第9話 心



 セシリアがレナトの家に来て半年が経とうとしていた。季節は春のはじめになり、雲雀が鳴く季節だ。


 セシリアは聖書もしっかり読み込み、元は神父を志していたレナトの説教にも耳を傾け、今では立派なキリスト教の理解者となっていた。食事の前には祈る。日曜には、レナトが読む説教を静かに聞いている。怠惰を良しとせず、日々勉強している。こうなれば、セシリアは全く異端ではない。人種という意味ではいまだ世間の爪弾き者ではあるが、こうして信徒として日々を過ごしている以上、彼女は異端者ではなくなっていた。


 一方で、レナトは仕事が捗らなくなっていった。異端者を拷問にかけることに、抵抗を覚えるようになってしまったのだ。地下牢にいる怯えた異端者の姿が、セシリアの最初の姿とかぶって見えてしまう。セシリアを人として受け入れたときから、この異端者たちとも分かり合うことができるのではないかと。拷問する必要はないのではないかと、思い始めてしまったのだ。


 異端者にも家族がいる。愛する人もいるだろう。自分がセシリアという人ではないものを愛しているように、異端者も誰かを愛して生きているのではないかと。自分の中に明確にあった教義が揺らいでいく。官吏の手によってラックに縛り付けられていく異端者に、レナトはついに触れてみせた。手袋越しにも、人の温度が感じられた。これは、この異端者は。人だ。人なのだ。そんな当たり前の現実を、今まで見ていなかった。


「……君には、愛する人はいるかい?」


 異端者に問いかけると、彼は想い人の名前を呟きながら泣いていた。異端として処刑されれば。処刑されなくとも、厳しい労役を課せられれば、もう想い人に会うことは叶わなくなってしまう。それが悲しいのか、まだ誰もラックのバーを引いていないというのに、異端者はほろほろと涙を流すのみだった。


 人だ。異端者も、人並みの幸せの元に生きていたのだ。レナトは今まで躊躇なく拷問器具を手にしていたというのに、この異端者の涙を見てしまっては、どうしても手を下すことができなくなった。泣くならば、改悛してくれ。どうか。拷問したくない。殺したくない。けれど、レナトがどれだけ心を尽くして説教をしても、一部の異端者はそれに首を縦に振ることはない。


 拷問は仕事の一つだ。作業だ。代表代理であるレナトがそれを躊躇うようになってはならない。今まで、どんな拷問だって顔色一つ変えずに行ってきたというのに。


 ──セシリアの笑顔を思い出すと、どうにも。手に持った鉄の爪が重く感じられた。




「レナト様、何かお悩みですか?」


 前と同じセリフで、アンヘルがレナトに果実水を差し出す。ここ数日というものの、アンヘルが出す香りのよい果実水の味さえ分からなくなってしまった。


「……悩み、というのかな」


「人狼のことでしょうか?」


「鋭いね、流石アンヘルだ」


 果実水を一口飲むけれど、矢張り味がしない。胸がつかえて、上手く言葉を紡ぐことができない。アンヘルに、このことをどう伝えていいのかもわからないのだ。


「異端審問官たちが噂していますよ、レナト様は変わってしまわれたと」


「変わった……? そう、なのかな」


「ええ、私もそう思います」


 アンヘルは真面目な顔でレナトの顔をじっと見た。アンヘルのオリーブ色の瞳に映った自分は、やけに情けない顔をしている。


「……セシリアは、孤独なだけだったんだ。異端じゃない。今では聖書の内容だって理解しているし、洗礼こそ受けていないけれど、その精神は教徒そのものだ」


「そうですか」


「セシリアがそうだったように、異端者もこのカトリック社会では孤独だっただけなのかもしれない。異教の神に縋るほどに……僕は、彼らを人として見ようとしてしまっている」


「異端審問官の口から出るとは思えないお言葉です」


「アンヘルにだから言えるんだ。……けれど、僕はもう、異端者を「人間ではないもの」と断じられなくなってしまった」


 モリスコにも、コンベルソにも、暮らしがある。家族がある。愛がある。どうして、そんな簡単で当然なことから、今まで目を逸らして生きてこられたのだろう。誰も、人を謀ろうとして異端に落ちているわけではないのだ。


 自分が幼い日に見たあのアウト・デ・フェで、連行されていく異端者たちは──皆、苦しそうだった。誰も、レナトを謀ろうとしていたわけではない。ただ、カトリックの教義が浸透したイベリア半島の中で生きることに、孤独を感じていただけなのだ。


 それを感じとってしまえばこそ、仕事が捗るわけもない。アウト・デ・フェを執り行うにあたってはレナトかトレド異端審問所の代表の承認が必要となるが、レナトは最近とんとアウト・デ・フェを執り行うことに及び腰だ。それを知っているからこそ、アンヘルは深いため息を吐いた。


