彷徨のアドベンチャラー
悟 小吾
数奇な冒険者たち
第1話 剣闘士の男(前)
リヴォグリフ帝国帝都、グリフィニウム。大陸中部から西部に広がる大帝国の首都は、華やかで活気に満ちていた。
特に週末の今日、この日は人々が熱狂する日である。
巨大な円形の建造物。その内側には数多の観客席が並び、中央にはやはり円形の広場がある。広場の地面は白い砂に覆われていた。
これこそは帝国が誇る一大興行、闘技場である。
ここでは休日に剣闘士……戦う為に買われた奴隷たちが死闘を繰り広げ、観客を熱狂させるのだ。
それを残忍、悪逆と誹る者は国内外に多い。剣闘士たちとて、戦に敗れ、捕われ、死ぬまで戦わされる宿命を呪う者もいる。
しかし、それは少なくとも、貴賓席の者達のことではない。
「剣闘試合は如何ですかな?アリエキシアス殿」
線の細い帝国貴族の男が、隣に座る少女に問いかけた。
非常に小柄な少女だ。しかし、その身体は華奢でありながら起伏に富んだ稜線を描き、顔立ちも人形のように整っており、美しい。
その青紫色の髪は腰まで伸び、毛先は橙色に変わる。その様はさながら、黄昏の空のようだ。
身に纏う装束は、その身体を強調するような、丈の短いワンピースドレス。何やら妙な装飾が多く施されているのが、奇抜な印象を与えている。
少女────アリエキシアスの、琥珀色の瞳が貴族を見上げた。それだけの仕草で、貴族は胸が高鳴ってしまう。
「うん、悪くないね」
鈴を転がすような声で、アリエキシアスが答えた。
「剣闘を見るのは初めてだけど、いやぁ、みんな大したもんだ」
にこにこと言う少女が何者なのか、貴族はよくは知らない。ただ、彼女が魔導師と呼ばれる者であり、さるやんごとなきお方の友人である、とだけ聞いていた。
そして、彼女が剣闘試合を観戦するというので、接待のために自分が呼ばれたのだ。
「武術、武道は門外漢だけど、うん。みんなただ斬り合うだけじゃない、術理があるのはわかるよ」
見ただけで読み解けるものではないけれどね。そう付け加える。
楽しそうに笑う姿は、少女そのものだ。本当に何者なのか。
貴族は少し考えてから、頭を振って余計な詮索をやめる。それよりも、今はこの美しい少女に剣闘を楽しんでもらうのみだ。
「お気に召したようで何より。次はいよいよ、花形の試合ですよ」
丁度、貴族の声に応えるように、別の声がアリエキシアスに聞こえてきた。
「さあ、紳士淑女の皆さま!いよいよ本日の大一番!!」
場内に、司会の声が鳴り渡る。その声は大音声ではない。だが、闘技場の仕掛けと帝国魔術師の魔法により、観客全員にその声が聞こえているのだ。
そして、司会の声に呼ばれるように、一人の剣闘士が姿を現した。
「北門より入場しますは、帝都に現れて早二年、未だ無敗!斬るも斬ったり七十五人!」
中背にして無駄なく鍛え上げられ、引き締まった肉体。その黒髪、黄色い肌は彼が東方の出身であることを物語っている。
「遥か極東より流れ着いた遍歴の騎士!イシャオ・トゥラコア!!」
客席から歓声が上がる。トゥラコア、あるいはトゥーラと、剣闘士の名を呼ぶ声が繰り返し響き渡った。
剣闘士トゥーラ。その顔付は彫りこそ浅いものの精悍。防具は手足を守る小具足のみ。
腰に佩くのは極東様式の刀。それを大小二刀────太刀と脇差を持つのは、極東の武士である証左か。
その姿を見て、アリエキシアスは「ほう」と声を漏らした。次いで、身を乗り出してその姿を見ようとする。
なにか、目を引くものがあったか。貴族の男は食いつきの良さに機嫌を良くした。
