第136話 渡す? 渡さない?

 トマソ親方に頼みこんで、なんとかもらえた機会。

 配達したパンを受けとってもらう——。

 これができれば、今後も仕事がもらえるかもしれない。


 だから、あたしはとても悩んだ。


 目の前にいる庭師と思しきおじさん。

 あたしが女にも関わらず、パンを受けとると言ってくれた。

 ここで渡せば、任務完了。


 でも……。


 パンを注文したのは、おそらく厨房のひと。

 となると、おじさんに渡してはいけない。

 大変であっても、厨房を探して届ける必要がある。

 そのあと、最大の難関。

 あたしの届けたパンを受けとってくれるか……。


 ふとパン焼き工房で浴びた視線を思いだした。

 

 どうして女がいるんだ——。

 そんな目であたしを見ていた。

 

 嫌な思いをするぞ……ここにいる以上にな——。


 親方が言っていたことを思いだした。

 この言葉は誇張でもなんでもない。

 現実——。


 女には決してさせない仕事を任せてくれた親方。

 女のあたしが配達したパンを受けると言うおじさん。

 このふたりが特別なのだ。

 それを忘れちゃいけない。


 同時に……。


 かごにあるパンを見つめた。

 焼きたてで、とても良い匂いがする。


 あたしはパン焼き職人でも、弟子でも、配達人でもない。

 親方に機会を与えてもらった単なる手伝い人。

 を押し通したら、親方たちの仕事をダメにしてしまうかもしれない。

 丹精たんせい込めて焼いたパンが食べられず捨てられたりしたら……。


 ダメだ。

 ぞんなの絶対にダメ。


 あたしは籠をぐっと握った。


「……きみの夢はなんだい?」

 唐突とうとつにおじさんが聞いてきた。

「あたしの、夢?」

「そうだ。女の子が配達の仕事をするのには理由があるだろうからね」

 ちらりとおじさんが籠に視線を送った。

 パン焼き工房の事情をある程度知っているようだ。


「特にないかな。でも、今日の夢はあるよ」

 少し考えてからあたしは率直に答えた。

「なんだい?」

 優しい目をしておじさんが聞いてくる。

「女でもパンをちゃんと配達できるって親方に証明したい」

 胸を張って答えた。

「そうか」

「だから、急いでパンを届けないといけないんだ」

「……ちょっとここまで待っていなさい」

 おじさんはあたしの肩を軽く叩き、軽やかな足取りで立ち去った。


 待っていなさい……。

 ここで?


 あたしは悩んだ。


 言葉通り受けとっていいものだろうか?

 待っている間にもパンは冷めていく。

 もしかすると、厨房ではパンが届くのを待っているかもしれない。

  

 急がないと!


 あたしは一歩踏みだした。


 でも、おじさんに待つように言われた。

 理由はわからないけど、指示された以上は待たないと……。

 戻ってきたら、すぐに厨房の場所を聞こう。


 考えがまとまったところで、おじさんが戻ってきた。


「待たせて悪かったね」

 おじさんはにっこりと微笑み、あたしを手招きした。

 それに応じ、あたしはおじさんに近づく。

「はい、受けとりの書類だ」

 おじさんがあたしに一枚の紙を差しだした。

「受けとり?」

「そうだ。私がきみからパンを受けとり、代わりにこの紙を預ける」

「なに、これ?」

 あたしは紙を見つめた。

「……パンを受けとったという証拠だ」

「?」


 あたしは首を傾げた。

 親方から紙を受けとるように言われていない。

 パンを届けるだけの仕事のはず。

 どうしよう。


「親方からなにか預かるように言われてない……」

「……ああ、そうか。説明が足りなかったね」

 にっこりと微笑み、おじさんはしゃがみこんだ。

 あたしとおじさんの目線がまっすぐになった。


「この書類を親方に渡してほしい。報酬ほうしゅうは……」

 言いながら、おじさんはふところから布包みを出した。

 それと紙をあたしに差しだす。

「なに、これ?」

 あたしは布包みを見た。

「お菓子だよ」

「えっ⁉︎」

 自然と顔がほころんだ。


 お菓子——。

 実際に目にしたことはない。

 だけど、甘くて美味しいものだと聞いた覚えがある。

 孤児には一生縁のない食べ物だ。

 高価だから……。


「親方に届けてもらうお駄賃だちん……少ないかな?」

「ううん、全然。引き受けるよ」

 あたしはすぐさま答えた。

「ありがとう。じゃあ、頼むよ」

「うん、任せて。じゃあ、パンをお願いね」

 あたしは籠を渡し、そのあと紙と布包みを受けとった。

「ああ、パンはしっかりと受けとったよ」

「では、失礼します」

 あたしは深々と頭を下げた。

「気をつけて帰りなさい。そこをまっぐに行けば外に出られるよ」

 おじさんは立ちあがり、後方を指した。

「ありがとうございます」

 あたしは布包みを掲げ、お礼を言った。

 おじさんが手を振り、あたしを見送っている。

「じゃあね、おじさん」

 一刻も早く親方に報告と頼まれた紙を渡そうと、足早に外に向かった。


「パンを届けたきたよ」

 パン焼き工房に戻るやいなや、あたしは嬉しさのあまり叫んだ。

 すると、職人たちがさまざまな表情を浮かべた。

 驚き、怒りなど、反応はいろいろ。


「そうか、よくやったな」

 親方は喜ぶでもなく、ねぎらうでもなく、複雑な表情をしていた。

「うん」

「すぐに受けとってもらえたか? 問題はなかったか?」

 親方が質問攻めしてくる。

 きっと心配だったのだろう。

 女に配達を頼むなんて……ってあとで叱られるかもしれないから。

「全然。あっ、でも……」

「な、なんだ? なにかあったのか?」

 親方の表情がこわばった。

「パンを渡したおじさんから紙を預かったんだ」

 あたしは紙を差しだした。

 なにやら文字が書かれているけど、あたしには理解不能。


「……」

 紙に目を通しているさなか、親方の目の色が明らかに変わった。

 うなり声を発している。


 なにが書いてあるんだろう。

 二度と女にパンを届けさせるなっていう苦情?

 まさか、親方との取引きを辞めたいとか書いてないよね?

 

 嫌な予感がした。

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