第2話 剣闘士の男(後)

 ヴラドレイとの戦いを終えた日の夕刻。

 人々の喝采を浴びたトゥーラは、意気揚々と宿舎に帰っていた。

 剣闘奴隷である彼に与えられた自由は少ない。だが、宿舎の中では別だ。鮮やかな剣技、物珍しい武器、そして連戦連勝の実力。トゥーラの闘いは主人に大きな利益をもたらしている。そんなトゥーラには、奴隷らしからぬ部屋が与えられていた。

 他の剣奴とは異なる一人部屋。家具も上質で、ちょっとした貴族のものと見まごう程である。

 そこでトゥーラは、自らの刀を手入れしていた。

 刀剣というものは、すぐに痛む。二、三人も斬れば使い物にならなくなる、というのは素人の俗説に過ぎないが、それでも十人、二十人と斬れるものではない。それを少しでも長持ちさせるには、二つの方法がある。

 より上手く斬ることと、小まめで丁寧な手入れである。

 特にトゥーラの使う剣は、遠い極東の太刀だ。新しいものを仕入れるにも、いささか金がかかる。そうそう交換できるものではないのだ。


「トゥーラ、いるか?」


 不意に、扉をノックする音と、男の声が聞こえた。

 声は聞きなれたもの。トゥーラの主人である興行師のそれだ。


「応、旦那。ちょっと待っててくれや」


 手入れ道具と刀を一端、隅に退かす。それから立ち上がると、扉を開けた。

 そこにいたのは、大柄の、禿頭の男だ。年は四十近いだろうか。この人物が、トゥーラの所属する剣闘士団の興行師である。


「武器の手入れ中だったか?邪魔したな」

「キリのいいところだったし、構わん構わん」


 まるで対等な立場のように話すトゥーラ。本来ならば主人と奴隷である以上、あり得ない口の利き方だ。これが許されているのは、トゥーラが優れた剣闘士だからか、あるいは興行師の人柄故か。おそらくは両方であろう。

 トゥーラは興行師を招き入れると、ベッドに座った。対して興行師は一脚のみ用意されている椅子に座る。


「で、何の用だい?旦那」


 トゥーラの問いに、興行師は渋面を作る。

 何か用があって来たのだろうが、言いにくいことなのか。だが、興行師は大きく溜息を吐くと、話を切り出した。


「実はな。お前を……売ることになった」

「あ?」


 今度は、トゥーラの目が鋭くなる。

 トゥーラは奴隷だ。言ってしまえば、興行師の所有物である。よって、正当な取引であれば、トゥーラを他人に売るということは、合法的に有り得る話だ。

 しかし、だ。


「どういうつもりだ、旦那?俺の腕が、剣が、もういらねぇってのか?」


 ギラついた目が、興行師を睨み付けた。

 それは闘技場でのものとは、また異なる眼差し。闘争の興奮と勝利への渇望に輝く眼ではない。苛立ちに満ちた、怒りに燃える眼だ。

 主人に対して、今にも斬りかかりそうな殺気を見せるトゥーラ。だが、興行師は自らの禿頭を撫でながら、申し訳なさそうに続ける。


「いや、そういうわけじゃねえんだ。お前はよくやってくれてる。これからもっと強くなるだろうとも、期待してたさ」

「なら、なんだってんだよ?」


 トゥーラは剣闘士としての暮らしに満足している。

 彼には剣の腕しか誇るものはない。その技を奮い、強敵を斬り、喝采を浴びることが出来る。奴隷という身分は気に食わないが、勝利の栄光を掴めば旨い酒と食事を振る舞われ、贅沢な暮らしも出来るのだ。

