第90話 最後の一手

「おまえたちが顔見知りなのはわかりきっている」

「そうだ。昨日のうちに口裏を合わせたんだろう?」

「こんなの茶番だ。証明じゃない」

 商売人たちの怒りに火がつく。

「違う、そうじゃないって」

 なんとか否定しようとヴィヴィが割ってはいる。

 だけど、誰ひとり怒りをおさめない。


「みなさん、私はなにも知りません。突然、歌う事態になったのはご覧になったでしょう」

 リコが両手を大きく広げ、商売人たちに訴えかける。

 それでも、商売人たちは納得しない。

 僕の知り合いだから、なにを言っても無駄なようだ。

「このネウマ譜、ふたつのパートが一緒に書かれている不思議なものだけど、偽物というわけでは……」

「そうか、わかったぞ。教会も商団とグルになって偽ネウマ譜を俺らに卸したんだな」

 商売人たちの怒りの矛先が変わった。

 教会に向かっている。


『もうひとつ証明します』

 これ以上、商売人たちに話をさせるのは危険だ。

 あらぬ方向に着地してしまう。

「レオが証明を続けるって」

 ヴィヴィの言葉に商売人たちの目がレオに向いた。


『偽ネウマ譜があれば出してください』

「他に偽ネウマ譜があれば出してほしいって」

 ヴィヴィが言うと、一番後ろにした商売人が勢いよく飛びだしてきた。

「これ、今朝発見された新しい偽ネウマ譜だ」

 商売人が偽ネウマ譜を僕に突きつける。

 それを受けとって広げた。


 これまでと違う聖歌がベースとなっている偽ネウマ譜だ。

 今日、はじめて目にした。

 

「これ、見たことないなぁ」

「ああ。でも、あきらかに偽物だ」

 商売人が問題の部分を指す。

 

 ハモリ部分——。

 これもまた、暗号ネウマ譜のパターンが採用されている。

 つまり、普通に歌えるものだ。


 これは好都合。

 商売人たちが見たことがある偽ネウマ譜だと、またケチをつけるかもしれない。

 でも、この偽物は今朝発見されたもの。

 渡りに船とはこのことだ。


『今度はこれを歌います』

「このネウマ譜の聖歌を歌うって」

「ちょっと待て!」

 ヴィヴィが通訳している途中で、商売人が待ったをかけた。

 全員の視線が商売人に向かう。


「交代しろ」

 命令口調で言った。

 そのセリフにヴィヴィとリコ、商売人たちが首を傾げる。


 それでいい。

 僕は心のなかでにんまりと笑った。


 もし、この言葉がなければ僕が言おうと思っていた。

 でも、そうしたら事前にすりあわせていたとまた疑われてしまう。

 だから、ほっとした。

 商売人たちから提案してくれたのだから。


『いいよ。今度は下の記号を僕が口笛で吹く』

「下の部分をレオが口笛でやるって」

「ちょ、ちょっと待って。じゃあ、私が上を歌ってこと?」

 ヴィヴィの言葉にかぶさるようにしてリコが言った。

 予想外の展開に驚きを通り越し、戸惑っている。

 

 知っている聖歌なら、ある程度初見で歌える。

 でも、聞いたこともない旋律をネウマ譜を見ただけでは歌えない。

 リコでなくても戸惑うだろう。


 これが最後の一手だ。

 奏でるパートを交代し、それでも聖歌として成立すれば偽物ではない証明になる。

 それが成功するポイントはふたつ。

 ひとつは、初見で偽ネウマ譜を歌うのだと商売人たちが認めること。

 これに関しては、いまのところ成功しているように思う。

 誰が見ても、リコの戸惑う様子は本物だとわかる。

 それと、使用する偽ネウマ譜は今朝発見されている点だ。


 残るひとつは、初見でリコがハモリパートを歌えるかどうか。

 これがとても重要。

 歌えなければ、逆にこれが偽物だと証明する結果となる。

 

 大丈夫、リコならできるはずだ。

 僕は信じている。

 リコの才能と聖歌を歌う者の矜持きょうじを——。


 僕は今回使う偽ネウマ譜の一番最初のハモリ部分を指差した。

 そのあと、口笛で音を出す。

 音高——ピッチをリコに伝えるために。

 

 これで基準となる記号のピッチがリコに伝わったはずだ。

 次に基準となる記号とその他の記号との位置関係を見定める。

 そうすれば、全ての記号のピッチを割りだすことが可能だ。


 とても難しいと思う。

 でも、不可能じゃない。

 

 リコにピッチの割りだしができるかどうか、これは賭けだ。

 長年ダレッツォのもと、リコは聖歌の訓練を重ねてきた。

 だから、きっとできると信じている。

 僕が説明しなくても、たった一音を伝えただけで察したはずだ。


 リコがじっと僕を見ている。

 戸惑いでも困惑でもない不思議な目だ。


 できるかどうかわからない。でも、やってみる——。


 そんな風に僕には伝わってきた。

 決意を感じる。

 僕はリコの目をしっかりと見つめ、深くうなずいた。


「では、歌います。レオが下を、私が上を……」

 リコが商売人たちを見渡しながら説明をした。

「……修道士さまよ、聞いてもいいかい?」

 少し丁寧な口調でジュゼッペが言った。

「ええ、もちろんです。どうぞ」

「こんな感じのネウマ譜をこれまでに見たことはあるかい?」

 ジュゼッペの質問にリコは首を横に振った。

「じゃあ、歌った経験は?」

「ありません、初めてです。神に誓って……」

 胸に右手を当て、神妙にリコが答える。

 その姿をじっとジュセッペが見つめていた。


「よし、いいだろう。聞かせてもらおうか」

 ジュゼッペが商売人たちに目配せをした。

 他の商売人たちは黙ってうなずく。


 よし、やろう。

 これが最後の一手だ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る