第10話 異端


 アウト・デ・フェを行う際には、二週間前から告知しなければならない。役人による騎馬行進で、アウト・デ・フェの開催を全市に伝える、というのがこの数年での通例だ。


 異端審問は単なる宗教的な儀式ではなく、社会全体にかかわる業務となっていた。トレドのマヨール・プラサでは、既に役人たちがアウト・デ・フェとその翌日にある処刑のために刑場を誂えている。牢が一杯、とはまさにその通りで、次のアウト・デ・フェまでに裁判をしなければならない人数は五〇人を越えていた。これは大仕事である。


 レナトが仕事に忙殺されている間に、いつの間にかアウト・デ・フェ二週間前になっていた。異端審問所から騎馬隊が出ていき、アウト・デ・フェの開催を触れ回っている。やることが多くて手が回らなくなる勢いだったが、仕事をしている間だけは余計なことを考えなくて済む。裁判に次ぐ裁判。この期間は拷問は行わず、ただ罪を裁くだけだ。いつも通りに罪を推し量り、罪状と刑罰を決めていく。毎日何件も裁判を行い、レナトは降りしきる雨の中、ぐったりと帰宅の途に着いた。


 忙しすぎる。アウト・デ・フェの開催を渋っていた自分の罪だが、余りにも忙しすぎる。自宅に着くと、あいも変わらずセシリアが玄関まで寄ってきてレナトに抱き着く。けれど、今日ばかりはレナトが疲れていることを察したのか、いつもより控えめなハグだった。


「おかえりなさい、レナト。ご飯作ったよ」


「ただいま、セシリア。いつもありがとう」


 温かい野菜のスープの匂いがする。やっと安らげる空間に帰ってきたのだと安堵し、重い体を引っ張ってリビングのソファに沈んだ。眠い。眠すぎる。今日はシエスタの時間も返上して働いていた。くたくたに疲れている。お腹だって空いている。間食も返上して、帰ってきたのは夕食の時間も近い夜八時だ。定時を大幅に超えた残業であった。


「つ、疲れた……眠い……お腹空いた……」


「レナト、大丈夫? ご飯食べれる?」


「食べる……食べたらすぐ寝る……」


「うん……じゃあご飯出すね」


 そう言い、セシリアはキッチンへと向かっていく。スペインでは夕食の時間は平均して夜九時ごろである。昼食が一日の食事のメインであるため、スペイン人は朝と夜の食事は控えめだ。小さなパンとスープがあればいい。レナトは酒が苦手なため、つまみを要求することもない。


 テーブルの上に、温かいスープとパンが並べられる。腹は空いているが、がっつく元気もない。木のスプーンでスープを舐めるように少しずつ口に運ぶと、温かさが冷えた体に沁み渡る。セシリアもレナトの正面に椅子を置き、パンをかじっている。


 春先とは言えども気温は低く、雪が降ることもある季節である。今降っている雨も、真夜中には雪に変わるかもしれない。冷え切った体に、ベーコンが浮かんだスープが有難い。


 一人だった頃なら、白湯を飲んで誤魔化していたかもしれない。いや、何も食べずにベッドに潜り込み、空きっ腹を寝ることで慰めていたかもしれない。そう思えば、矢張り二人暮らしというものに有難みを感じる。


「本当にありがとう、セシリア」


「ううん、いいの。セシリアにはこれくらいしかできないから」


「傍にいてくれるだけでも有難いのに、家事まで覚えてくれるだなんて、どれだけ言葉を尽くしても君には感謝しきれない」


「褒めすぎだよ、レナト……それより」


 セシリアは木のスプーンをテーブルの上に置き、レナトの顔をじっと見た。


「アウト・デ・フェ、やるんだね」


 悲しそうな声で、セシリアは言った。


「……知ってるんだね」


「騎馬隊が家の近くまで来て、聞こえたよ」


「そう……うん、やるよ。二週間後に」


 そう言うと、セシリアは俯いてしまった。アウト・デ・フェが周知されると、街は祭り騒ぎになる。娯楽が少ないこの時代、盛大に行われるアウト・デ・フェとその翌日の処刑は、立派な娯楽であった。そう言えば、前回のアウト・デ・フェは冬の手前、セシリアがやっと人間らしい生活を始めたかどうかの頃であった。


 あの頃は、セシリアはアウト・デ・フェのことを知らなかった。窓から見える街のざわめきに目をきらきらさせていたから、きっと今回のアウト・デ・フェも喜ぶ事とばかり思っていたが。理解した。彼女は、アウト・デ・フェの何たるかを今や理解しているのだ。そしておそらく、レナトの職業──異端審問官の職務ですらも、理解している。それを察し、レナトの背中に冷たい汗が流れた。


「……何人くらい処刑されるの?」


「ええと……二〇人くらいかな?」


「そんなに……」


 セシリアは俯いたまま、スプーンをギュッと握りしめた。レナトはその様子を見ていることしかできない。黙り込むことも、罪を認めているようなものだ。断罪を待つ思いでレナトも俯いていると、セシリアがぽつりと呟く。


