第3話 異世界の少女(前)

 背後から怒号が聞こえてくる。何を言っているのかはまるでわからない。どこの国の言葉なのか、まるでわからない。

 追ってくるのは、三人の男だ。いずれも外国人。しかも、映画やゲームでしか見ないような古めかしい服装で、手には剣を握っている。


(嘘でしょ、嘘でしょ嘘でしょ!?)


 とにかく、ただひたすらに走り、逃げる。流れ行く景色もまた、古い異国のそれだ。ここがどこなのかもわからない。

 追い付かれたらどうなるのか、それもわからない。何もかもがわからず、ただ、恐ろしい。

 だから彼女はひたすら走って、逃げるばかりだ。短いスカートが翻るのも気にかける余裕はない。きっと、彼女の人生においてもっとも全力で走っているのが、この瞬間だった。

 もっとも、ほんの少し前、この見知らぬ異国の街に迷い混む前までの自分など……彼女は、覚えてもいないのだが。





 アリエキシアスが路地に飛び込むと、三人の男と一人の少女の姿が見えた。

 男達は、兵士だ。帝都グリフィニウムの治安を守る衛兵である。彼らは一人の少女を取り囲み、怒鳴り付けていた。

 少女はというと、こちらは珍奇な者であった。肌の色、顔の作りからすると、東方の……ともすればトゥーラと同邦の者やもしれぬ。しかし、その出で立ちはなんとも変わっていた。

 肩まで伸びる、墨を流したような黒髪に、艶やかや肌。身に纏う衣服は、貴族のような白いシャツに、襟元のリボン。チェック柄のスカートはやたらと短い。

 シャツの第二ボタンまでを外した、いささかはしたない着こなしだが、その身なりの良さは、何処かの貴族令嬢にも見える。しかし、リヴォグリフ帝国においては蛮人ともされる極東の民が、そのような身分の筈もない。

