第135話 初めての配達

 パン焼き工房にいる誰もがあたしを見ている。

 それも同じような目線で……。


 どうして女がいるんだ?

 

 目が語っている。

 それに気づいたのか、視線を遮るようにトマソ親方があたしの真正面に立った。

「……気持ちは変わらないか?」

 親方が心配そうな顔をして聞いてくる。

「うん、やらせてください」

 ぺこりと頭を下げた。

「嫌な思いをするぞ……ここにいる以上にな」

「わかってる。でも、やってみたいんだ」

 親方の心配を少しでもやわらげようと、あたしは明るい声で伝えた。


「……じゃあ、これを届けてもらおうか」

 親方が籐籠とうかごを差しだした。

 そこに焼きたてのパンが入っている。

「良い匂い」

 思わず言葉が漏れた。

 

 これを食べるひとは、わかるのだろうか?


 匂いをいでいるいるさなか、ふと思った。


 パンの形を見て、匂いを嗅いで、咀嚼そしゃくして味わう。

 胃袋を満たすまでの一連の動き。

 その行動のさなか、果たして気づくのだろか?

 作ったり、運んだりした者の性別なんて……。

 

「……どうした?」

 親方が声をかけてきた。

「な、なんでもありません。それで、どこにお届けすればいい?」

 あたしは我に返って質問した。

「デルカ小領主さまの邸宅だ」

「デルカ、小領主さま?」

 あたしは首を傾げた。


 教会で生活しているせいで、荘園についてうとい。

 でも、荘園にはそこを治める小領主さまがいることくらいは知っている。

 ……名前は知らなかったけど。


「場所は?」

「市場を通り抜けた先……一番大きな邸宅だから行けばわかる」

 親方は大丈夫だと言わんばかりに、あたしの肩を軽く叩いた。

「わかった。それで、籠を渡す以外にやることはある?」

 あたしは念のため、配達以外の仕事はないかと聞いてみた。

「渡すだけでいい。金はもうもらってあるから」

「了解。じゃあ、行ってきます」

 元気よく挨拶をし、あたしはパン焼き工房を出た。


 親方の説明に従って市場を抜けて歩いていく。

 すると、探すまでもなく配達先の邸宅を発見した。

 小領主さまの邸宅は権力者の自宅らしく、造りも大きさも全く違う。

 おまけに警備と思しき兵士もいる。


 あたしは恐る恐る邸宅に近づいた。

 すると、兵士があたしをじろりと睨んだ。

「パ、パン焼き工房です」

 あたしは籠を兵士に見せた。

「パンの配達だな。よし、入れ」

 兵士に偉そうに指示され、あたしは邸宅の門をくぐった。


 あっ!


 敷地内に入ってすぐ、重要なことを聞き忘れたと気づいた。

 誰に届けるのか?

 どこに届けるのか?

 そのどちらもわからない。

 

 誰に渡せばいいんだろう。

 どこへ行けばいいんだろう。


 あたしは敷地内を歩きまわった。


 厨房があれば、そこに預ける。

 誰かに会えば、どこへ行けばいいか聞く。


 作戦を立てながら歩いた。

 辺りを見渡しても、厨房と思しき場所がない。

 おまけに、人気ひとけもない。

 

 ふらふらと歩いているうちに、寂しげな風景になっていった。

 建物が遠ざかり、草木や花が生い茂る庭に紛れこんでいく。


 どうしよう……。

 迷子になったかもしれない。

 

 前後左右、どこを見ても草木ばかり。

 邸宅のなかにこんな広い庭があるなんておかしいよ。

 怒りが庭に向かっていく。

 焦る気持ちを落ち着けようと、雑草を強く踏んでみた。

 ざくざくと雑草の悲鳴が聞こえてくる。

 その音に混じって声がした。


「そんなに踏みつけたら、草たちがかわいそうだよ」

 穏やかな声が聞こえてきた。


 誰⁉︎


 あたしは声の主を探し、辺りを見渡した。

 誰もいない。

 だけど、気配は感じる。


 神経を集中させ、気配を感じとろうとした矢先——。

 音がした。

 草をかき分けるような、かさかさっという音が……。


 急いで音がする方に目を向ける。

 すると、そこに細身の中年男性がいた。

 ほんわかとした雰囲気をかもしだしている。

 年齢は四十前後。

 農民が作業時に身につけるような格好をし、手にはくわがある。


 邸宅の庭師だろうか?


 あたしはまじまじと見つめた。


「こんなところで、どうしたんだい?」

 穏やかな声で中年男性が声をかけてきた。

「……ま、迷子になってしまって」

「そうか」

 中年男性の口元に笑みが浮かんだ。


「厨房はどこですか?」

 あたしは質問しながら、籠を見せた。

「……ああ、パンを届けに来てくれたんだね」

「はい。焼きたてなので、少しでも早く届けたいんです」

 満面の笑みを浮かべ、ここに来た目的を告げた。

「そうだね。パンは焼きたてが一番だ」

 話しながら、中年男性がこちらに向かって歩いてくる。

 

「どこにお届けすればいいですか?」

「そうだな……私が受けとろう」

 中年男性が鍬をその場に置き、手を伸ばした。

「おじさんが?」

 あたしは躊躇ためらった。


 庭師のおじさんにパンを渡してもいいのだろうか?


 おじさんをまじまじと見つめた。

 人の良さそうな顔をし、穏やかな雰囲気を発している。

 悪人には見えない。


 このおじさんがパンを受けとろうとしている。

 女のあたしの手から……。

 ここでパンを渡せば、配達は成功。

 次からも配達の仕事がもらえる。


 とはいえ……。


 パンを注文したのは、おそらく厨房のひと。

 庭師のおじさんじゃない。


 でも……。


 厨房のひとに届けに行ったら、男じゃないと受けとりを拒否されるかもしれない。

 だったら、おじさんに渡したほうが賢明だ。


 例えそうだとしても……。


 注文した相手に渡すのが配達人の仕事。


 あたしは悩んだ。

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