第5話 翌朝



 翌朝である。レナトが目を覚まして寝室のドアを開けると、扉が何かに引っかかった。扉が重くてうまく開かないのだ。セシリアが何かいたずらでもしたのか。そう思いながら、どうにかドアの隙間から顔を出してみると、ドアの前にあったのはセシリアの頭だった。昨日買った毛布にくるまって、廊下に転がっている。なぜこんなところで。少しずつ扉を押し開け、隙間に体をねじ込んで廊下に出ると、やはりそこにいるのはセシリアだった。自分の尻尾を抱いて、丸くなっている。


 まさか死んではいまい。呼吸を確かめると、心地よさそうな寝息があった。寝ているのだ。廊下で。セシリアを抱き起すと、セシリアはくわぁと大きなあくびをしてから、まだとろけた目でレナトを見た。


「おはよお、レナト……」


「おはよう……じゃなくて、どうして廊下で寝ているんだ」


「だって、レナトがほかのドア開けちゃいけないって言うから……セシリアのねぐら、ふわふわで気持ちいいけど……広すぎて、さみしいの」


 少し合点がいった。セシリアは森に住む妖精の一種なのだ。ねぐらといえば、木のうろや洞窟に枯れ葉を敷いた程度のものだろう。セシリアに与えたゲストルームは、セシリアには広すぎた。それで、少しでも狭い廊下に逃げてきたというのがオチと言ったところか。


「セシリア……だからと言って廊下で寝てはいけないよ、まだ秋だからいいけれど、これからどんどん寒くなる。体を冷やしてしまうよ」


「レナトがくれた布、あったかい」


「でもだめだよ」


 セシリアはあからさまに頬を膨らませて見せる。然しながら、彼女を人間らしくするためには、廊下で寝ることに慣れさせるわけにはいかない。


「次の休みに、部屋に小さな小屋を作ってあげる。それでいい?」


 日曜大工の本も借りなければいけなさそうだ。部屋の中に犬小屋を作るのもどうかとは思う。本来ならばベッドで寝ることに慣れてほしい。けれど、すぐには難しいだろう。妥協として提案したが、セシリアはむくれたままだ。


「そうじゃない……」


「狭いところが欲しいんじゃないのかな?」


「ちがうの。レナトのそばにいたいの」


「……僕と一緒に寝たいってこと?」


「うん。でも入るのだめって言ってたから、ちょっとでも近くで寝てた」


 呆れてため息しか出ない。他の部屋に入るなという言いつけを守ったことは、初日にしては上出来だろう。だからと言って廊下で寝るか。本当に、赤子を扱うように育てなければならないのだろうか。年下の兄弟がいないレナトにとって、赤子の面倒など、人間として生きてきたこの三〇年弱の人生でも埒外のことであった。


 おとといから、埒外のことが多すぎる。しかし困った、これを咎める言葉も理由も特にない。寂しいから、少しでも知っている相手の傍にいたい。その欲求は子どもにとっては当然のことなのだ。だからと言って異形を横に置いて寝るのは、レナトの神経が保たない。断ろうとも思ったが、断ってまた廊下で寝られるのは避けたいところだった。


「……ベッドで寝るのに慣れるまで、なら。僕がセシリアが眠るまで、セシリアの部屋で寝かしつけてあげる」


 折衷案である。まだ、人狼に無防備を晒す気にはなれなかった。そう言うと、セシリアはまだ眠気眼の中でふにゃりと笑った。さて、セシリアをまたも抱きかかえて、部屋に運ぶ。狼は夜行性だ、まだ朝も夜明けの頃、狼はこれから眠る体内時計だろう。ベッドにセシリアを下ろし、毛布でくるんで、セシリアに寄り添うように体を横にする。そうして背中を撫でてやると、セシリアは数分の後にまた寝息を立て始めた。


 セシリアの体内時計も、人間に合わせるようにしなければならないのだけれど。それは追々でも構わないだろう。初日からレナトとした約束をしっかり守る賢さはある。しっかり教育すれば、セシリアもいずれは人の生活というものに少しずつ慣れていくだろう。とりあえず、今日は。今日のところは。約束を守ったことを褒め、ただ眠らせてやろう。夢の世界に落ちたセシリアの銀髪を撫でてから、レナトは自分の朝支度を始めた。

 

 *

 

「レナト様、何かお悩みですか?」


 側近であるアンヘルが果実水をレナトに差し出しながら、心配そうな顔でレナトを見た。アンヘルのオリーブ色の瞳が心配そうにこちらを見ている。その瞳に見つめられると、どうも弱さがにじみ出てしまう。