「彼は先年の戦で捕らえた傭兵だそうです。極東の剣術を操る珍しさも相まって、相当な人気ですよ」
「へえ……面白そうだね」
言うや、アリエキシアスはトゥーラの顔をジッと見つめた。
そして、真理の言葉を口にした。
「“
それは事物の真の数字を解き明かし、世界の理を操る数秘術。アリエキシアスの前で空気が歪み、そこを通して見る景色が大きく見えるようになる。まるで間近にいるかのように、トゥーラの姿が見えた。
次いで、さらに術を重ねる。
「“
歪んだ空気を通して見える景色。そこから、トゥーラの声、発する音が聞こえてくる。
なるほど、魔導師というのは本当のようだ。貴族は感心し、魔法によって拡大された景色を見た。
トゥーラは、己の名を呼ぶ歓声を聞きながら、天を仰ぐ。中天に至った太陽が、青空に眩しい。
「いい仕合日和だぁな」
唇の端を吊り上げ、笑った。
トゥーラは帝国の出ではない。司会の言う通り、極東の皇国より旅の果てに流れ着き、故あって剣奴に落ちた身である。
ただ己の剣の技のみを頼りに生きてきたトゥーラにとって、剣闘士という生き方は性に合っているように思えていた。
闘技場には、富と名声があり、武勲もある。無いものと言えば、自由くらいのものか。
「対するは、南門より入場します!一度は自由民の地位を勝ち取りながら、勝利の栄光を求め闘技場へと舞い戻った勇猛なる男!ヴラドレイ!!」
トゥーラの真正面、彼方の門から、男が現れた。
左手には盾、右手にはやや小ぶりな剣。角の生えた兜を被ったその姿は、実に典型的な剣闘士だ。
しかし、立ち振る舞いを見ればわかる。その歩み、その覇気。間違いなく、彼は百戦錬磨の豪傑だ。
剣闘士ヴラドレイ。剣奴の身から解放されながら、また自らの意思で剣闘士になったという、その飽くなき闘争心の持ち主だ。その勇姿を見た観客が、再び歓声を上げる。
「ヴラドレイ!待ってたぞ!」
「お前の戦いが見たかったんだ、ヴラドレイ!!」
古参の剣闘士であるヴラドレイには、熱狂的な愛好者がいるようだ。
皆に愛される勇者。素晴らしい。トゥーラは、獰猛な笑みを浮かべた。
「斬り甲斐のある益荒男、って風だな」
大小二刀のうち、長い太刀を抜き放つ。それを見て、ヴラドレイも切っ先をトゥーラへと向けた。
闘いの始まりを予感し、観客が静まり返る。審判が神への祈りと皇帝への礼賛を述べると、いよいよ緊張が極限に達する。
「両者、勇猛に、気高く戦うことを求める。試合、開始ィッ!!」
合図と共に、トゥーラが疾駆した。
流れるような重心移動により、瞬く間に最高速度に達する。矢のような勢いで迫るトゥーラを、ヴラドレイは盾を前に構えて待ち受ける。
激突まで十秒とかからぬ。その時間で、トゥーラは敵手の装備、構え、意図を推し量る。
盾というのは厄介だ。持つだけで半身を隠してしまう。盾で太刀を弾き、剣でもって反撃する。単純だが効果的な戦法……おそらくは、ヴラドレイの狙いはそれだ。
それを理解して、正面から突撃する。
一方、ヴラドレイもトゥーラの狙いを読む。
太刀を担ぐように突撃する異邦の若武者。盾を相手に、如何に攻めるつもりか。
振り下ろすか、横に薙ぐか。構えからして、刺突はあるまい。疾走の勢いから、牽制ということもあるまい。
多少の誤差はあろうが、敵手の打ち筋は概ね二択。ならばヴラドレイは、これを盾でもって打ち崩すのみ。
(……あまりに容易い)
不可解だ。
ヴラドレイは訝しむ。敵は七十五人斬りのトゥラコア。それが、こんな無謀な突撃を敢行するものか?
