第37話 ミラーマッチ
悪夢。いや、それ以上の何かだと心底思った。その
その姿を見るだけで、何もかもが鮮明に蘇る。記憶の底に砕いて散らしていたトラウマも、大切な思い出も、形を持って俺の心を食い潰す。
「……ひっ……ぁっ」
呼吸が出来ない。肺の中に鉄が詰め込まれて、身体中の組織の柔軟性が失われてしまったようだ。この場から逃げ出したいのに、足を動かすだけの力も無い。
動けない俺に何を思ったのか、目の前の『good knight』……いや、『グッドナイト』は深くため息を吐いた。
「はぁ……俺が特別に握手の機会をやってるんだが、目も合わせないで棒立ちか?無礼千万だな」
「お兄さん、しっかり! なんか、えっと、とりあえず深呼吸!」
「まあいい、時間を無駄にした……」
背後のたこらいすが何かを言っているのが聞こえる。だが、言葉の中身や意味がまるで入ってこない。駄目だ、意識が霞む。地上で窒息死する。
前を向けない、手足が動かない。ログアウト、ログアウトだ。ログアウトしないと――
震える俺の肩が、誰かに掴まれる。同時に後ろへ強く引き倒され、俺は受け身も取れずに雪原に倒れ込んだ。
「っく!?
「ん? 弓じゃなくて盾……あぁ、噂の二次職か」
鼓膜に響く、鈍い衝撃音。目だけを動かして見上げれば大盾を持ったたこらいすが、俺の前に立っている。大盾に押し付けられているのは、巨大な戦鎚。先程のプレイヤーが持っていたのと全く同じ武器をグッドナイトは扱っていた。
ギリギリ、と金属を擦らせる不快な音が響き、大盾を持つたこらいすが押し込まれて仰け反る。負けじとスキルを使用して押し返そうとしたようだが、グッドナイトはそれに合わせて力を抜き、わざとたこらいすに押し込ませる。
「『
「『カラミティ・ベイン』!」
「あぐっ!?」
急な均衡の崩れにたこらいすが前屈みの姿勢でつんのめり、その無防備な脇腹に戦鎚が叩き込まれた。重い金属鎧を着込んでいるたこらいすの身体が、冗談のように吹き飛ばされ、水切りの石のように雪原を跳ねて吹雪の向こうに消えていく。
「ふん……全武器種を使える代わりに、それぞれの熟練度が低いタイプか」
「あ……ぁ」
「さて……まずは後衛職から潰しておくとしよう。お前、光栄に思うんだな。かの『good knight』直々に仕留めてもらえるんだ。精々SNSで自慢でもするんだな」
心底愉しそうに笑う女の声が、『good knight』の姿から放たれている。俺は無様に尻餅を着いた姿勢のまま、目線を上げて、下ろして、上げて、下ろしてを繰り返し、システムコンソールを開いてログアウトを探した。
粘ついた唾液が口の端から垂れて、即座に凍る。パニックになった俺の思考を読み取って、システムがウィンドウを開く。
【注意:イベント中のログアウトは無条件の失格となり、報酬を受け取れなくなります】
【本当にログアウトしますか?】
【はい/いいえ】
「『カラミティ・ベイン』!!」
目の前の文章に目を向け、その内容を理解した瞬間――シールドの割れる音と同時に、俺の身体を強烈な衝撃が襲った。大型トラックと正面衝突したような、途方も無い振動とショック。鼻の骨が砕け、一瞬だけ意識が途絶える。白目を剥いていた瞳が戻った時には、蹴り出されたサッカーボールのように宙を舞っていた。
「ゴホッ……カハ……ッ!」
何度も何度も、雪原を転がる。反射で受け身を取ろうとしても、手足がまるで動かない。普段の硬直とはまた違う……震えによる無力感だった。
十メートル近くを転がり、公園のベンチか何かに身体を叩きつけて止まる。雪原の中に倒れたまま咳込んで、血痰と折れた奥歯を吐いた。
