第14話 異端審問官の寂寞
レナトは、セシリアを救えただろうか。監禁しただけで。愛を与えただけで。どこまでセシリアを孤独から救っただろうか。これからも、狼となったセシリアには孤独が付きまとう。狼は群れで行動する生き物だ。けれど、セシリアはその輪に入ることはできない。この先もずっと、独りぼっちだ。結局レナトは、セシリアを本当の意味で救うことはできなかった。
それでも、愛している。セシリアの体を構成する一部になりたい。そうすれば、セシリアの中にレナトは生き続ける。それはセシリアの孤独を癒せるだろうか。そうであったら、いい。
「もっと僕に触れて、セシリア」
血がたまった手のひらをセシリアに近付けると、おずおずとセシリアはレナトの手を舐めた。手のひらに血が無くなったら、またナイフで傷をつける。
セシリアは震えながら、レナトの傷口に舌を這わせる。この行為をやめるのならば、これが最後の地点だった。けれど、レナトにやめる気はない。ナイフを置き、空いている方の手でセシリアの背中を撫でた。震えている、小さな背中を抱きしめた。これが最後だ。本当に、最後。小さな体を壊れるほど抱いて、レナトも一粒の涙をこぼした。
*
きっと、今までの人生は君を見つけ出すためにあったんだ。レナトはかすかな意識の中でそう思う。指の先から齧られて、右腕は肘から下がもう殆どない。失血で命を手放すのも時間の問題だろう。薄れゆく意識の中で、レナトは最初で最後の恋を握りしめる。
探していたんだ。君という奇跡を。愛し愛されるという、簡単には手に入れられないものを。もっと、触れて。もっと、食べて。僕を君のものにして。レナトの右腕を咀嚼するセシリアの髪を、左手で撫でる。この感覚が心地よかった。さらさらと手からこぼれていく細い髪の感触を、永遠に味わっていたかった。
もうじき、死ぬだろう。冷たくなっていく体を感じながら、レナトは最後に残った意識でセシリアの顔をじっと見る。セシリアはまだ、泣いていた。
「泣き虫の人狼さん」
「……っ、れなと、あいしてる」
「僕も……永遠に、愛しているよ。セシリア」
生まれ変わるときを待ち焦がれている。次の人生があるとしたら、またセシリアを愛する。そして今度こそ、幸せにしてみせる。今の不甲斐ない僕ではできなかったことを、どうか、来世では。
来世の僕よ、もっと強くなってくれ。セシリアを守り通せるくらいに、強くなってくれ。もう一つ期待するなら、異端審問官ではない、普通の男としてセシリアを抱きしめたい。
「あいしてる」
震えた声で紡いだ言葉は、セシリアに届いただろうか。分からない。この言葉を最後に、レナトは意識を手放した。
*
ぐちゃ。ぺちゃ。ずるり。咀嚼音だけが静かな部屋に響いている。
柔らかかった絨毯は、レナトの血を吸って冷たくなっていく。壁に飾られたカトリック両王の肖像画には血が飛んで、顔を塗りつぶしていた。
セシリアは本能のままにレナトを齧っていく。もう右腕は全部食べた。左腕も、あと半分くらいだ。夜が明ける。セシリアの細かった腕は、銀色の毛が覆いつくしていた。髪を飾っていた組み紐が絨毯の上に落ちる。セシリアは四つん這いになって、レナトの体を咀嚼し、血を舐めていく。飢えている。いくら食べても足りないのだ。聖職者の肉は蕩けるように甘い。がつがつとレナトの体をひたすらに貪る。
朝が来て、太陽が空の頂点に来て、そうして大地の向こうに消えていくまで。一日かけて、セシリアはレナトを貪った。絨毯に染み広がった血も吸いつくすように舐めた。そして最後に残った心臓を、大きな口に生えた牙で嚙み千切って。……ごちそうさまでした。そうしてセシリアは──セシリアであった銀色の狼は、スペインの広大な大地へと消えていった。
*
コンコン、とレナトの家の扉が叩かれる。アンヘルだ。
レナトは仕事を無断欠勤したことなどなかった。だが、もう三日も異端審問所に顔を出していない。病でも患ったのだろうか、と、アンヘルはどうしても気にかかり、レナトの家を訪ねたのだ。ノックしても、反応はない。
「レナト様! いらっしゃらないのですか!」
呼んでも、レナトからの反応はなかった。嫌な予感に、アンヘルはドアノブを捻る。すると、鍵がかかっておらず、ドアはすんなりと開いた。レナトがこんな不用心をするはずがない。アンヘルは背中に冷たい汗が流れていくのを感じた。決死の思いで扉を開け、中に入ると、鉄臭さだけが静かな家の中を支配している。
「レナト様……?」
玄関にあった蝋燭にマッチで火を灯し、アンヘルは廊下を進む。カーテンが閉まっているのか、それともこの曇り空のせいか。部屋の中は異様に暗く、そして冷たい空気だけが流れていた。
そうしてさほど時間がかからないうちに、アンヘルは見ることになる。それは食いちぎられた血まみれのローブの間から見える、しゃぶり尽くされた骨。糸が切れてバラバラに散らばったロザリオを、アンヘルが見間違えるはずもない。
「レナト……様……」
何処で間違えたのだろう。何が彼を追い詰めたのだろう。後悔しても、もう何もかもが手遅れだ。レナトの心など、今更知ることもできない。ただ一つ真実なのは、レナトの魂はもうこの世にいない、ということだけだ。
数日の後に、レナトの葬儀が執り行われた。田舎からレナトの両親が来て、レナトが納められている棺桶を抱きしめて泣いていた。立派な職に就き、順風満帆な暮らしを送っていたはずの息子がなぜ、と嘆いていた。アンヘルはそれを黙って見ていることしかできない。
アンヘルは、レナトの両親にレナトの死にざまを伝えることはできなかった。体を失い、骨だけとなったなどと言えなかった。だからこそレナトの両親が来る前に、棺桶の蓋に釘を打ったのだ。レナトの両親は最後に息子の顔が見たいと懇願していたが、アンヘルの指示もあり、誰も棺桶の蓋を開けることはしなかった。あまりにも残酷な死にざまだったからだ。
アンヘルが最後に奉公できることがあるのならば、レナトが最後まで清廉な異端審問官であったということにする、それだけだった。
静かに墓穴の中にレナトの棺桶が沈められた。土をかけて、それっきりだ。哀れな異端審問官の死は、今後語られることは無いだろう。異端審問官と人狼の恋は、これっきりで終わりだ。誰も、その恋を知ることはない。雲雀が鳴く春の頃になると、レナトの墓標に、野に咲く白いイベリスの花が置かれていることも、誰も知ることは無いだろう。
イベリスの花言葉は「初恋の思い出」。そう、この花をレナトの墓に置いた誰かも──真実に、レナトのことを愛していた。
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