豪剣の振るい手ならば、盾ごと腕を斬り落とすことも出来よう。特に極東の剣士は、一撃必殺を至上とすると聞く。ならば狙いは、そこか。
「────面白い!」
ならば正面から迎え撃つ。
トゥーラが太刀を振りかぶる。袈裟斬り、即ち左肩から右脇腹への一刀を狙う所作だ。
それを読み取るや、ヴラドレイの盾が動いた。刀と盾が触れた瞬間に上方へと打ち上げるべく、盾が持ち上がる。
果たして、激突は……起こらない。
「!?」
ヴラドレイが瞠目する。
トゥーラの歩調が不規則に乱れ、跳ぶような滑るような、奇怪な走法を取る。そして滑らかに、勢いを殺すことなく、トゥーラの身体が盾と反対の方向へと流れた。
「
盾が無意味に揺れ、右方から極東の一刀が迫る。咄嗟、剣を振り上げたのはまさしく熟練の勘によるものだった。
激突する白刃と白刃。重い音と火花が散り、二人の剣闘士がすれ違った。
すぐさま、互いに敵手へと向き直る。
「……味な真似を」
深く息を吐き、ヴラドレイが呟いた。
不安定な姿勢で受けたとはいえ、今の一刀は恐るべき威力だった。まともに喰らえば、まさに一撃必殺であっただろう。
一方、初太刀を防がれたトゥーラは、獰猛な笑みを浮かべていた。
「見事、御見事!良くぞ防いだ、ヴラドレイ!」
敵手の武勇を称賛しながら、太刀を構え直す。
互いの距離は、開戦の時に比べれば随分と近い。トゥーラの俊足ならば四歩といったところか。
この間合いでは、先ほどの歩法を用いた奇襲は用いることは出来ない。そもそも、同じ手は二度も通じるまいが。
沸き上がる歓声の中、両者は再度、動いた。
数合、剣と太刀、太刀と盾が打ち合う。互いに隙を見抜くべく、相手の動きを注視しながら攻防を繰り広げた。
その最中、何かが弾け飛び、宙を舞う。それは盾の端だった。
トゥーラの振るった太刀により切り飛ばされた、盾の一端。それが白い砂地に落ちるのを見て、観客が沸き立つ。
再び二人の剣闘士は、構え直し、睨み合った。
「スパッといったねぇ」
貴賓席、魔法で拡大された試合風景を見て、アリエキシアスは感嘆の声を漏らした。
よもや、盾をああも見事に斬ってみせるとは。
その驚きに、貴族が頷いた。
「熟練の剣士であれば、盾を両断するということも出来ます。しかし、闘いの最中にというのは難しいですね。それに斬り損じれば、剣が盾に食い込んで抜けなくなることもある」
それを思い切り斬り抜けたトゥーラの腕は見事なものだ。過言、そのまま盾ごと腕や首を斬り落とされた剣闘士も少なくない。
「斬られたのが端だけですんだのは、ヴラドレイが上手く受けた結果でしょう」
「ふぅん。盾ってのは、単に構えてぶつかるだけかと思ってたよ」
ニコニコと、楽しそうにアリエキシアスが言った。
その視線の先で、剣闘士達が動きを見せた。
ヴラドレイの盾捌きは精妙だ。駆け引きが上手い。
その守りを如何に崩すか、あるいはすり抜けるか。それがトゥーラの勝利に不可欠だ。その為に敵手を観察し、勝利への筋道を描く。
一方のヴラドレイも、油断なくトゥーラを睨み付ける。
予想はしていたが、やはりトゥーラの刀術は盾をも両断出来るものだ。単純に受ければ、腕を落とされよう。
そして、守りに徹していてはいずれ斬り潰される。
「……やるか」
ヴラドレイは小さく呟き、一歩、間合いを詰める。
トゥーラの太刀、その切先が揺れた。だが、それだけ。ただの陽動だ。
剣の間合いはトゥーラの方が広い。しかし、守りはヴラドレイの方が堅い。双方、迂闊に踏み込めば死が待つのは明白だ。
さらに一歩、ヴラドレイが進む。今度は、トゥーラに動きはない。
気が付けば、観衆も静まり返っていた。静かな攻防を、固唾を飲んで見守っている。
