第8話 愛とはどんなものかしら


 


 十一月も終わりを迎えようとした日である。今年最後のアウト・デ・フェのために、レナトは大忙しだった。前回のアウト・デ・フェからそう時間が経っていないため、牢に入れられている異端者の数は少ない。それは裁判や手続きの数も少ないということに直結するが、トレド異端審問所の代表代理であるレナトには確認すべき書類も多い。自ら裁判を執り行うこともある。レナトはその杓子定規な性格から、手を抜くということを知らないのだ。毎日裁判、書類確認、裁判、裁判、裁判……その繰り返しに、レナトはアウト・デ・フェの度にぐったりと疲れて帰宅の途につくことになる。


 トレドの街は祭り騒ぎだ。本年最後のアウト・デ・フェは、盛大なものになる。今回は火刑に処される異端者も多いため、見物人は前回よりも数を増やすだろう。


 家に帰りつくと、セシリアは窓から外を眺めて銀色の尻尾をゆらゆらと揺らしていた。


「ただいま、セシリア」


「おかえりなさい、レナト。なんだか街がきらきらしてるね」


「ああ……明後日にはアウト・デ・フェだからね」


「あうと……?」


 セシリアは不思議そうな顔をした。そう言えば、彼女にアウト・デ・フェの説明はしていなかった。仕事を家に持ち込みたくない、というのが本音だが、今は、それ以上に──セシリアに、「人を殺す仕事をしている」ということを知られたくない、という感情もあった。


「ちょっとしたお祭りがあるんだ。でも……セシリアは外に出ちゃだめだよ」


「うん、そうだね。でも街がすごく楽しそうで……いいなぁ、どんなお祭りなんだろ」


「大した祭りじゃないさ」


 上手く誤魔化せただろうか。そんなレナトの不安をよそに、セシリアはまた窓の外を眺め始めた。どうやら苦しい言い訳はセシリアにとって真実になったようだった。


 レナトにとってアウト・デ・フェは仕事の一つでしかない。街の喧騒など、知ったことではない。ただ、自分の仕事を果たせればそれでよかった。けれど、今のレナトはどうしても引け目を感じてしまう。レナトが人の命を握りつぶす権利を持っている仕事に就いていることを、セシリアはどう思うだろうか。それが怖くて、レナトは今のところセシリアに自分の具体的な仕事内容を教えたことがない。


 異端審問官という仕事を字面でしか受け止めていないセシリアは、まだその職務内容を知らない。理解しているのは、自分がその憂き目に遭ったように、危険なものを留めておく牢屋があるところに務めている、という範囲のことでしかない。一応、聖職者だとは言ってある。そうだ、確かに聖職者には違いない。


「レナト、お祭りですてきなものがあったらお土産をお願いね」


 そう屈託なく微笑むセシリアに、矢張り真実は告げられそうになかった。



 アウト・デ・フェは問題なく進行し、翌日の処刑も無事に終わった。やっと帰れる。レナトは荷物を持って審問所を出、帰り道を歩む。そういえば、セシリアに土産を頼まれていた。儀式は終わってしまったし、そもそも主催者であるレナトが祭り気分に浸れるかというとそうではないが、約束した通り土産の一つでも買って帰らなければなるまい。


 レナトは少し遠回りをして、大通りを土産を求めて歩き回った。雑貨屋を、本屋を、花屋を──と様々な店を巡って、レナトが手に取ったのは、グーテンベルグ聖書。豊かな色彩で縁どられているそれを懐に収めて、レナトは家路についた。見た目も美しい聖書である。レナトが所持している聖書には記載されていない外典も載っている、珍しい本だ。レナト自身も、この本を見るのは初めてだった。


 セシリアは、喜んでくれるだろうか。その期待を胸に、レナトはセシリアが待つ家へと足を急がせた。




 

 セシリアがレナトの家に来てから三か月になる。セシリアは先日買い与えたグーテンベルグ聖書を独力で読んでいた。意味を理解しながら読んでいるかと問えば、セシリアは首を縦に振った。目覚ましいまでの学習能力である。どうやらよほど聖書が面白いらしく、セシリアは理解が及ばない部分はレナトに説明を求めながらもどんどん読み進めていく。