「セシリアも、いつかその中に入るのかな」


「何を言っているんだ? セシリア、君は──」


 そう言ってから、数週間前にアンヘルから言われた言葉を思い出す。「レナト様の教義を揺るがせるような存在を異端としない理由がありません」。今日まで仕事漬けだったためにすっかり忘れていたし、仕事をしっかりこなしている以上は関係のない話だと思っていた。だが、セシリアにとっては違う。セシリアにとってアウト・デ・フェは、近い死の象徴なのだ。他ならぬセシリア自身が、これだけの時間をレナトと過ごした今になっても、否、今になってからこそ自分のことを異端だと認識しているということに、レナトはやっと気付いた。


「セシリア、人間じゃないから。いつ首に縄がかかるかと思うと、怖いよ」


「セシリア、君は人間よりも人間らしい。ここまで人間らしくするよう頑張ってきたじゃないか。君はもう、人間だよ」


「この足と、この耳と、尻尾。ねえレナト、本当にセシリアが人間に見える?」


「見た目なんて関係ない」


「そう言ってくれるのは、この世でレナトだけだよ。セシリアは……れっきとした異端なの」


 大きな目から涙が零れ落ちた。


 セシリアを怯えさせてしまった。セシリアを守るために頑張った仕事は、セシリアを悲しませるだけだった。レナトにはセシリアの首に鉄の輪を嵌めることなど考えられないが、他の異端審問官がどう考えているかなど、分かったものではない。セシリアと出会ったばかりの頃のレナトのように、セシリアの処刑を望む審問官もいるかもしれない。それも、見て見ぬふりをしていたことだった。


「……セシリアを処刑なんて、させない。大丈夫だよ」


「何が大丈夫なの? セシリアはあと二〇〇年くらいは生きるの。レナトがいなくなった後、セシリアはどうなるの?」


「それは……」


 レナトは言葉に詰まる。確かに、セシリアはレナトよりずっと長くを生きるのだ。自分が死んだ後のセシリアの処遇を、レナトは全く考えていなかった。否、考えようとしていなかった。自分とセシリアの間に、誰にも入られたくなかった。


 セシリアのことを真に想うならば、自分が死んだあとにセシリアの面倒を見る人間のアテをつけなければならないというのに、まだ先だ、ずっと先の話だ、と。自分はまだ二九歳になったばかりで、そんなことは死を考える年齢になってからでいい、それまでセシリアとの絆に闖入者を許したくない、だなどと、醜い考えに陥っていた。セシリアの胸にある傷を、知らない素振りで逃げ切ろうとしていたのだ。


「セシリア」


「……なぁに、レナト」


「僕は、この世で一番に君を愛しているよ」


「……うん」


「だから、死なせはしない。僕が死んだ後のことは、ちゃんと何とかするから。君が幸せな一生を送れるように、努力するから。だから、どうか──」


 僕を捨てないで。縋りつきたい気分に駆られる。既にセシリアをこの家に閉じ込めて半年が経過するのに、何が幸せな一生だ。セシリアは今後一生を何処かに閉じ込められて生きるのだ。それが幸せのはずがない。あの時、草の根を分けてでもセシリアが乗ってきた荷馬車の持ち主を探せばよかった。セシリアの生まれた森を探せばよかった。でも、今となってはもうすべてが手遅れだ。

 セシリアが真に幸せになれることなど、もう、ないのだ。それをまざまざと思い知り、結局今までセシリアに語り掛けた言葉の全てが無価値なものと理解する。セシリアを幸せにすることは、レナトにはできない。


 セシリアを取り巻く孤独は、今後も変わることは無いだろう。心に咲いた傷口は出血し続ける。流れる血が止まることはない。


 レナトが異端審問官である限り、異端審問という存在がある限り、ずっとこうしてセシリアを傷付けるのだ。いつ自分の首に鉄の輪がかかるかを不安がらせながら、この先たったの数十年を生きていく。その先は? 別の異端審問官がセシリアを管理することになるだろう。その異端審問官がセシリアを愛さなかったら? あり得る話だ。その異端審問官がセシリアの首に鉄の輪をかけるかもしれない。


 ──考えれば考えるほど、恐ろしくなる。セシリアと別れることなど、考えたくない。出来るのならば、自分もセシリアと同じに二〇〇年を生きていたい。だが、人間の身であるレナトの寿命は、残り三〇年もあればいい方なのだ。


 どうすれば、セシリアを少しでも幸せに生きられるようにしてやれるだろうか。考えても、答えは浮かんでこない。


「セシリア……僕はね、君に幸せになってほしいんだ」


「うん、レナト。レナトのあったかい気持ちはわかるよ」


「でも、どうすれば君は幸せになれるんだ? 森に帰ることが幸せなら、僕は今からでも君の森を探すよ。何年かかっても、君の森を探す」


「レナトといられるだけで、幸せだよ」


 テーブルの上に置いた手に、セシリアの温かい手が重なった。どうか、僕を捨てないで。僕を見捨ててどこかに行かないで。君とは歩む速度が違う僕を、捨てないで。僕が君を愛する限り、君は僕の傍にいると約束してくれたじゃないか。そう、約束を──それを破るのは自分だということに気付き、レナトは黒曜石の目から一筋の涙をこぼした。

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