頭が割れたように痛い。頭蓋骨か顎の骨が骨折しているかもしれない。脳が揺れて、目の前の景色が白一色のまま理解が進まない。
吹雪と雪で何も見えない俺の視界の隅で、ウィンドウが通知を出していた。
【ユニークスキル:
【『
「ユ、ニーク……スキル」
目を回しながら、文字を読む。『臨界駆動』……どんな、スキルだったか。システムがウィンドウを開き、ぼやけた思考への答え合わせを行う。
ユニークスキル:《
【スキル形式】
パッシブ
【効果時間/再発動時間】
16秒/500秒
【説明】
1)死に至るダメージを受けた際に発動し、HPがマイナスまで減少する
2)効果時間中はHPがマイナスになっても死亡せず、HPのマイナス分だけ基礎速度除く全てのステータスが上昇する
3)効果時間終了時にHPがマイナスの場合は死亡し、1以上の場合は戦闘を継続できる
俺の現在HPは……【−52/670】。『臨界駆動』の発動によって、俺のHPはマイナスまで減少する。そして全ステータスがこのマイナス分……つまりは52増加している。
HPが装備効果のリジェネで回復していくのを見つめながら、俺はもう一度咳き込んだ。『決死の牙』の出血無効のお陰で、次の咳に血は混じらない。
(何が起きた……いや、理解しなくていい。もういい、無理だ)
悪夢の中に居るようだった。ともすれば、悪夢の方がマシだ。これが避けられようもない現実だということが、今の俺には耐えられない。
(戦える訳が無い……戦えたとしても、勝てる訳が無い。『
どこまでも当たり前の話だった。俺は、最強だったんだ。誰一人俺に手を届かせたヤツは居なかった。同じ領域に立ったヤツは居なかった。俺の一挙手一投足が理論値で、完全で、完璧だったんだ。
一度全てを投げ出した俺が、弛まない努力を重ねて、真っ直ぐ前を見れていた頃の俺に勝てる訳が無い。脳がどれだけ戦いの形をシミュレーションしても、勝てるビジョンがまるで浮かばない。
目の前の姿が偽物だと分かっていても、想像の中の俺の存在がどこまでも膨れ上がってしまって、どれだけ足掻いても超えられない壁になっていた。
身体に伝わる雪の冷たさと、身を切るような吹雪に身を震わせながら、思考操作で再びログアウトをしようとする。……そこで、風切り音に混ざって女の声が聞こえた。
「アストラルカウントが増えないと思ったら……なんで生きてるんだ? 特殊なシールドかユニーク? HPは一割以下か。何にせよ、俺に面倒をかけさせるな」
「……っ」
不愉快そうな声音と目つきは、虫を見るようだった。血のついた戦鎚を肩に担いで、グッドナイトがこちらを見下ろす。
(早く、ログアウトを。逃げないと。早く……逃げ、る?)
震えて動かない手足が、壊れて機能しない脳みそが、その単語に硬直する。怖いから、逃げるのか? 苦しいから、目を逸らすのか?
「――あぁ」
深く、息を吐いた。そうして、確かに目線を上げる。そこに立っているのは、過去の亡霊。何度も忘れようとして、忘れられなくて、ただただ縋り続けていたモノ。
その黒い瞳に見据えられるだけで、過去の失敗が頭を過って、今の自分の情けなさを浮き彫りにされているようだった。もう二度と、その姿には戻れないのだと突きつけられているようだった。
――アリス。こんな気持ちだったのか。こんなに怖いのに、お前はヴィラ・レオニスに挑んだんだな。
「ふっ……く……ッ」
「今更立ち上がっても遅い。子鹿みたいな足腰で、俺の攻撃を避けられる訳ないだろ」
グッドナイトが戦鎚を構える。怖い。逃げ出したい。でも……彼女は逃げなかったぞ、と誰かが耳元で囁いた。散々に彼女を勇気付けて、焚き付けたお前が逃げるのか?
