外伝2 透明にして
部屋の灯りをともせば、外を流れる雨は薄れていく。
窓にぶつかるその線をなぞるセシリアの手に、レナトは自分の手を重ねた。
「冷えてしまうよ、セシリア」
「いいの」
レナトもそれ以上セシリアを止めることもなく、細く小さい手に自分の手をそっと重ねていた。冷たさが伝染しそうな夜。同じ時を、同じ数を、同じ景色を、互いの寂しさを分け合うように二人で眺める時間は、刻々と過ぎていく。
風が吹けば、この雨も消えてしまうだろう。二人の影を攫って行くように。けれど、レナトは思う。こんな夜が永遠に終わらなければいいのに、と。
明日にはトルケマダ卿がトレド異端審問所に来る。どのような沙汰が下されるのかはわからないが、きっとよくないことが起こるだろう。
一番いいのは、異端審問官の職を解任されることだ。そうすれば、二人で手を繋いで何処まででも行ける。スペインとポルトガルの支配域には異端審問所があるから、それ以外のところがいい。魔女裁判もない、異端審問もない、どこかへ。セシリアの手を引いて逃げていけたらいい。
雪に変わりそうな雨をなぞるセシリアの指は、すっかり冷え切っていた。
「セシリア、手が冷たいよ」
窓に触れるセシリアの手から自分の手を離し、レナトは背中からセシリアを抱きしめる。すると、セシリアも雨粒をなぞっていた指をレナトの手に重ねた。二人の指は、ひどく冷たい。
「寒いね、セシリア」
「うん。雪が降るかなぁ」
「雪に変わるかもしれないね」
三月の頭は、まだ冬の寒さが街を包んでいる。外は暗い夜の雨に閉ざされて、真っ黒に染まった窓にレナトとセシリアが写っていた。
明日、僕らはどうなるのだろう。レナトはふと考える。解任されるのが一番いい、とは思っている。けれど、別の沙汰が下されたなら、明日からまたこうしてセシリアに触れていられるだろうか。それが不安で、レナトはセシリアの体に回した腕を少し震わせた。
「レナト、震えてる。寒いの?」
「……うん」
寒さだけではないことは、自分が一番よくわかっていた。
どうかセシリア、明日からもずっと、僕にその微笑みを向けていてくれないか。そんな傲慢な考えは、胸の中で留めておけた。
触れるほどに切なさが増す。明日があっても、明日の先があっても、レナトは人間で、セシリアは人狼だ。それは何があっても覆らない。セシリアに触れるたび、心残りが増えていく。自分がいなくなったら、この孤独な少女はどうなるのだろう。そればかりがレナトの心を塗りつぶす。
ずっとそばにいられる保証はない。誓った言葉はきっと、嘘になる。
早く手を打たなければならない。セシリアが二百年を幸せに暮らせるように、何か。けれど、今は。今だけは。セシリアとの愛を、二人の秘密にしていたい。誰も知らない秘め事にしておきたい。それは異端審問官という立場が理由ではない。この小さな少女を、自分の手に閉じ込めておきたいという、つまらない独占欲なのだ。
自分がそんなつまらない感情を抱く人間だとは、思ってもいなかった。レナトは自嘲する。けれど、この雨が消え去れば明日はやってくるのだ。だから、今だけ。今日、この時間だけ。
明日はどうかわからなくても、変わらない結末を予感して、レナトはセシリアを抱く力を強くする。やり直しは効かないものだ。
「苦しいよ、レナト」
「うん、ごめんね。でももう少しだけ、こうさせて」
心はいつだって一緒にいる。そんな言葉が、どれだけ陳腐か! レナトを失えば、セシリアの心にも大きな穴が開いて、それを埋めることはきっと誰にもできないだろう。
だから、今だけ。これが平穏無事な生活の最後の日になるかもしれないと思えばこそ、これが、最後の。
悲しみから抜け出せずにいるだけなら、窓に映る二人の姿まで、雨にかき消されてしまえばいい。レナトの手に重なるセシリアの手は、すっかり温かさを取り戻していた。この今を、どうか失いたくない。だったら、夢も現実も、全部、透明にして。
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