 あるいは貴族が着飾らせた奴隷か。いや、それも奇妙だ。何せ……


「──!────!?───!!」

「ええい、言葉もわからんか蛮族めが!!」


 少女は、リヴォグリフ帝国における共用語をまるで理解していないのだ。奴隷としても最低限の教養が、彼女には欠如している。


「むぅ、あの子、まさか……」


 アリエキシアスが呻く。驚きと期待が混ざったような視線を、少女へと向けていた。


「おい、なんだこりゃあ」


 一方で後ろから着いてきたトゥーラは、面倒くさそうに呟く。

 言葉の通じない異民族に、兵士達は苛立っているようだ。少女に乱暴に掴みかかり引っ張られたシャツのボタンがいくつか弾け飛んだ。

 露になる胸元を隠しながら、少女は兵士の手を振りほどこうとする。だが、相手は鍛えられた帝都の衛兵。腕力で敵うはずもない。

 トゥーラが苛立たしげに舌打ちした。見れば、その手は既に刀の柄にかかっている。

 それは兵士達の振るまいに怒りを覚えているからか、あるいは殺気立った兵士達を警戒してか。あるいは、両方かもしれない。

 一方でアリエキシアスはと言うと、少女をじっと見ていた。観察しているのだ。

 そして、兵士が少女を引き摺り倒し、拳を振り上げたその時だ。


「待った待った!その捕り物、ちょっと待った!!」


 突然、アリエキシアスが声を張り上げて進み出た。

 兵士達の視線が、一斉にアリエキシアスへと向く。殺気だった眼差しを浴びせられても、アリエキシアスは特に気にした風もない。


「何者だ?邪魔立てするつもりか!?」


 兵士の一人がアリエキシアスに怒鳴り付ける。すると、すかさずトゥーラが前に出た。

 腰に刀を佩いた極東人。その姿を認め、兵士達はさらに警戒する。

 一触即発。その最中、アリエキシアスは溜め息を吐きながら歩みを進めた。


「まったく。彼女は言葉がわかってないだろ?喚き散らしても、ますますわからなくなるだけだろ」


 当たり前のように小言を口にする。

 しばし、兵士達はぽかんとしていた。まさか捕り物の真っ最中に、そんなことを言ってくる娘がいるなど、夢にも思わなかっただろう。

 だが、すぐに我に返った兵士が、手にした剣の切っ先をアリエキシアスに向けた。


「失せろ小娘!邪魔をするなら、まとめて引っ立てるぞ!!」


 兵士が怒鳴る。だが、アリエキシアスは笑顔のままだ。


「まあまあ。私は魔導師だ。力になれると思うよ、兵隊さん」

「魔導師だと?」


 兵士達が、訝しむような視線を向けた。いや、事実として訝しんでいるのだが。

 しかし、アリエキシアスの緊張感の無さと、対して剣呑な殺気を帯びたトゥーラの姿に、兵士達は少なからず臆していた。

 それに、異民族の少女と会話にならず、困っていたのも事実だ。少し考え、一番年上らしい兵士が舌打ちと共に身を引いた。


「いいだろう、何か出来るならしてみせろ。しかし、騙りなら容赦せんぞ」


 その言葉に、アリエキシアスは満足そうに頷くと、少女の前に進んでいく。そのまましゃがんで、地面にへたり込んだ少女と目線を合わせた。


「“話せば6”」「“意思は通ず《6》”」


 真理の一端を紐解く言葉を、アリエキシアスの唇が紡いだ。

 そして、にこやかに少女へと語りかける。


「やあ、お嬢さん。私の言葉がわかるかい?」


 優しげな、子供にするかのような呼び掛けだ。

 それを聞いて、少女が驚き、アリエキシアスを見た。


「言葉……言葉、わかるの!?」


 少女の言葉の意味が、この場の全員に理解できた。

 兵士達は呆気にとられ、トゥーラは「ほう」と感心している。そして少女はというと、ようやく言葉の通じる相手を見付け、アリエキシアスにすがり付いた。


「助けて!この人達、言葉通じなくて……!アタシ、なにもわかんないの!」


 相当に混乱しているのだろう。ただ必死に助けを求めてくる少女に、アリエキシアスは「大丈夫」と繰り返しながら、それとなく兵士達から庇うように移動した。


「本物の魔導師殿でしたか。先程はとんだ御無礼を」


 兵士の一人が、アリエキシアスに謝罪を述べた。先程までとは、まるで態度が違う。

 魔法を使う者は、俗人とは比較にならない叡知を修めた賢者である。その知識、頭脳、魔力は人々にとって畏敬されるものなのだ。

 兵士は剣を納めると、アリエキシアスに一礼する。それから、少女へと視線を向けた。


「さあ、ついてこい。事情を聞かねばならん」


 びくりと、少女の肩が跳ねた。

 無理もない。少女からすれば、先程まで兵士達は訳のわからぬ言葉を喚き散らし、暴力を振るって来たのだ。少女が兵士を恐れるのは当然だ。


「どうする?魔導師」


 トゥーラが、兵士を睨んだまま問う。

 兵士達は、少女を異邦の蛮人としか思っていない。彼女には人としての権利は与えられていないのだ。

 彼女に何の罪咎が無かったとしても、この整った容姿の若い女がどのような目に遭うのか。それは想像に難くない。それを見過ごしてしまっても、良いのか。トゥーラはそう問うているのだ。

 アリエキシアスは、少しだけ何かを考えた。それから、兵士の前に進み出る。


「兵隊さん。この子のことは私に任せてほしい」

「いや、魔導師殿。それは……」


 突然の申し出に、兵士が眉根を寄せる。

 だが、アリエキシアスは微笑みながら、彼らに向けて囁いた。


「“”の」「“願い”は」「“聞き届ける《6》”ものだろう?」


 一瞬、兵士達がよろめいた。

 頭を振ると、兵士はそれぞれに少し呻き、アリエキシアスを見た。


「そう、ですな。女性の願いを聞くのは、当然です」

「そうだろう、そうだろう。ほら、この子のことは私に任せて、今夜は帰ろう。ね?」


 アリエキシアスが手を叩くと、兵士達はふらふらとした足取りで、その場を後にした。

 その手並みを見て、トゥーラが感心する。


「なんだ、今のは。今のも魔法か?」

「うん、ちょっとした暗示さ。彼らも面倒くさがって終わらせたがってたから、簡単にかかってくれたよ」


 本当は、心を操るのはもっと難しいんだ。アリエキシアスはそう付け加える。


「えっと……ありがとう」


 礼が聞こえた。少女が発した礼だ。

 それを聞くと、アリエキシアスは「どういたしまして」と返した。


「本当に、ありがとう。言葉は通じないし、ここがどこなのかも全然わかんなくて……」

「ああ、うん。


 アリエキシアスが、頷いた。それは、まるで少女の置かれた境遇がわかっているような口振りだった。


「それ、どういう──」

「おい、夜更けに騒ぎすぎた。ここを離れた方が良いぞ」


 少女がアリエキシアスの言葉を確かめるより先に、トゥーラが口を挟んだ。

 夜の街で、少女と兵士の大声が何度も響いたのだ。既に近隣の人々が、何事かと家屋の窓から外を見ていた。

 騒ぎを聞いた他の衛兵が来たりして、また同じように揉めるのは御免だ。早く立ち去るべきという意見には、全員が賛成だった。


「行く宛もないだろ、お嬢さん。キミも着いてきなさい」


 当然のように少女を誘うアリエキシアス。

 初対面の相手に着いていくことに、少女は逡巡する。しかし、まさしくアリエキシアスの言う通り、少女に行く宛などない。

 それに、二人は自分を助けてくれた。何をしたのかはわからないが、言葉が通じるようになったのも、アリエキシアスのお陰だとわかっている。

 頼れるのは、この奇妙な二人しかいないのだ。


「……わかりました。お願いします」


 そう言って、少女は足元の肩掛け鞄を広い、立ち上がった。

 そして、顔を上げると────トゥーラが、ぎょっとした顔をしていた。


「えっと、なんですか?」

「……その鞄。どっから出した?」

「どっからって……あれ?」


 言われて、少女も気が付いた。

 その鞄は、間違いなく自分の物だ。ただ、こうして持っているのはおかしい。

 この鞄は、兵士達から逃げている最中に、落としたはずの物だった。

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