彼女に出来たのなら、お前にも出来なきゃダメだろ。立て。前を向け。呼吸をしろ。
システムが俺の意思を汲み取ってログアウトに『いいえ』を返した。同時にグッドナイトが戦鎚を振るう……その一瞬前に、俺は口を開いた。
「――なぁ、パチモン」
「……ぁ゙?」
吹雪の中に居るのに、汗が止まらない。脂汗を額から垂らしながら、俺は無理矢理笑みを作った。……あぁ、良かった。エンデの言葉で多少笑みを作っていたから、それなりにまともな笑顔が作れる。
俺の言葉に、グッドナイトはピクリと動きを止めた。その目が見開かれ、瞳孔が収縮する。何を言われたのか、その意味を咀嚼するような数瞬の後、こめかみに青筋が立つ。それに向けて、覚悟を決めて口を開いた。
「……半端に姿だけ似せると、粗が目立つぞ」
「……お前……お前、今、なんて言った?」
「だからさ、そういうとこだ」
good knightがそんな風に青筋立てるかよ、と吐き捨てる。安い挑発だった。けれど俺にとっては、月への一步のように偉大な前進だ。good knightの姿に向き合って、その目を見て挑発をするなんて……以前の俺なら絶対に不可能だっただろう。
それが出来たのは、恐怖に向かう彼女の背中を見ていたからだ。文字通り、自分自身を乗り越えた『臆病な勇者』の在り方を知っているからだ。
「このッ、クズが……! 恥を知れよ。お前みたいな雑魚が、あの方を語るだと? 理解した風なしたり顔で、俺よりも物知り顔で……お前、何様なんだ?何者なんだ?どの口が――」
ブツブツとグッドナイトが言葉を重ねる。その顔色は真っ赤で、目は血走っている。
どれだけその姿が恐ろしくても、立ち向かわなくてはいけない。ここが、全ての分水嶺だ。己に負けて全てを失うか、己を超えて先へ行くか。
あの暗い部屋に沈み込んで溺れた俺が、もう一度這い上がれるとしたら……もう一度スポットライトの下に立てるとしたら、ここしか無い。
口の端に垂れた血や凍った唾液を手の甲で握って、蜂蜜色の瞳で『グッドナイト』を見据える。遠く爆発音と咆哮が響く戦場で、俺は震える手でスティレットを突きつけながら、俺が何者かを問うグッドナイトに宣言した。
「俺の名は……『ミツクモ』。お前の言う通り、何も出来ず震えるだけの雑魚で、自分のことさえ分からないクズで――これから、『
「――ッ!? ……殺す。殺してやる……!」
突きつけたスティレットの震えが止まらない。折れた奥歯同士が噛み合って揺れている。この身に余る恐怖はまるで消えていない。だが、それでもいいんだ。
――真の勇気は、真の恐怖の先にある。他ならぬ勇気の証明が口にした最期の言の葉は、俺の心にも溶け込んでいた。
俺の見据える先で、good knightを騙る誰かは、黒い瞳にゾッとするほどの殺意と憎悪を込めて俺を睨み、その背後に黒いオーラが浮かぶ。同時にそのオーラの中から四本の『腕』が出現した。青白い、骨と皮だけの死人めいた腕。それらは一本につき一つ、それぞれ独特な武器を構えている。
黒鉄の鎖、青銅の鉈、蒼銀のチャクラム、白金の杖。
「『
十中八九、彼女が持つユニークスキルの一つだろう。目線を動かして、彼女の頭上の情報を閲覧する。
【プレイヤー名:グッドナイト Lv46】
【称号:『夜の叡智を知りし者』】
【職業:
凄まじいレベルの高さ。何よりも恐ろしいのは職業である『
目を細め、後ろ足に重心を掛けつつ、右回りにジリジリ歩いて位置取りを変える。グッドナイトは過激な発言の割にじっと俺のスティレットを凝視して動かなかったが……ニィ、とその顔に悪辣な笑みが浮かんだ。
「『
「……ッ!?」
予備動作の無い胸裏の発動。グッドナイトが持っていた戦鎚がドロリと溶ける。黒い液体のように溶け出したそれは、一部をグッドナイトの身体に吸収させながら、見覚えのある形に変形した。
それは聖職者が掲げる十字架のような形状で、先端は鋭く尖らせた、両側に刃の無い刺突武器だ。黒……いや、目を凝らせば微かに藍色の滲む無骨な刀身は剣先から鍔までを含めて30センチ程しかなく、刀身、柄、鍔が交差する十字架の中心に、小さく緋色の宝石が埋め込まれている。それはまさしく、今の俺が握っている――
「『
「ふぅん……パリィ武器ねぇ。……それに、お前の持ってるスキル……なんだこれは。ユニークばっかりじゃないか」
グッドナイトの声と共に、俺の頭に
(なんだ、頭の中に流れ込んでくる……いや、それよりも、なんなんだこの胸裏は。コイツ、どこまで人のマネをし続ければ気が済むんだ?)