 ソファで二人並びながら、一緒に聖書を読み進めていく。そんな時間がどれだけ続いただろうか。セシリアはページをめくる手をとめて、レナトの顔を覗き込んだ。


「レナト、ユダはなんでキリストを裏切るの」


「さあ? 裏切者の心理など、僕の埒外だからね」


「そう。セシリアはね、ユダは寂しかったんだと思うよ。商人で、いろんな人から軽蔑されて。それを受け入れてくれたキリストが、自分だけを愛してくれなかったことが」


 セシリアも寂しかった。と、セシリアはぽつりとこぼした。


「セシリアも同じなんだ。村のみんなはセシリアを豊穣の守り手って大事にしてくれたけど、一番じゃなかった。セシリアは誰の一番にもなれなかった」


 だからユダは首をくくったんだ。キリストを裏切ったところで、結局誰の一番にもなれないことが悲しくて。セシリアは少し悲しげな顔を見せて、聖書にしおりを挟んで閉じた。


「ねえ、レナト」


 不意にセシリアが真面目な声でレナトの名前を呼ぶ。レナトがセシリアのほうを見ると、セシリアは大きな目を潤ませていた。


「セシリアは、レナトにとって何? あ、友達では……あるよね?」


 何、と問われれば。異端者である。人外である。埒外の存在である。厄介者である。けれど、この短い期間でも、セシリアは異端であっても悪ではないことは、レナトにもよくわかっていた。


 ただの、少女なのだ。セシリアは、ただの。独りぼっちの娘なのだ。


「……セシリア」


「ねえ、レナト、教えて。セシリアって、何なの。やっぱり異端なの? 人間じゃないから?」


「……人間じゃなくても、セシリアは僕にとって……大切な家族だよ」


 ここ数ヶ月で感じ始めていたことを、やっと口にした。セシリアは、愛しい家族だ。大切な存在だ。可愛い。愛しい。そんなことは、数か月前からわかりきっていた。


「家族……本当に? 神はセシリアにこの体を与えたの。人間じゃない生を与えたの。孤独を与えたの。ねえ、セシリアって、神様からさえ愛されていないの」


「そんなことない。セシリアは……人狼は森の護り手。豊かな森から生まれいでる、特別な存在なんだ。その身体は、神からの福音なんだよ」


 この言葉は、セシリアにはどう聞こえたのだろう。口から出まかせの慰めに聞こえただろうか。確かに、そうだ。レナトはセシリアの存在を公に肯定することはできない。けれど。この三か月の暮らしで、レナトにとってセシリアは、この一人の孤独な少女は、最早殺すべき異端者ではなくなっていた。


 大切だ。セシリアは最初に握手をしたとき『友達になる』と表現したが、今やセシリアとレナトは家族と言っても差し支えない。神が本当にセシリアに福音を与えたかどうかなど、さしたる問題ではないのだ。レナトは、息を一つ大きく吸ってから──一つ、言葉を落とした。


「僕は、セシリアを愛しているよ」


 その愛が、どんなものかはまだレナトにもとんと想像がつかない。けれど、愛している。それが恋か、家族愛か、哀れみか。そんなことはまだわからない。それでも、この感情を言葉に表すならば、それは愛だとレナトは思った。だからこそ口にしてしまったのだ。


 そうだ。レナトの人生でこの先、セシリア以上に愛おしい相手と出会えるだろうか。異端審問官である自分に、友達になろうと手を差し出してきた彼女を。たかだか組み紐で髪を結ってやったくらいで笑ってくれた彼女を。毎日、帰宅するたびに抱き着いてくれるほどに心を許してくれている彼女を。そう、愛しいと言わず、なんと言うのだろうか。


 異端審問官になってからというものの、レナトを見る他者の目にはほんの少しの怯えの色があった。レナトのことを恐れない人間など、異端審問所に務めている者くらいのものだった。否、異端審問所の中でも、氷の男であるレナトを恐れるものは多い。けれど、セシリアは。セシリアだけは、レナトを怯えの目で見ることはなかった。赤い瞳には、いつも柔らかな光が差し込んでいる。だから。レナトは、セシリアに今までもらった笑顔の分、報いたかったのだ。


「一番に、愛してる」


「……レナト」


「セシリア。君が何であっても。僕にとってセシリアは、大切な……一番大切な人だ」


「ほんとう、に?」


 セシリアは聖書を横に置き、レナトにそっと手を伸ばした。


「おいで」


 レナトが腕を広げると、セシリアは毎日そうしているというのに、妙に躊躇いがちにレナトの腰に手を回した。レナトがセシリアの背中をしっかりと抱きとめると、セシリアの細い指がレナトの服を掴んだ。


「レナト、セシリアもレナトを愛してるって言っていいの?」


「うん」


「一番に愛してるって言っていいの?」


「いいよ」


 背中を軽く撫でてやると、セシリアは堰を切ったように泣き始めた。

 孤独の仔は初めて一番の愛を得て、ただ静かに泣いていた。レナトは、それが嫌だとは思わない。愛しているから。一番に愛しているから、セシリアの全てを、嫌だと感じない。


 異形だ、人外だ、異端だ。そんなものは全て、どうでもよかった。震える体を、壊しそうになるくらいに抱きしめた。この瞬間がいつまでも終わらないようにと祈ることは罪だろうか。それが罪悪ならば、自分は罪人でもいいと思ってしまうほどに、レナトはセシリアを強く抱いた。セシリアの美しさを知らない世界になど、戻る気はなかった。