 そうだ。勝ち続ける剣闘士には、全てが与えられる。だからトゥーラは、剣奴の身に甘んじていた。それがなければ、彼の剣は興行師の禿頭を斬り落としていたやもしれぬ。

 それを興行師も理解していたはずだ。だのに、今さらトゥーラを手放す理由とはなんなのか。


「まあ、なんだ。とにかく凄ぇ額なんだ。先方の出した金がさ」


 ……つまり、単に金の問題だった。

 これからトゥーラが稼ぎ出す金よりも、飛び付く価値のある目先の金。実に単純な理由だ。

 あまりの単純さに、トゥーラは笑い出してしまった。先程までの怒気もどこへ行ったのか、大笑いだ。


「ははははは!なんでぇ、この銭ゲバがよ!まあ、商人あきんどなら何より金だぁな!」


 ゲラゲラと笑うトゥーラ。彼はひとしきり笑うと、息を調えてから、笑顔のままで興行師に告げた。


「ああ、わかったよ。まあ、買い手がつまらん奴だったら、そいつがどうなっても知らんがな」

「おっかない奴だよ、お前は。せめてここを出てからにしてくれよ」


 軽口を叩き合う。先程までの怒気と殺気はどこへ行ったのか。

 二人は二年間、ずっとこんな調子だったのだ。


「そんじゃ、新しいご主人様に会ってみるかね」




 興行師に連れられ、トゥーラは応接室に通された。

 大切な客との話をする応接室は、剣闘士団の格式を示す場所だ。内装、調度品はいずれも高級なものばかり。

 流石にここに来ることのないトゥーラは物珍しそうに室内を眺め、そして、柔らかそうなソファーに座る、その少女を見た。

 黄昏の髪をした、美しい容貌の少女。

 年の頃は、よくわからない。背丈は大分低く、十五に満たぬ娘にも見えるが、しかし細やかな体躯の上に描かれた豊かな稜線は、なるほど大人の女のようでもある。

 少女は華やかな、しかし奇妙な装飾と模様を施した装束に身を包んでいる。その服の仕立ても、彼女の髪や肌のツヤもとても良い。どこかの貴族か富豪の令嬢であろうか。

 少女はトゥーラの顔を見るなり、花の咲いたような笑顔を浮かべた。


「わあ!会いたかったよ、トゥラコア!」


 美しくも可愛らしい笑顔に出迎えられ、トゥーラは面食らってしまった。

 自分のような剣奴を買う者など、やはり剣闘士団を営む興行師だろうと思っていたが、彼女からはそのような雰囲気はまるで感じられない。これは、どうやらの仕合に熱狂し、焦がれる娘にしか見えなかった。


「……買うってのは、一晩とかそういう意味か?」

「なに言ってやがる」


 興行師に睨まれた。その手のお誘いではないらしい。


(こんな別嬪なら大歓迎なんだがなぁ……)


 内心、少しばかり残念がるトゥーラ。

 一方の少女は嬉しそうにトゥーラを見上げると、にこりと微笑んだ。その姿は、やはり可憐な令嬢にしか見えぬ。


「初めまして。私の名はアリエキシアス・カリフィア。キミを購入した魔導師だ」

「……魔導師ぃ?」


 魔導師。平たく言えば、魔法使い。

 魔法というものは、この世界の真理を紐解き、物理法則とはまた異なる理を利用する技である。それを操る者には、深遠な神秘を理解する知性、矛盾した混沌を受け入れる感受性、正しき真理を知る教養が求められるという。

 それはトゥーラにとって、まるでわからぬ高等学問だ。この年若い少女が、魔導師を名乗る程に魔法を修めているというのだろうか。

 そして、実際に彼女が魔法使いだったとして、どうして剣奴なぞ欲しがるのか。

 疑問は尽きない。だが、そこで興行師から脇腹を肘で突かれた。


「おい、ご挨拶しろ。頼むから」


 今の主人が、いまいち主人らしからぬ物言いで命じてきた。

 トゥーラは「む」と呻くと、絨毯に膝をつき、頭を垂れる。


「某、剣闘士のイサヨ・トラコレと申します」


 恭しい名乗りに、アリエキシアスがキョトンとした。

 それは意外な態度故、ではない。


「いしゃ、とぁ……?イシャオ・トゥラコアじゃなくて?」


 トゥーラは遥か東の皇国に生まれた。国や地域によって言葉が違うならば、名前もそれを呼ぶ舌も異なって当然である。

 その為に、リヴォグリフ帝国の人々にとってトゥーラの名は発音しにくいようであった。


「とぅらくぇ、とあこえ……?」

「……イシャオ・トゥラコアで結構」


 苦戦するアリエキシアスを見て、トゥーラは早々に諦めた。

 後ろでは興行師が笑いを堪えている。初めて興行師と合った時も、同じようなやり取りをしたことを覚えている。


「うん、ありがとう。それじゃあ、これからよろしく。トゥーラ」


 黄昏の髪の少女は、夕日のような瞳でもってトゥーラに微笑んだ。





 手続きと支払いを済ませると、トゥーラは正式にアリエキシアスの奴隷ということになる。実際の証文などは興行師が届け出ることになるが、アリエキシアスはそのままトゥーラを連れて帰ることになった。