 アンヘルは栗色のくせ毛にそばかす面といった風貌だが、オリーブ色の垂れ目と優しそうな雰囲気も相まって、話しやすい人物だ。その実態は毒舌家であり、仕事の鬼なのだが。けれど、藪蛇をつつかなければ非常に仕事のできる人間には間違いない。それ故に、レナトは彼を傍に置いている。


 悩みだって? 山ほどあるに決まっている。人狼の朝食はパンと切ったオレンジを用意してテーブルに置いてくるくらいはしたが、仕事に行っている間セシリアは何をして過ごしているのだろうか。家を荒らされてやしないだろうか。勝手に外に出てやしないだろうか。セシリアがまた異端としてこの審問所に連れてこられるのだけは、また手続きが煩雑だし、近所に住む人々に説明して回るのも面倒だ。それが心配で、今日はラック──拷問器具の一種である。体の関節を引き延ばすのを目的に使われる──のバーを握る手にも妙に力が入ってしまい、異端者の足を危うくもいでしまうところだった。


「悩みなんて山ほどあるに決まっているだろう、セシリアが、あの人狼がどうしているかと思うと……」


「勝手に外に出ないよう言い含めたんじゃなかったのですか?」


「言い含めたさ。あの子は約束は守る子だけれど、それ以上に街を見たことがない。外で何か騒ぎがあったら何をするかわからないぞ」


「それで異端者の脚を捥ぎかけた、と」


「仕方ないだろう!! 気が気じゃないんだ」


 アンヘルは、これが普段冷徹冷静、世に聞こえる氷の男かと言葉にしそうになったが、口にしては恐ろしいことになりそうだったので、やめた。そもそもレナトのことを氷の男と呼んでいるのはアウト・デ・フェでのレナトの様子しか見たことのない者である。レナトは普通に感情表現が豊かなほうだ。先日のトルケマダ氏への態度こそ、その証拠だろう。


「ああ、セシリアは大人しくしているだろうか」


「人狼ですからねぇ……人狼の生態について詳しく調べておきましょうか?」


「頼む。僕は今日は残業しないぞ。絶対に定時で帰る」


「わかっております。人狼の生態については私が今日調べて、明日までにレポートとして上げますので」


「本当に頼りになるなぁ、僕の側近は……」


「お褒めに預かり恐悦至極」


 アンヘルは大仰に礼をとり、レナトの執務室を出ていった。今から人狼について調べてくれるのだろう。アンヘルは有言実行の男である。だからこそ、レナトの側近が務まるのだ。


 レナトは氷の男と評されるだけあって、興味のない相手や異端者には酷く冷たい態度をとる。冷酷と言われても仕方がないだろう。そんなレナトが唯一本音を話せるのがアンヘルだった。アンヘルはレナトよりも年若いが、レナトの痒い所に手が届く優秀な人材だ。アンヘルの仕事は秘書であって、異端審問官ではないのが口惜しいところである。


 閑話休題。日も暮れなずみ、レナトは慌てて鞄をとった。帰ろう。セシリアのことが心配で仕方ない。急く足は真っ直ぐ自宅へと向かっていた。近所のおしゃべり好きの老婆との挨拶もそこそこに、レナトはいつの間にか自宅へと走っていた。


「セシリア!」


 ドアを開けると、二階からぱたぱたと足音が聞こえる。


「レナト!」


 手すりの間から、セシリアが顔を出す。銀色の髪がさらりと揺れて、セシリアは手すりから身軽に床へと飛び降りた。


「セシリア、危ないじゃないか」


「セシリアは人狼。このくらいの高さ、なんともない」


 そう言いながら、セシリアはレナトの腰に飛びついた。勢いあまって後ろに転ぶところだったが、レナトは何とか姿勢を保ってセシリアの頭を撫でた。


「外に出てはいないだろうね?」


「やくそく、守る。人狼は嘘つかない」


「いい子だ」


 そう言えば、家の中を荒らすなと言い含めてはいなかった。ほんの少しの嫌な予感を胸にセシリアを連れてリビングに入ると、それは想像していたよりは綺麗なものだった。パンの食べかすが床に散らばっているのと、オレンジの果汁がついていたはずの皿まで綺麗に舐められているところにだけ目を瞑れば。


「……セシリア、皿は舐めてはいけないよ」


「食べちゃいけないって言った」


「……舐めるのもダメ」


「だめなこといっぱいだね」


 セシリアは不服そうにレナトの腰から離れて椅子に座る。椅子に座ることを覚えたのはいいことだ。


 さて、初日はあらゆることに目を瞑ったが、何処から教育しようか。帰りがけに育児の本を買ってくるべきだった。後悔先に立たずだ。とりあえず、今日は。食事の作法から、だろうか。レナトはキッチンに向かい、一口の大きさに切ったベーコンと卵を焼いた。昨日も今朝もオレンジを出したため、今夜は林檎を剥いて皿に乗せた。