「レナト、セシリアもレナトのことを愛してる。ただの友達じゃない。一番。一番に、愛してる」


「うん」


「レナトがセシリアを一番だって言ってくれる間ずっと、セシリアもレナトを一番に想うから。だから、そばにいさせて。セシリアといっしょにいて」


「うん。セシリア……僕たちは、一緒に生きていこうね」


 セシリアは体を震わせ、泣きながらレナトの胸におさまっている。そのぬくもりの、なんと愛おしい事か。そうしてやっと、レナトは自分の言葉は真実になったのだと理解した。


 この感情を認めてしまえば、セシリアにずぶすぶに沈んでいくまでそう時間はかからなかった。最初こそ自分の感情が哀れみからくるものなのか、それとも真実に恋なのかは分からなかったが、日々を過ごし、共に食事をし、本を読み、眠ると言う時間の全てが愛おしいのだ、これは明確に恋なのだとして、レナトは頭を抱えた。


 異端に恋などと、異端審問官が抱いていい感情ではない。けれど、セシリアは毎日レナトに遠慮なく抱きついてくる。レナトも、それを良しとした。セシリアは日々人間らしい行動を身に着けていく。最近はあいさつのキス(と言っても頬を寄せるだけのもの)も覚えたようで、朝のあいさつをすると、セシリアは一生懸命背伸びをしてレナトの頬に自分の頬を押し付けるようになった。家族、恋人ならば当然の行為である。レナトもそれを受け入れて、セシリアがキスをしやすいようにかがんでやっている。レナトとセシリアは、限りなく恋人に近い絆を結び始めていた。


 セシリアの人間化は凄まじい勢いだ。料理にも興味を持ったようで、最初こそ炎に怯えていたものの、すぐに慣れたようで湯を沸かす、ソーセージやベーコンを焼く程度のことはできるようになった。


 レナトが実家を出たときに母親から「ご飯はちゃんと食べなさい」と渡された家庭料理のレシピを与えてみれば、セシリアは数日の後に豆のスープを再現してみせた。自分の食事をおろそかにしがちなレナトにとって、久々の出来合いではない食べ物の味は、妙に胸にしみた。母親の料理の味そのものではないが、セシリアがそれを再現しようと努力してくれたことが何よりも嬉しかった。


「レナト、おいしい?」


「美味しいよ、セシリア。作ってくれてありがとう」


 礼を言うと、セシリアは少し頬を赤らめてみせる。それがどうにもやはり愛しい。


「よかった、料理って森ではできないから……でも、レナトが喜んでくれて、セシリアも嬉しい」


 もう言葉は不要だ。セシリアの頭を優しく撫でると、セシリアはへへ、と言いながら破顔する。一緒に豆のスープを口に運ぶ時間が穏やかに流れていくことも嬉しい。皿が空になったら、二人でセシリアの部屋のベッドに横になって眠る。レナトの夜は、すっかりセシリアの横で眠る時間になっていた。自室のベッドより、セシリアの横で、セシリアの手を握りながら眠る方が、以前よりもずっと深く眠れているような気がする。


 レナトの私生活はもともとそんなに荒れているわけではなかったが、レナトは神経質のきらいがある。そのため気に入らないことがあると、そればかり考えて上手く眠れなかったものだが、セシリアの小さな手に指を絡めると静かに眠れるのだ。


 決して淫猥な行為をしているわけではない。ただ眠っているだけだ。だが男と女、夫婦でもない二人が一つのベッドで夜を過ごすなどというのは、社会的には教義に外れた行いであるので、これだけはアンヘルにも秘密にしている。


 今日もセシリアの体に香油を塗りこめてからベッドに向かい、並んで横になる。


「じゃあセシリア、おやすみ」


「うん。レナト、おやすみなさい」


 手を繋ぐと、柔らかくて温かい感触がする。じわりと広がっていく熱は、冷え性のレナトの指先を温めてくれた。セシリアはベッドに入って数分以内には穏やかな寝息を立て始める。その呼吸さえも愛しくて、レナトまで安心感に包まれて眠くなる。日を追うごとに、セシリアのことが愛しくて仕方なかった。


「……セシリア」


 繋いでいないほうの手でセシリアの髪を撫でると、香油のおかげでサラサラになった髪の感触が心地良い。一つあくびをし、レナトも目を閉じる。セシリアの温もりを感じながら眠る時間は、レナトにとって本当に愛おしく、大切な時間だった。

 


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