい。


「道理でおかしな格好だと思ったぞ」


 なにやら納得しているトゥーラだが、アイナからすれば彼の格好こそいようだ。

 何せ小具足だの刀だの、アイナの知る世界ではそんな物を身に付けている者などいはしない。


「その感性の差異も、界渡り故だね。たぶん」


 アリエキシアスの言葉が刺さる。

 確かに記憶がない以上、自分が界渡りではないという根拠はない。そして、記憶喪失ながらも覚えている社会常識がまるで通じない以上、ここは間違いなくアイナにとっての異郷だ。

 これで仮に、アイナが界渡りではないとしたら、それはどういうことか。


「界渡りでなかったなら、記憶喪失であり、高級品と希少品を大量に所持して、妄想に捕らわれている女の子ということになるね」


 なるのだろうか?なってしまうのだろう。

 自分の名前、通う学校という手掛かりを得たと思った矢先、どちらもが無駄になった気分だ。記憶喪失で異世界などと、これからどうすれば良いのだろうか。


「……とりあえず、“ステータスオープン”、とかすればいいの?」

身分を公開ステータスオープン?いや、身分がないから困ってるんだろ?」

「あー……ほら、自分のレベルとかスキルとか、そういうの調べるやつ。よくある設定なんだけど」

段位レベル技量スキルねぇ。キミの世界では簡単に示せるのかい?」


 噛み合わない会話をして、本当にいらない知識だけはあると思い知った。それから、そうそう都合のいいことはないところが、返って現実なのだと教えてくれる。

 深く溜め息を吐く。

 アリエキシアスが嘘を吐いているかもしれない。そう疑いもするが、しかし、こんな嘘を吐いて何になるだろうか。そもそも、兵士と言葉が通じなかったのも、アリエキシアスの魔法とやらで通じるようになったのも、事実だ。


(……そもそも、疑っても始まんないし)


 とりあえず、目の前のことを受け止めるしかないのだ。

 簡単ではないが、そう思うしかない。どの道、今はアリエキシアスとトゥーラに頼るしかないのだし。


「まあ、キミがどうするかはまた明日、考えよう。もう夜も遅いしね」


 アリエキシアスの言う通りだ。

 頭はまだ混乱しているが、色々とありすぎて疲れた。休息が必要だ。


「ベッドはアイナちゃんが使っていいよ。私は自前のがあるから」

「自前の?」


 アリエキシアスが外套を振ると、ずるりと何かが出てきた。それは、柔らかそうなマットレスだった。

 明らかに、外套よりも大きい。魔法使いというのは本当なのだと、アイナは目を見張っていた。

 アリエキシアスはさらに外套に手を突っ込むと、また何かを取り出した。それは手触りの良さそうな薄布で出来た何か。うっすらと透けているそれは、どうやら衣服のようだ。

 ああ、そうか。今から寝るのだから、寝巻きに着替えるのは当然だ。

 出現した服が、洒落たデザインの寝巻きネグリジェであることに気が付いて、アイナは納得した。いや、ネグリジェを着る人など(おそらくは)初めて見るのだが。


「……いやいやいや、ちょっと待って!!」


 思わず声を上げるアイナ。その目の前で、アリエキシアスは服を脱ぎ始めていた。


「なんだい?」

「男の人いるから!脱いだらダメだから!」


 透き通るような白い肌と、豊満な胸を守る艶やかな下着がさらされる。慌ててアイナがトゥーラの視線を遮るように飛び出すが、アリエキシアスはくすくすと笑っていた。


「ああ、そうか。男の子の前で裸になるのは、淑女らしくなかったかな?うっかりしていたよ」


 まるで恥じらう様子がない。これも異世界との感性の違いなのだろうか。

 チラリと、トゥーラへと視線を向けてみた。これが当たり前なら、彼も平然としている筈なのだが。


「おう、こっちの世界じゃ女子おなごが男の前で脱ぐなんざ当たり前だぞ」


 トゥーラはそう言うが、目付きがイヤらしい。絶対に嘘だ。


「別に私は気にしないし、トゥーラも見たくないってわけじゃなさそうだし、いいんじゃないかな?」

「本人が見ていいってんなら、構わんだろう」

「よくない!構って!!」


 結局、慌てるアイナもイヤらしい目付きのトゥーラも気にせず、アリエキシアスは着替えを終えた。これで一安心……ではない。


「透け透けじゃん……むしろダメな感じじゃん……」


 アリエキシアスの着る寝巻きは、あまりに薄すぎた。うっすらと透けて見える下着が、むしろ扇情的ですらある。同じ女であるアイナですら、見ていて恥ずかしくなってくる。

 アイナもすっかり諦めて、もう寝ようと、ベッドに移った。

 そこで、もうひとつの問題に気が付いた。


「……トゥーラさん、だっけ?どこで寝るの?」


 扉の脇に立ち続けるトゥーラ。そう言えば、部屋はひとつしか借りていない。

 なので、当然のようにトゥーラは答えた。


「その辺の床でいいぞ」


 つまり、同じ部屋で寝るのか。流石にそれは抵抗がある。

 だが、トゥーラは床に座り込むと、頭をボリボリと搔いて言った。


「俺はアリエキシアスの用心棒だ。仕事があるんで、離れるわけにもいかん」

「……仕方ない、かぁ」


 トゥーラは譲る気は無さそうだし、そもそも、自分は場所を貸してもらっている身だ。ベッドまで譲られて、何も文句は言えない。

 アイナは毛布をかぶると、覚悟を決めて眠りに就いた。


「そうだ、アイナちゃん。寝巻きネグリジェ、もう何着かあるけど着るかい?」

「着ません」


 眠りに就いた。

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