無茶苦茶にも程がある胸裏の詳細に目を剥く。グッドナイトは軽くスティレットを振って感触を確かめると、顔に線を引いたような不気味な笑みで俺を見つめた。
「さぁ、ミラーマッチだ。自分の使ってた武器とスキルで死ぬ屈辱もオマケしてやるよ」
「……上等だ」
グッドナイトの背後の腕がギリリ、と武器を握り、鎖が硬質な音を奏でる。狂ったように跳ねる自分の心臓の音を聞かないふりで誤魔化して、その姿に一步踏み込む――その前に、吹雪を裂いて裂帛の声が響いた。
「おりゃああぁッ!!」
「あぁ゙!?なん……クソが。お前も死んでないのかよ……!」
斬馬刀に分類される、異様に長い太刀を大上段に振りかぶったたこらいすが、吹雪の向こう側から、グッドナイトに斬り掛かった。グッドナイトは舌打ちと悪態交じりに背後の腕を動かし、鉈とチャクラムの刃でたこらいすの攻撃を受け止める。
しかし、見た目通り背後の腕にはさほど膂力が無いようで、純戦士職のたこらいすの一太刀を防ぎきれない。
結果、浅くではあるが鎖を持つ腕が切り裂かれ、グッドナイトは素早くバックステップで俺達から距離を取った。
たこらいすが油断なくステップを重ねて俺を背後に庇い……俺の顔面と一割を切った残りHPを見て大きく慌てる。
「ごめん、お兄さん。恥ずかしい話だけど気絶しちゃってて……ってうわっ!?なっ、えっ!?顔……いや、体力もヤバ! わむちゃん装備で回復しないと!」
「……心配してくれてありがとう、たこらいす。ただ、大丈夫だ」
レベル差からして、フルHPでもなければ一撃を受けた時点で耐えられないだろう。そんな言葉を飲み込んで、自分を鼓舞するためにわざと大きな口を叩く。
「……もう、一発も貰うつもりはないからな」
「お前……ッ!」
「ヒュー! よ、良く分かんないけど、お兄さんがやる気なのは伝わった!なら全力で……あのいけ好かないグッドナイトとかいうやつを、しばく!」
たこらいすが斬馬刀を構え、俺はスティレットを右手に構える。対するグッドナイトは背後に腕を携え、右手に同じくスティレットを構えて、深く腰を落とした。たこらいすがそれを見て目を丸くするが、補足を入れている時間は無い。
「んぁ!? アレ、俺の武器――」
「来るぞ」
「殺す……!『死界踏破』!」
一段と強まる猛吹雪。狭まるエリアの壁。粟立つように巡る戦場の息吹を感じながら、弾丸のように突撃してくるグッドナイトに、俺も一步を踏み出した。
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