第13話 真実の愛


 


 雨が降っている。この寒さなら、雪に変わるかもしれない。太陽もない空の下で、レナトは歩いている。トルケマダ氏からかけられた言葉全てが、頭の中でぐるぐると回っていた。異端審問官を続けていくには、セシリアを殺さなければならない。セシリアを失っては、生きていけない。「人狼は処分しておくのだぞ」というトルケマダ氏の笑い声が、レナトの頭痛をひどくさせた。


 殺すことなど、できない。セシリアを。あの愛しい子を。孤独を味わい、やっと人並みの幸せと希望を与えてあげられたというのに、この手でセシリアを殺さなければならないのか。


 家に帰りたくない。セシリアに、この残酷な現実を伝えたくはない。かといって、何も知らぬセシリアを、レナトのことをすっかり信じているセシリアを突然に裏切ることも考えられない。


 もう、何も。考えられない。雨はみぞれに変わり、レナトのコートを濡らしていった。冷たい。寒い。セシリアが作ったスープの味が恋しい。けれど、今の自分に、セシリアが作る豆の甘いスープを口にする資格があるだろうか。そんな資格、自分にはない。レナトはそれを理解している。本来ならば、もうセシリアに合わせる顔もないのだ。何も、反論できなかった。セシリアを愛してしまったことも、言えなかった。殺せという命令を、はい、と飲み込んでしまった。


 昇進なんてしたくない。セシリアと共に過ごす時間があれば、それだけでよかった。そんなささやかな願いさえ、この世界は、神は、許してはくれないのだろうか。悲しみは海にあらず、すっかり飲み干せる。そんな言葉を言ったのは誰だったか。嘘だ。失意には底がない。底なし沼のようにレナトの足を絡めとり、全身に冷たく纏わりついてくる。


 死にたい。ふと、そんな感情が頭に浮かんだ。死ねばセシリアを殺さずに済む。けれどキリスト教に置いて自殺は禁忌である。敬虔な信徒であるレナトに、自殺という選択肢はない。それに、自分が自殺してしまったら、セシリアはこの後どうなるのだろう。それを考えれば、レナトに自殺は許されていない。


 けれど、どうにも死にたい気分だ。セシリアのいない人生を想像できない。セシリアの命を犠牲にしてまで、異端審問官の仕事にしがみ付きたくもない。けれど、現長官であるトルケマダ氏の命令に背くこともできない。


「セシリア」


 みぞれの降りしきる中で、愛しい彼女の名前を呼んだ。たった半年を共に過ごしただけだ、真実に愛しているとは言えないのかもしれない。これが永遠の愛である保証などない。けれど、名前を呼ぶだけで、心にじわりと温かいものが広がる。家に帰れば、いつものようにセシリアはレナトの胸に飛び込み、冷えた体に温もりを分け与えてくれるだろう。セシリア。セシリア。心の中で呼ぶ度に思う。なんて愛しい名前なのだろう。


 世界が自分たちのためだけにできていないことは分かっている。寧ろ、逆だ。世界はひどく残酷に、レナトとセシリアの別れまでの時間を刻み続ける。時間を巻き戻す事が出来たなら、無力で、愛を知らなかった自分を殴っただろう。けれど、それも現実にはならない。後悔だけを抱いていくしかないのだ。これは罰だ。何もかもに知らないふりをしていたことへの、罰だ。呼吸もできなくなる。セシリアの名前を口にすることも、罪なのだ。


 セシリアに合わせる顔がなくてさんざ遠回りをしてみぞれの中を歩いてきたが、結局帰るところは自分の家しかない。セシリアがいる、この家。一つ息を吐いて鍵を開け、ドアノブを捻る。ドアを開ければ、家の中は外にみぞれが降っているのも嘘のように暖かかった。そうしてリビングからいつもの軽い足音が踊るように近付いてくる。


「レナト、おかえりなさい」


 セシリアは何も知らず、レナトの胸に飛び込んでくる。それに、応えていいものなのか。レナトはセシリアを抱き返していいものか少しの逡巡のあと、そっとセシリアの背中に手を回す。


「……ただいま、セシリア」


 今、この瞬間を切り取って永遠にしてしまいたい。セシリアのことを、愛している。狂おしいまでに愛している。このまま鼓動までもお揃いになればいいのに。


「セシリア」


 愛しい名前を呼んだ。するとセシリアはなぁに、レナトと言いながら頬をレナトの胸に寄せてくる。この瞬間だけ、世界は自分たちだけのものになった気がする。世界に二人っきりで、呼吸も忘れるくらいに。


 何度だって。これから先、永遠にセシリアの名前を呼んで生きていたい。ようやく気付いたのだ。セシリアの名前を呼べる生活が、どれだけ幸せに満ちたものだったか。セシリアの名前が、どれだけ美しいか。何度だって呼んできたその名前が、どれほど──美しい、福音のような響きだったかを、今になってやっと思い知った。福音だったのだ。セシリアの存在は、レナトにとっても、神から賜った奇跡だったのだ。


