第89話 証明の口笛

 証明する計画に必要不可欠な存在。

 それは、心から信頼できて能力のある人物。

 それは、修道士・リコ——。


 ネウマ譜と出会うきっかけとなった修道士で僕に好意的だ。

 リコならきっと協力してくれる。


 いた!

 修道士たちのなかからリコを発見。

 僕はリコのもとへ駆けていく。


「レオ?」

 僕に気づいたリコが、にっこりと微笑んだ。

 他の修道士たちが去っていくなか、リコは立ち止まってくれた。

『リコ!』

 返事の代わりに僕は大きく手を振った。

「どうした? あっ、採譜の仕事に来たの?」

『違うんだ。リコに頼みがあってきたんだ』

 ヴィヴィがやってくるまで待てず、身振り手振りで思いを伝えた。

「頼みたいことがある? うん、いいよ。なんだい?」

 リコは快く応じてくれた。

『ありがとう』

 何度もお辞儀をしているさなか、ヴィヴィが追いついてきた。


「レオ、どうしたんだよ」

 息を切らしながらヴィヴィがやってきた。

 後ろには眉を吊りあげた商売人たちもいる。

『リコに協力してもらって証明する』

「この修道士さまが協力者だって?」

『うん』

「いや、でも、事情を知らない修道士さまだろう?」

 ヴィヴィがいぶかしんでいる。

 たしかにリコはなにも知らない。

 そんな状態で協力してくれるかは不透明。

 最初から説明するにしても時間がかかる。

 そのあいだ、商売人たちを黙らせるのは難しい。


「なんだかよくわからないけど、私でよかったら協力するよ」

 リコがヴィヴィに向かって微笑んだ。

「えっ、いいんですか? じゃあ、手っ取り早く状況を……」

「話さなくていいよ。時間がなさそうだからさ」

「でも……」

「問題が起きて困っているんだろう?」

 リコが僕の肩に手を置いた。

『そうなんだ。解決するために協力して』

「解決するためには修道士さまの力が必要みたい」

 ヴィヴィの通訳にリコが大きくうなずいた。

「私を信頼してくれて嬉しいよ。それで、なにをすればいい?」


『この聖歌、知ってるよね?』

 僕は偽ネウマ譜を見せた。

 それをリコが目で追っていく。

「うん、わかるよ。でも、このネウマ譜は面白いね」

「面白い? 冗談じゃない。これは偽物だ!」

 リコの言葉に商売人のひとりが怒りを込めて言い放った。

「偽物?」

 リコが大きく目を見開いた。

『そうじゃない。記譜方法が違うだけだよ』 

「偽物じゃないって」

 ヴィヴィがリコに言った。

「……わかった。レオを信じるよ」

『ありがとう。いまからこの聖歌を歌ってほしいんだ』

「いま、ここで?」

 リコが戸惑っている。

 いきなり押しかけたうえ、突然歌ってほしいと言われた。

 しかも、見知らぬ商売人たちを目の前に……。

 なにも語らなくてもリコの気持ちは表情でわかる。

『お願いします』

 無理を承知で僕は頼んだ。

 

「……レオを助けられるならいいよ。歌おう」

 リコは大きく息を吸い、ゆっくりと吐きだした。

 それから軽く目を閉じ、ぱっと目を開ける。

 いつもと違う眼差しを宙に向けた。


 泉のように透明感のある声で音を出す。

 ひとつひとつの音が聞く者の耳から入り、体内に巡っていく。

 音が駆け抜けたあとには、清々しいまでの清涼感に包まれる。

 そんな不思議な感覚を与えるリコの歌声。

 誰もが聞き惚れる。


 一小節、二小節……。

 心地よい旋律に耳を傾けながら、僕は偽ネウマ譜に人差し指を置いた。

 それから、リコの歌声に合わせて指を動かしていく。


 いま、この部分を歌っている。

 それをはっきりとさせるための動き。

 

 特になにも言っていないけど、商売人たちが僕の指の動きに注目している。

 

 よし、みんな見ているな。


 商売人たちの目線を確認。

 それから僕は空いた手で、別の部分を指した。

 偽物の根拠となった記号がふたつ書かれた箇所だ。

 商売人たちは見ている、僕の指先を——。


 もうすぐ聖歌が問題の箇所に差しかかる。

 ヴィヴィが唾を飲みこみ、僕に視線を送ってきた。


 大丈夫?

 そう思っているのが手に取るようにわかる。


 大丈夫だよ。

 僕はヴィヴィに向かって軽く微笑んだ。


 大丈夫……とは言えないけど、準備は万端。

 あとはやるだけ。

 結果はおのずとついてくるはずだ。


 大きく深呼吸し、早鐘を打つ心臓を落ちつかせる。

 それから口をすぼめ、舌先を所定の位置に固定。

 あとは息を吐くだけ。


 タイミングが重要。

 ずれてしまったら意味がない。

 ドンピシャのタイミングで音を出す。

 かすれてはいけない。

 はっきりとした音でリコの歌声に乗せる。

 そうやって初めて証明できる。

 ハモリを——。


 いまだ!


 一気に息を吐く。

 高らかに口笛が鳴った。

 しっかりとした音と音程でリコの歌声にハモる。


 ヴィヴィと商売人たちが目を見開いた。

 表情から驚いているのが見て取れる。


 修道士たちが別々のパートを歌うのは、商売人たちも知っているはず。

 だから、驚きに値しない。

 問題はネウマ譜だ。

 一枚のネウマ譜にひとつのパートを採譜。

 これが現在の常識である。

 でも、問題の偽ネウマ譜はその常識から外れた物だ。

 一枚のネウマ譜にふたつのパートが記されている。

 

 一枚のネウマ譜にふたつのパートが共存するなどあり得ない——。

 そんな商売人たちの思いをいま、ここでぶち破っている。

 歌声と口笛、ふたつのパートがしっかりと共存。

 商売人たちは驚きと困惑が入り混じった複雑な表情を浮かべている。


 リコの歌声と僕の口笛は続く。

 ときにリコの独唱、ときに僕とのコラボになる。

 

 商売人たちは黙って聞いている。

 もしかするとうまくいくかもしれない。

 淡い期待を抱いた。 


 最後の一小節の最後の音をゆっくりと伸ばす。

 口笛が先に消え、最後にリコの声がフェイドアウトした。


 歌い終えたリコは、すぐさま僕を見た。

「口笛かぁ。話せなくても吹けるとは思わなかったよ」

 楽しそうに答えるリコの背後で商売人たちがざわついている。


「……証明にはならないな」

 若い商売人がつぶやいた。

「そうだな。事前にふたりがすりあわせた可能性がゼロとは言えない」

 顎を触りながらジュゼッペが言った。

「すりあわせてない。だって、レオと修道士さまが会ったときの様子を思いだしてよ」

 ヴィヴィが反論した。

「久しぶりに会った芝居をしたのかもしれないだろう」

 すぐさま商売人が言い返す。


 そう思われても仕方がない。

 僕とリコが知りあいなのは商売人たちも気づいている。

 だから、疑ってかかるのは当然。

 想定内だ。

 

 本当の証明はこれから。

 次の一手がダメなら、証明は失敗。

 覚悟を決める。

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