「レナト様、貴方の職業は何ですか」


「……異端審問官」


「では、異端審問官として為すべきことはおわかりですね? 異端を裁き、慈悲を与えることが貴方の職務なのです。貴方は自分で言いましたね?『私たちの目的は厳重な見張りとなって教会という葡萄の樹を監視し、宗教という小麦から数々の異端を見つけ出すことに他ならない。こうしたことは、最初は恐ろしい行為に見えたことでしょう。けれど、今の皆様におかれましては、これが慈悲であることをお判りいただけると思います』これがすべてなのです。異端審問官として為すべきことの、全てなのです」


「分かっている、分かっているけれど」


「けれど、ではありません。これが貴方の選んだ道なのです。血と肉と怨嗟で敷いた道なのです。それが、異端審問官の責務なのですから」


 アンヘルの言うことは全て正論だ。レナトは自ら異端審問所の門を叩き、異端審問官となった。血と肉と怨嗟の声で出来た道を、涼しい顔をして歩んできた。今更の心変わりが認められるはずもない。誰も、許さないだろう。


 異端審問官は厳しい規律の上に成り立っている。只の悪趣味を持った者が簡単になれるような職業ではない。辞するには、何故辞するという考えに至ったか。それは異端の教義によるものではないかと審理される。最悪の場合、辞そうとした者も異端として罰されることもある。特にレナトは高位の異端審問官である。若くして代表代理を任されているのだ。そんなレナトが、簡単に異端審問官を辞することができないことは、レナト自身が一番よく分かっていた。


「ではレナト様、牢が異端者で一杯になりつつあります。処断を」


 アンヘルは冷たい声で、レナトにアウト・デ・フェを行う承認を求める書類を突き出した。


 自分の一存だけで、人を簡単に殺してしまえるのだ。今までいくらでも、そうしてきた。何人殺したかも、とっくの昔に数えるのをやめた。自分の背中には、どれだけの怨嗟の声が貼りついているのだろう。けれど、これが自分の選んだ道なのだ。牢が一杯となればこの書類にサインをしないだなんてことは、代表代理の職に就いている者として許されざる背任行為である。


 レナトは震える手で書類にサインせざるを得なかった。署名をした書類をアンヘルに突き返すと、アンヘルはやっとか、といった顔でそれを受け取った。


「……レナト様、あの人狼に情が移ったのですか」


「……」


 図星である。レナトは黙るしかない。


「その通りのようですね」


 アンヘルは呆れたように息を吐いた。こればかりは、今までレナトの傍に何も言わず付き添ってきたアンヘルにとっても見過ごせないことだった。主が教義の道を外れようとしているのだ。


「今からでもどうにか処断しますか?」


「それは……嫌だ」


「どうしてですか」


「セシリアは、異端ではないから……」


「レナト様の教義を揺るがせるような存在を異端としない理由がありません」


「洗礼を受けさせる……」


「人狼を洗礼する神父がどこにいるんですか」


「……僕じゃ駄目?」


「貴方は正式な神父ではありません」


 アンヘルはぴしゃりと言ってのける。レナトはアンヘルのこういうずけずけとものを言うところが気に入って側近に置いたものだが、今となってはアンヘルの言葉全部が心臓にとげのように刺さってくる。


「……レナト様」


 アンヘルはすっかり呆れてしまい、もう言葉もないといった様子だ。レナトもそれはひしひしと感じているため、これ以上何かを語っても全部言い訳にしかならないと悟り、黙った。


「責務は果たしてくださいね、レナト様」


「……仕事はします」


「ならいいのです。レナト様が人狼に情を移すのは構いやしないのですが、問題はそのせいで仕事が捗っていないことです。レナト様、貴方の仕事は異端者に慈悲を与えるものなのです。いつまでも異端者を徒に苦しめ続けることが慈悲でしょうか?」


「はい……違います……」


「それさえお分かりいただければ結構です。では次回のアウト・デ・フェは一か月後となります、裁判をお早めにお願いしますよ」


「はい……」


 この仕事は慈悲であるといわれてしまえばもうぐうの音も出ない。そう、過去に自分もそう言ったのだ。そう信じてきたのだ。


 スペインには多くの異端審問官が在籍しているが、私腹を肥やすために活動している審問官もいるなかで、レナトは真っ直ぐなほうであった。元々持っている潔癖な性格から、私腹を肥やしたことはない。毎日何通も送られてくる密告についても、真剣に吟味してから逮捕するかどうかを決めている。それは、この異端審問官という仕事が、異端者に最後の慈悲を与える仕事だと信じていた故だ。


 だが。レナトは足元が崩れるような感覚に陥っていた。異端者が自分たちと変わらず愛を持つ人間ならば、何故殺さなければならないのだろう。──それは、異端審問官が抱いてはいけない考えであった。

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