デルカ前小領主病死事件編1
第103話 アリアの日常
朝、目覚めた瞬間、私は本当の自分を殺す——。
手始めに顔を洗い、好みじゃない衣服に身を包む。
それから素顔を隠すための化粧をほどこす。
最後に無表情を作り、背筋を伸ばして迎えを待つ。
「アリアお嬢様」
毎日同じ時間に護衛のエトーレがやってくる。
私は軽くうなずき、歩きだす。
「今日はどちらへ行かれますか?」
丁寧な口調で聞いてくるエトーレ。
はたから見れば、小領主の娘に仕える従順な護衛だと思われるかもしれない。
でも、全然違う。
私を守っているんじゃない。
パッツィ小領主の娘という人形を監視しているだけ。
私がどこへ行き、誰と会い、どんな話をしているのか……。
それをつぶさに見届け、父であるパッツィ小領主に報告している。
監視は、私が小領主の娘となってから始まった。
それまで兄のように共に過ごしてきたエトーレ。
でも、ある日を境に父の手先となって私を監視しはじめた。
全ては私を小領主の娘に仕立てるために——。
「炊きだしの手伝いに行きます」
感情を顔に出さず、口調は淡々と。
動く姿は優雅に、視線は一点を見据えて。
そう教えられた。
だから、ずっと守っている。
本音を隠して令嬢という人形を演じなければならない。
苦しい。
もう嫌だ。
日々、思う。
でも、私にはどうすることもできない。
私が父の娘に生まれ、父が小領主の座についてしまったから。
変えようのない運命。
それに逆らえない。
だから、せめて本来の自分を解放する時間を持とうと思った。
そのときに出会ったのが
誰もいない静かな場所で、感情を解放して聖歌を歌う。
至福のとき。
この瞬間があるから、私はなんとか生きていられる。
歌いたい。
それと、会いたい。
レオに——。
レオはこれまで出会ってきた誰とも違う。
話せないからでも、ネウマ譜を書けるからでもない。
レオから一切の
だから、レオの前では私も自然と仮面を外してしまう。
私が私でいられる大切な時間だ。
「今日は私ひとりで行きます」
歩きながら背後からついてくるエトーレに声をかけた。
「いえ、護衛するようパッツィさまから言われましたので……」
「用事は炊きだしだけ……」
「お供します」
いつになく強い口調でエトーレが言った。
おかしい。
いつもは引きさがるのに。
どうして?
目線でエトーレに訴えた。
「昨日、不審者が屋敷周辺にいたので」
「……わかりました」
本当かどうかわからないけど、とりあえず従っておこう。
いつも通り、炊きだしをこっそり抜けだして廃教会に行けばいい。
「行きましょう」
声をかけ、私は屋敷を出た。
屋敷から炊きだしをしている場所までは、それほど遠くない。
荘園内で一番にぎわっている市場の端で行っている。
歩いて炊きだし場所に向かった。
すでに炊きだしは行われていて、庶民たちが列をなしている。
外敵からの侵攻を受け、早五年。
そのあと、大きな攻撃はない。
だけど、庶民たちの暮らしは貧しいまま。
他の荘園と比べて復興度合いや貧困度はましとはいえ、十分回復していない。
炊きだしなどしても意味がない——。
五年前、庶民たちのために炊きだしを申しでたところ、小領主たちにそう言われた。
意味がないんじゃない。
庶民たちのために支援するお金を惜しんでいるだけ。
そのとき、父であるパッツィ小領主だけが私の提案を受けいれてくれた。
だから、私はできるだけ父が望む小領主の娘を演じるようにしている。
なにかを得るためには、なにかを捨てなければならない。
「エトーレ」
「はい、お嬢さま」
「ここで待機していて」
私は指示を与え、炊きだし場所へ向かった。
エトーレはいるだけで周囲を威圧する雰囲気がある。
がっちりとした体型、鋭い眼光、発する空気。
護衛としてはいいけど、炊きだしの場にふさわしくない。
だから、いつも隠れた場所で待機してもらっている。
私が炊きだしをやっている間、エトーレはここから動かない。
それを利用し、時々、こっそり抜けだして廃教会に行っている。
今日もチャンスがあれば抜けだしたい。
歩いているさなか、炊きだしを手伝ってくれる者たちに視線が止まった。
どれだけたくさんのなかにいても、すぐに目につく。
長身ということもある。
でも、それだけじゃない。
見事な金髪の持ち主だから?
違う。
綺麗な青い目だから?
それも違う。
彼はひとを惹きつける雰囲気を持っている。
私と正反対で、いつも笑顔を浮かべて誰とでも親しげに語らう。
太陽のような存在。
視線をそのままに私はため息をついた。
できるなら引き返したい。
でも、廃教会に行くためには炊きだしを手伝う必要がある。
「アリア!」
私の姿を認め、満面の笑顔を向けて手を振ってくる。
それを無視し、炊きだし場所へ向かった。
「今日もまた来たのですね」
私は嫌味を込めて言った。
「もちろん。庶民を救うのが俺の仕事だからな」
笑顔で答える。
毎度、同じ返答をしてくる。
そう言われたら追い返せない。
五年前からなにかと手伝ってくれる。
だから、口先ではなく本心なのは間違いない。
でも……。
ふっと息を吐き、本音をお腹の底に沈めた。
「では、お手伝いをお願いします。ジェロ」
私は事務的に言った。
それを受け、ジェロが満面の笑みを浮かべた。
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