七章:償い




 檻の外が騒がしい。石壁も大きく揺れている。相当に大きな問題が発生しているのだろう。僕には関係のないことだが。

 看守たちの表情が事の性急さを物語っている。看守棒に隠れた目は、今にも逃げ出しそうなほどに怯えきっている。


 怒号と爆発音が近くなると、魔族と思いきや想定外の来訪者がやってきた。



「死んだ方がマシって面やな」



 和真先輩は以前再開した時と同じ口ぶりで僕を訪ねた。思えばあなたから全てが始まったというのに、悪びれる素振りも一切なく。


 彼の手には短剣が握られている。なるほど、口封じか。心配せずとも、あなたたちの事を話す余裕すら奪われていますよ。


「すまんかったな。来世では幸せになり」


 先輩の手が胸ぐらに掛かり、短剣が首筋を撫でると同時に、僕の手に嵌められた手錠の鎖が短剣を絡めとる。

まさか抵抗されるとは思っていなかっただろう。

 僕も、抵抗しようなんて気はなかった。でも一つだけ、やりたいことができたんだ。


 柔術の要領で背後から腕を極め、そのまま折る。しかしそこは先輩も軍人。うめき声の一つもあげず、激痛が走るはずの腕を捨て置き、重心を取る。足で首を絞め落とすつもりだろう。

 三角絞めの形で僕に覆い被さる先輩の鳩尾に、先ほど絡め取った短剣は彼の自重で深々と突き刺さる。



 こうしている場合じゃない。はやく彼女に会いに行かないと。


 部屋の外で監視をさせられていたであろう看守の喉を出会い頭に掻き切り、汎用鍵で手錠と足枷を外す。遮断されていた魔力が、一気に体を駆け巡り、若干の魔力酔いだ。


 吐き気を催しながらも、最短で外を目指す。衣服だけは看守から頂いた。できれば体にこびりついた汚物と血も洗い流したいが、贅沢を言える状況でも立場でも無い。

 彼女は客室に泊まると言っていた。どこが客室かは知らないが、この状況だ。恐らく建物の奥に、非戦闘員たちと固まっているだろう。


 地上へ出ると、思った良い状況は逼迫していた。もはや、建物の原型を留めていない。この状況では、彼女の身も危ないだろうか。


 風切り音と共に二手から鋭い爪が襲いくる。疾い。反射的に風の障壁を張る。魔族から学んだ技術だ。爪は僕の肌を掠めてあらぬ方向へ弾かれる。

 返す足蹴りで魔物の首をへし折る。カウンターの要領だ。もう一匹が距離を取る前に足元を凍らせておいた。足を取られて体勢を崩したところに、魔力の刃を切り込む。魔物との戦いで大切なのは、首を落とすことだ。


 疲弊しきった体とは裏腹に、感覚は冴渡る。染み付いた戦場での振る舞いは、拷問程度で浄化されないらしい。



 魔物が来た方向と反対へ駆ける。兵士が動いているということは、まだ戦いは終わっていないと言うことだ。もはや僕に取って味方など居ないのだが。——一人を除いて。


 察知魔法を尖らせる。……人間らしき気配はある。しかしこれは恐らく軍人。その先に用がある。



「看守……? 一人でここまで来たのか!? いや、今はいい。 ひとまず本体と合流しろ!」

「すまない、後で加勢する」


 心にもない言葉を掛ける。僕にまだ心が残っているかは疑問だが。どうやら本隊は山の中に構えているらしい。途中で怪我人の搬送をする舞台と合流し、案内してもらう。


 一般人もいるようだ。ざわつく胸中を諫めながら、深く被った帽子の下から目を配る。



「——シスター。僕です」


「佐久間……さん?」



 良かった、生きていた。僕のような成り損ないと会うためにこんなところへ来て死ぬなんて、馬鹿なことがあってはいけない。そんな器の人ではないのだ。


「ここはもう駄目です。恐らく上級の魔族が来ている。あなたはここで死んで良い人ではない。あなただけでも逃がします」


「それで、私が”はい”とでも言うと思いますか?」


……そうだ。そういう人なのだ。だからこそ死んではいけない、堂々巡りだ。


「そうですよね。言い方を変えます。——僕を救ってください」


 本当はこれが、もしかすると本心かもしれなかった。



 京浜東北線は運行本数を絞りながらも運転していた。同じ関東でも北部は長閑なものだ。鶴見駅ではそれなりの人数が降りた。

 僕の口座は使えなかったので、シスターから、浅間さんからお金を借りて身なりを整えた。



 見慣れた川沿いのマンションの六〇三号室を恐る恐る尋ねる。もちろん、金銭的にも精神的にも浅間さんの力を借りてこそだ。


 2LDKのうち一間が和室になっていて、そこがもともと僕の部屋だった。今は小さなちゃぶ台と、父さんの遺影が飾られた仏壇が置いてあるだけだった。



「精神科でね、入院してたの。それが、病院ごと魔族に襲われてね」


 まさかと思った。あの威厳ばかりの強い父が。

 実家のことなど考える余裕もなかった。母さんが一人になっているなんてことも知らずに。


「お父さんもね、優人の事ばかり考えてたのよ。模範にならなきゃいけない、ってずっと意地を張ってたけど。ほら、うち一人っ子でしょ?」


 僕と浅間さんは、しばらく母さんの話を聞いた。堰き止められた水が少しずつ漏れ出すかのように、それは一時間も続いた。

 ちゃぶ台の前にちょこんと座る母さんに、僕は監獄へ面会に来た母の姿を浮かべた。こんな姿にしてしまったのは、僕だ。


「母さん。僕は、罪を償おうと思います」


 そう切り出すと、母さんは宙を見つめたままぴたりと動かなくなった。そんな母さんを慰めるかのように、浅間さんが続く。



「佐久間さん——優人さんは、決して悪人ではありません。彼の償いたい気持ちも本物です。しばらく、預からせてください」


 母さんの目が移ろう。堰きが切れたかのように、腹の底から不安が溢れ出した。


「優人は、罪を、犯したんですね。嘘だと、言って欲しかった。人を殺したなんて、お父さんを殺した、魔族の味方をしていたなんて——」


 こんな時、なんと言ったら正解なのだろうか。僕がしたことは許されない。ただ、そうしなければ生きてこれなかったのだ、と言い訳したくなる。



 母さんの思いを受け止め切れず、そのまま浅間さんと実家を出た。僕は何を期待していたんだろうか。母さんなら、許してくれるとでも思っていたのだろうか。

 そういえば、父さんの墓を聞きそびれた。学生時代は碌に関心もなかったから、親族の墓がどこにあるかも知らない。


「父さんが死んだというのに、涙の一つも出ませんでした」


「……それでも、私はあなたを赦します。今は、少し心が凍りついているだけですよ。きっと」


 夕暮れの鶴見川に沿って、お互い無言で歩いた。ふと小学生時代に自転車で駆け回っていたころを思い出す。

あのころなりたかった教師に、僕はこれからも目指せるのだろうか。この罪を償った先に、何があるというのか。


 世間は僕の罪を決して許しはしないだろう。こんな男に、教師など務めさせる筈がない。それでも、いつかは教壇に立ち、あらゆる孤独を照らしたい。母さんのように。



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