ヴラドレイの剣が動く。高く掲げられた剣のその切先が、ぴたりとトゥーラに向いた。今から、心臓を穿つと宣告するかのような構えだ。
それを見て、トゥーラが不敵に笑う。そして、その足を踏み出す、まさにその瞬間。
「カァッ!!」
ヴラドレイが咆哮し、大きな踏み込みと共に突き下ろした。狙うはトゥーラの心臓だ。
すかさず振り下ろされる極東の太刀が、襲い来る切先を過たず撃墜した。
「疾ッ!」
跳ね上がる太刀。反撃の刃がヴラドレイの脇腹目掛け、横薙ぎに襲い掛かった。
それを、盾の縁が受けた。
ここまでは、ヴラドレイの狙いに違わぬ展開だった。必殺を装った刺突は囮。反撃を誘い、これを盾で受ける。
トゥーラもまた、勝機を見ての反撃であろう。ならばその一刀は全力であり、この盾を必ずや断ち斬る威力を持つ。
それが狙いだ。盾を斬らせ、しかし両断される前に力を逸らし、刀を絡め取るのだ。
綱渡りめいた、命懸けの策。それに絶妙な盾捌きをもってして、ヴラドレイは────敗れた。
(馬鹿な!?)
盾が、斬り裂かれていない。衝撃と共に盾が揺らぎ、弾かれた太刀が跳ね上がっていく。
あの鋭さ、あの勢い。間違いなく盾は斬られるはずであった。それが、刃による一撃であったならば。
峰を打ち付けられた刀は、ただの鈍器。切断など為そう筈もなく、反作用によって弾かれるのみ。
完全な想定外、虚を突かれたヴラドレイの思考に一瞬、空白が生まれた。
(立て直さねば────!)
盾を構え直し、剣を振りかぶる。一瞬にしてそれを成す技量が、ヴラドレイにはある。
しかして追撃は刹那。ヴラドレイが最期に見たものは、中天から落下する白刃であった。
ヴラドレイの頭蓋が兜ごと両断される様を、アリエキシアスは魔法を通じて見ていた。
「いやぁ、大迫力でしたな!見事なものです!」
貴族が、本来は間近で見れない光景を見て、興奮していた。
精妙な剣技、巧妙な駆け引き。まさにこれこそが、剣闘試合の醍醐味だ。
剣闘士は野卑で粗暴な奴隷とも言われるが、必ずしもそうではない。彼らは訓練を積み、観客に恥じぬ闘いを演じる、誇り高い戦士なのだ。
「うん。凄いね、彼は」
アリエキシアスもまた、感嘆していた。トゥーラを見る目は宝石のように輝き、その顔は恋する乙女の如く。
それを見て、貴族は微かに笑う。年相応のその表情を見て、少しばかり安堵したのだ。
遠見の魔法、遠聞の魔法。いずれも使える魔術師は少なくないが、アリエキシスほどの精度を持つ者はそうはいない。
素性定かならぬ、やんごとなきお方と面識を持った魔法の達人。それが少女らしい面を見せたことは、いくらかの安心となった。
「どうでしょうか?オーナーに話を通せば、トゥラコアと会うことも可能ですが……」
「いいのかい!?」
貴族の言葉に、アリエキシアスが目を輝かせた。
実際、人気のある剣闘士との面会を望む愛好者も少なくはないし、そういった人々から賛辞や贈り物を受け取るのも、剣闘士にとっては嬉しいことだ。さらには剣闘士に惚れ込み、一夜を共にする婦人も珍しくはないものだ。
そして、剣闘試合を愛好するこの貴族は、剣闘士のオーナーにも顔が利く。ここでトゥーラと会わせてやれば、きっとアリエキシアスに恩を売り、やんごとなきお方からの覚えもめでたくなろう。
「無論です、アリエキシアス殿。早速、今夜にでも?」
「ああ、お願いするよ。うん、彼はとても良い」
うっとりとした様子で、アリエキシアスが頷いた。
その表情は、いっそ妖艶とも言えるほどであった。
「うん……彼が良いんだ」
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