 既に日は沈み、空には月と星々が輝く。その光と、まばらに置かれた街灯の光を頼りに、二人は夜道を歩く。


「流石は帝都。夜でもなかなかどうして、明るいものだねぇ」


 感心したように言うのは、アリエキシアスだ。彼女は先程までの服装に加え、上半身をすっぽりと覆う外套を羽織っていた。

 トゥーラも夜の帝都に出たことは少ないが、確かに初めて見た時は、この明るさに驚いたことだ。なんでも帝都には魔法使いのための学院があり、灯りを点すことが学生の課題になっているのだとか。つまり、この灯りはただの火ではなく、魔法の光な

のか。

「魔法の光もあるし、火の光もある。錬金術師の作った街灯なら、誰でも使えるものだからね」


 アリエキシアスはそう言うが、トゥーラには違いがわからない。

 それよりも、魔法云々と言えば。


「凄いもんだな、その外套」


 先刻の出来事を思い出し、トゥーラはそう呟いた。

 砕けた無礼な口調は、アリエキシアス本人の要望だ。なんでも、畏まられると肩が凝るらしい。


「ふふん、お洒落だろ?私のお手製なんだ」


 大きな胸を張るアリエキシアス。どうやらその外套は、自慢の品らしい。

 だが、トゥーラが感心しているのはそこではない。


「そん中、どうなってんだよ?」


 トゥーラの代金を支払う際、アリエキシアスは大量の金貨が詰まった袋を、次から次へと外套の中から取り出して見せたのだ。その金額も目が飛び出るほどの大金だったが、そもそもこの外套に入る量ではなかった筈だ。

 あれが魔法なのかと、心底驚かされたものだ。


外套クローク収納ストレージ。そう難解な話ではないさ」


 まるで理解できない理屈だった。しかし、魔法とはそういうものなのだろう。

 トゥーラは理解を放棄し、月を見上げた。


 今夜から、剣闘士ではなくなった。そう思うと、少しばかり不安があった。

 奴隷の身分は気に食わない。いずれは自由民となり、好きに生きようと思っていた。だが、剣を奮い敵を殺し、喝采を浴びる暮らしは充実していた。それが突然に終わったことに、思いの外、困惑していたようだ。


(旦那は悪い奴じゃなかったしな)


 禿頭の興行師は、善人かと言うと疑問が残るが、悪人ではなかった。剣奴を戦士として遇してくれた。旨い飯も食えた。

 あの剣闘士団は、なかなかに居心地が良かった。離れるとなって、しみじみとそう感じていた。


「……なあ。これから、俺は何をすりゃあいいんだ?」


 トゥーラはポツリと、尋ねていた。

 それは仕事の為の確認だ。不安とか寂しさとか、そんな感傷を遠ざける為のものではないと、そのように思いながら、アリエキシアスに問う。

 そんな心の内は知りもせず、アリエキシアスはさらりと答えた。


「これから、あちこち旅して回ろうと思ってるんだ」


 星を見上げる少女が、呟いた。


「私は世間知らずの箱入り娘だからね。世の中を見て回って、見聞を広めたい。色々、学びたいんだ」

「……それに着いてこいって?」

「そう!女のひとり旅は危ないんだろ?だから、用心棒としてキミを買った。キミのような達人なら安心だからね」


 一分の隙もない理屈だ。そう言いたげなアリエキシアスだが、トゥーラは随分と呆れていた。

 用心棒を雇うのはわからなくもないが、女一人が初対面の男を連れ歩こうとは、それこそ無用心だ。そもそも、トゥーラを買った金は、用心棒一人雇うにはあまりにも高額過ぎる。あれならちょっとした私兵を十人ばかり揃えられる。それも、立派な鎧具足、武器も纏めてだ。

 金の出所はわからないが、何にせよ、まともな金銭感覚があれば絶対にしない買い物だ。自称箱入り娘というのは、真実らしい。


「どうしたもんかね、こりゃあ」


 トゥーラは再び、夜空を見上げた。

 横暴な主人なら、殺して逃げるつもりだった。

 つまらん主人なら、ぶん殴って逃げるつもりだった。

 しかし、女子供を殺すのも殴るのも恥だ。そしてこの娘、決してつまらなくはない。厄介ではありそうだが。

 いずれにせよ、危なっかしいのは間違いない。


「……ま、やり甲斐はありそうか」


 先行きはわからないが、まあ、それも良かろう。

 そう思っていた、その時だ。

 夜の街に、怒声と悲鳴が響いた。

 喧嘩か。いや、違う。そうではない。もっと一方的な何かだ。


「……おい、アリエキシアス。離れるぞ」

「トゥーラ、あっちが何だか賑やかだ!行ってみよう!」


 突然に、アリエキシアスが駆け出した。トゥーラの言うことなど聞いてはいない。

 本当に、危なっかしい女だ。

 トゥーラは苦笑すると、雇い主の後を追って走り出した。

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