「愛してる、セシリア」


 心の底から、愛している。一緒に過ごした時間はまだ短い事は、もうどうでもよかった。腕の中におさまっているセシリアが、「うん、セシリアも」と返事してくれたことが、全てだった。この愛は永遠だ。誰も、二人が繋いだ指を引き離すことはできない。共に過ごした時間が短いことなど、何だと言うのだ。


 レナトはすう、と息を吸う。これからセシリアに言うことは、酷く残酷な言葉だ。けれど。レナトは思う。一緒に幸せになれないのなら、一緒に不幸になりたい。


「セシリア、僕を食べて」


 はっと、セシリアが顔を上げてレナトの顔を見つめた。その表情は恐れと動揺に満ちて、赤い瞳がぐらりと揺らいでいる。


「僕を、食べてくれないか」


『人狼は、人間の血肉を喰らうと森の護り手としての能力を失い、只の狼になってしまうという枷を持っている』


 アンヘルが提出してくれたレポートの内容を頭の中で反芻する。もう、これしか手段は残されていない。この方法ならば、レナトが自殺という禁忌を犯すことはなく、セシリアは自由な狼として風になれるのだ。これが最適解。レナトはそう結論付けた。共に生きることを許されない二人の愛の終着点は、そこにしかない。


「どうして、そんなことを言うの」


「セシリア、君を殺せと命令された。でも、僕にはそんなことはできない。君を、愛しているから」


 セシリアだって、レナトのことを愛している。そんなことはレナトにだってわかっていた。これは逃避なのだ。レナトが手を下せない代わりに、セシリアの手を血で染めようとしている。殺せないから、殺してくれ。そんな傲慢な手段しか、もうレナトには残されていない。


「や、やだっ! ならセシリアを殺して!」


 セシリアはレナトから飛びのき、数歩下がる。銀の尻尾が逆立っている。本気で怒っているのだろう。セシリアが怒るのも当然だ。けれど。


「君がいない人生にどんな幸せがあるって言うんだ」


 それが、全てだった。いくら昇進しても、傍にセシリアがいない人生など、無いも同然だ。今セシリアをこの手にかけてしまえば、その後の人生は闇だらけだ。やっと気付くことができたのに。異端者も愛を持つ人間だと、やっと気付くことができたのに。セシリアを殺してしまえば、以前の冷酷無比な自分に戻ってしまう。愛を知らない自分に戻ってしまう。それが、恐ろしい。なればこそ、愛を知ったまま死にたいのだ。


「セシリア。自由に野山を駆け巡って生きるといい。監禁はもうこれで終わりだ。狼になれば、君は何処かの山で自由に暮らせる。狼の脚なら、いずれは元の森に帰れる日が来るかもしれない」


「そんな自由、いらない! 監禁されたままでいい、一生このままでいい!」


 セシリアは、大きな目からぼろぼろと涙をこぼしている。レナトには、水晶のかけらがセシリアの頬を飾っているように見えた。


 レナトはセシリアの肩を抱き、キッチンへと向かった。そうしてナイフを持ち、自分の手のひらにナイフの刃を滑らせる。深く切った故、水を掬うときのように手を丸めると、手のひらにあっという間に血がたまった。


「飲んで」


「やだっ!!」


 セシリアはレナトの血から逃れようと顎を引いた。けれど、これが人狼の性と言うものなのだろうか。セシリアは、自分の口の中に涎がたまっていくことを感じ取っていた。人間の血だ。初めて見た。高級ワインのような香りに目が眩む。聖職者の肉は、殊更美味いだろう。だが、一口それを啜れば、もう自分は人狼ですらいられなくなる。人の血肉に狂った狼になってしまう。それが、怖い。自分が自分でいられなくなることが、怖い。レナトを殺してしまうことが、怖い。セシリアだって、そうなのだ。自分の長い寿命の中で、たった半年を過ごしただけの契約相手を、こんなにも愛してしまった。一番に愛していると言ってくれたレナトを、一番に愛してしまった。異端の身空で、身の程を知ればよかった、あんなことを言わなければよかった。後悔と食欲が頭の中に混在している。


「セシリア」


「……レナト」


「愛してる」


 レナトは初めて、セシリアの唇に口づけをした。セシリアの口の中に、鉄の味が広がっていく。セシリアが気付いた時にはもう遅かった。レナトは、自分の血を口に含んでから、セシリアにキスをしたのだ。ああ、極上の味がする。今まで味わったことがない、甘美な味わい。セシリアの瞳から、温もりが損なわれていく。嗚呼、嫌だ。嫌だ。まだ、人間の心を失いたくはない。レナトを愛していたい。そんなセシリアの心と裏腹に、本能はもっと血をと求める。血が欲しい。肉が欲しい。口の端から涎がこぼれる。涙と涎で、セシリアの顔はぐちゃぐちゃだ。でも、理性と本能の間で煩悶するセシリアの姿こそ、何処までも人らしく、美しいのだ。レナトはそう思った。


「セシリア、心から君を愛してる」


 最初で最後の恋だった。レナトにとっても、セシリアにとっても。この瞬間こそ、本当の愛の瞬間だった。

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