第4話
リンは夜中に家を向けだし、村から離れた湖に向かった。
最近、彼女はよくそこへ行く。
そこで、水面に映る月を見ていると、いくらか気分が和らぐからだ。
この土地で見慣れたものはこの月くらいしかないのだから。
湖のほとりに座り込み、ほとんど泣きそうになりながら満月を見つめていると、物音がした。
誰だろうか、とリンは怯えた。
あの地主の息子ではなかろうか?彼は妻子がある身なのに、時折リンのことをいやらしい目つきで見つめてくる。あんな汚らわしい生き物をこれまでの人生で見たことがない、とリンは彼のことを恐れ、軽蔑していた。
もしも、彼が今目の前に現れて、私を犯したとしたら、私はきっとあの男を殺した後にこの湖に身投げして死んでやる。
リンはそう思い、自分を奮い立たせ、近くにあった棒切れを持って物音に対して掲げて見せた。
音は大きくなっていく。目の前の林が揺れ、一人の大男が現れたヨハンの孫である。
彼はリンの姿を見ると驚いたように、ハッと目を見張らいた。
それは日中に見た呆けた目ではなく、しっかりと知性と穏やかさを感じさせる目だった。
「どうしたの?あなた馬小屋から出ないはずじゃないの?」
ヨハンの孫は困ったように頭を掻いてから、近くの棒切れを拾って地面に文字を書いた。
『たまにここにくる。むらのひとにはいわないで』
これにリンは驚いた。
「あなた話せるの?みんなあなたは物を考えたりできないって思っているは!それに文字は誰に教わったの?ああ、聞きたいことがいっぱいあるわ!なんで村の人に言っちゃいけないの?」
ヨハンの孫は丁寧に綺麗な文字で地面にまた文字を書き連ねるのだった。
『もじは、まえのしんぷさんからおしえてもらった。しんぷさんやさしいひとだった。かれがいなくなってかなしい。ぼくはむかしから、だれかにつたえるのがにがてなだけで、しっかりかんがえるし、かんじるしきずつくんだよ』
そしてヨハンの孫は自嘲気味に笑った。
「なら、どうしてそれをみんなに見せないの?みんながあなたの知性を知ればあなたの不当な扱いも変わるはず!」
ヨハンの孫は微笑んでから、また文字を書いた。
『ちがうんだ、みんなはぼくにちせいがないとおもいこんでいるからこそ、ぼくをころさないでいてくれるんだよ。とつぜん、かいいぬがはなしだしたらきみならどうおもう?きみがわるいだろ?』
「でも、それって・・・悲しすぎるわ」
そう言ってリンは泣いた。彼女はまだ若いから知らないのだ。
この世には不当なことの方が多い。正義は敗北することの方が多いし、道徳がまかり通ることは少ない。
皆が明らかに間違っていることでも、権力者がイエスと言えば、全ては進んでいく。
子供は犯されるし、年寄りは殴られるし、貧乏人は更にもぎ取られる。それがこの世の真理なのだ。人間は愚かで汚い、だから神は人間に寿命を与えたのだと、リンはまだ気が付いていない。
だからこそ、彼女は天国に行く価値がある。
※
それから、二人の温かな交流がしばらく続いた。
夜中になると二人は湖のほとりで落ち合うのだ。
彼女はヨハンの孫に自分の知っている詩を朗読したり、また都市での生活について話した。
ヨハンの孫はと言うと、彼がこの数年で自分なりに作っていた詩や、この村の地質について書いてみせた。
彼の語り口はいつも論理的で、高い教養があることがすぐに分かった。
だから、リンはある日、ヨハンの孫に聞いてみた。
「ねえ、どうしてあなたはこの村から逃げないの?あなたなら都市に行けばきっと今よりも住み心地の良い暮らしが出来る筈よ」
そう聞かれて、ヨハンの孫は困ったように笑うのだった。
そしてためらいがちに地面にこう書いた。
「もう、僕は人間には疲れた。わざわざ新しい土地に行く気にはなれない」
彼は人間に絶望していたのだ。
人間は生きている価値のないほど醜悪であり、それは村だろうが、都市だろうが大差ないのだ。きっと都市に行けば多少は良い暮らしが出来るかもしれない、きっと都市の人間たちは村の人々ほど差別をしないだろう。しかし、きっと心の奥底に感じている哀れみや軽蔑は同じようなものだろう。
それなら、どこに行こうが本質的に変わりはないとヨハンの孫は思っているのだ。
彼の深い絶望を知り、リンは涙を流して彼を抱きしめた。
ほんの少しでも彼の心が癒されますようにと祈りながら。
その時、林の向こうで草を踏みしめる音がした。
音のする方を見ると、そこには地主の息子立っていた。
彼はにちゃりと粘っこい笑みを浮かべたかと思うと、そろりそろりとあとずさっていった。
まずい、彼に見られてしまった。
きっと、これをネタに私を揺するだろう・・・
不安が胸に込み上げる。
ヨハンの孫は地面に急いで文字を書いて見せた。
「あの男は狂暴で器量の小さな男だ。嫉妬深く、何をするか分からない。しばらくこの村から離れた方がいい」
「でも、あなたはどうするの?」
「僕は別にどうなってもいいさ、君が心配なんだ。だって、君は僕に初めて出来た友人なのだから」
リンは涙を流しながら再度ヨハンの孫を抱きしめた。
もしかすると、ヨハンの孫はこの村に来て初めて出会った人間かも知れない。
リンはそう思った。
そして、彼女は自宅に戻りこっそりと荷造りをし始めた。もうこの村にも未練はなかった。父に対する罪悪感はあれど、村人に対する嫌悪感がそれを勝っていた。
一秒でも早くこの村から出たい。
そう思って、部屋で荷造りをしていた時、外に何本もの松明が揺れ動くさまが見て取れた。夜中なのにあれは一体なんだろう?
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