 スペイン人は一日五食が基本だが、そう言えば朝食の支度しかしないで家を出てきてしまった。今は午後五時、間食の時間である。昼を与えなかった分、少し多めに食べさせても問題ないだろう。かごにパンを詰めて、焼いたベーコンと卵を皿に入れてテーブルに出すと、セシリアは鼻をすんすんとさせて匂いをかいでいる。


「いいにおい」


「ならよかった」


 フォークもテーブルに置いて座ると、セシリアも対面の椅子に座ってフォークを握っている。棒切れを持つような持ち方だ。


「セシリア、フォークはこう持つんだよ」


 握りなおさせると、セシリアはまた新鮮そうにフォークを握る自分の手を見た。


「こうやって食べるんだ」


 ナイフを持たせるにはまだ早いと思ったので事前に切っておいたベーコンを食べてみせると、セシリアも真似をしてベーコンを食べ始めた。その手つきはまだおぼつかないが、二日目にしては上々だろう。今は半熟の目玉焼きに難儀している。


「食べづらいかい?」


「こぼれちゃう……」


 口の周りに黄身がべっとりとついている。それを布で拭きとってやると、セシリアは「ありがと」と言ってまた目玉焼きに挑戦し始めた。その挑戦は今日のところ、成功しそうにない。食べづらいものを供した自分の罪だと、レナトは今日は咎めるのをやめたのだった。

 

 *

 

「レナト様、人狼の生態について纏めてきました」


「ああ、ありがとうアンヘル」


 手渡された羊皮紙には、いっぱいに文字が書き連ねられている。何冊の文献を確認したのだろうか、アンヘルの仕事の速さには頭が下がる。


 要約すると、こうだ。人狼は豊かな森にしか生まれない、珍しい妖精である。豊穣の守り人と呼ばれることもあり、人狼が生まれる土地は豊穣が約束されているという。一般的な妖精が持つ寿命は何千年と言われているが、人狼は二〇〇年ほどの寿命である。自然より生まれいでる存在であるため、親や兄弟という概念を持っていない。約束、契約というものを大切にする誇り高き種族で、それを守る人間に対しては友好的に接することもある。


 一般的な妖精のように人間に悪戯を仕掛けることもないため、比較的安全な種族と言える。また、人間の血肉を喰らうと森の護り手としての能力を失い、只の狼になってしまうという枷を持っているため、積極的に人間を襲うことはない。


 確かに、セシリアも「約束を守った」「嘘はつかない」という言葉をよく使う。それは人狼が契約を大切にする種族故なのだろう。考えてみれば、レナトとセシリアの関係は契約関係に近いかもしれない。レナトが衣食住を提供する代わりに、セシリアはレナトの言うことを従順に守る。そう思えば、レナトは正常な思考に戻ることができた。


 そう、この関係は契約によるものなのだ。レナトが衣食住を提供する限り、セシリアがレナトを裏切ったり、寝首をかくこともない。多少の安心を得て、やっと果実水の味に意識を向けられるようになった。めったに人間を襲うこともない、というところも、安心できる点だった。


 昨夜は上手く眠れていない。セシリアが約束を破ってレナトの部屋に忍び込み、体のどこかにかじりつくのではないかという疑念があったからだ。しかし、それはないと否定できることは、レナトの今後の生活にとって少しの陽光であった。


「ありがとう、アンヘル」


「いえ、お役に立てたならば幸いです」


「参考になった。今日からは少し安心して眠れそうだ」


 そう言いながら羊皮紙を巻き直し、鞄に入れる。今後もセシリアと暮らす以上、このまとめは役に立つだろう。それに、セシリアのことばかりに意識を割かなくてもよさそうだ。今日からはようやっと通常業務に戻れる。レナトは昨日帰宅した後に審問所に届いたらしい密告書に目を通し、アンヘルに聞く。


「これはもう捕らえてあるのかい?」


「ええ、もう地下牢に入れてあります。拷問道具の準備も完了している頃かと」


「助かる。では、行こうか」


 レナトは席を立ち、地下牢へと向かう。今日はラックのバーを握る手に妙に力がこもらずに済むだろう。上手い塩梅で拷問をするのも異端審問官の仕事、手腕である。若くして異端審問所代表代理の任に就いているレナトは、通常ならば拷問が非常に上手いのだ。……昨日ばかりは気が急いて、異端者の足を奪うところだったが。そんなことは、もうこの際横に置いておく。実際、まだ足を捥いではいないのだから。今日はうまくやるさ。さて、今日はどんな拷問を行おうか。ラックもいいが、鉄の爪で肉をそいでやるのもいい。異端者の悲鳴を思い浮かべながら、レナトは小さく口笛を吹いた。

 

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