第35話 採譜試験の罠

 絶対に罠を仕掛けてくる。

 カリファはそのために試験をする側にまわった。

 僕に採譜の能力がない——。

 そうダレッツォや修道士たちに証明するために。


 採譜そのものを邪魔してくるのか。

 仕上がったネウマ譜にケチをつけるのか。

 どんな方法であっても、負けるわけにはいかない。

 しっかりと採譜できれば大丈夫だ。

 集中、集中。


 僕は渡された紙を見つめ、ペンを手に取る。

 いつも通りやればいい。

 僕は呼吸を整え、修道士たちがカリファの前に集まる姿を眺めた。

 聖歌の選曲を指示しているのだろう。

 採譜師の修行をはじめてから、たくさんの聖歌を聞いてきた。

 だから、たいていの曲は覚えている。

 写譜もしてきたので、暗譜あんぷ——暗記しているネウマ譜も多数。

 楽勝だ。


 聖歌は歌うたびに多少の違いが生じる場合がある。

 たまたま音を外したとか、音の長さが違ったり。

 練習を取り仕切る修道士が、意図的にこれまでと違った歌い方を指定したりなど様々。

 現代風に説明するならアレンジというやつだ。

 

 つまり、いまから修道士たちが僕が暗譜している通り聖歌を歌うとは限らない。

 偶発的にしろ、意図的にしろ、これから歌われる通りに採譜する必要がある。

 とはいえ、既存のネウマ譜から大きくズレることは考えにくい。

 違いをおさえ、そこをしっかりと採譜していこう。


 対策は練った。

 あとは実戦のみ。

 

 修道士たちがカリファのもとを離れ、一列に並んだ。

 もうすぐはじまる。

 僕は身構えた。


 あれ?

 ペンを手にし、歌いだしを待っていたところ違和感を覚えた。

 横一列に並んだ修道士たちの視線がおかしい。

 隣を見たり、カリファを見たりと挙動不審きょどうふしんだ。


 カリファになにか言われたのだろうか。

 もしそうなら、内容は十中八九じゅっちゅうはっく僕を陥れるための指示だ。

 気になるけど、いくら考えたところで性悪しょうわるなカリファの脳内なんて理解できない。

 それなら無視、無視。

 心を落ちつかせて、集中していこう。

 深呼吸をし、修道士たちが歌いだすのを待った。


 修道士たちが口を開く。

 そこから第一音が出てくる。

 美しい澄んだ声が耳に優しく入りこむ。

 

 声の美しさを堪能たんのうしつつ、曲目を探る。

 手早く曲を特定すれば、次の手が打てる。

 

 第二音、第三音……。

 次々と発せられる音がつながり、旋律を誕生させていく。

 第四音、第五音……。

 教会内に旋律が響き渡る。


 脳にストックされているネウマ譜と照合していく。

 ……。

 脳内にはたくさんのネウマ譜がある。

 でも、どれひとつとして合致しない。

 まさか……。


「……新曲だよ、これ」

 近くにいたリコがつぶやいた。

 

 やはりそうか。

 カリファがなにか仕掛けてくるだろうことは予想していた。

 でも、新曲を選んだのは予想外。

 知らない曲を採譜するのは不可能と考えたのだろう。

 やはりずる賢い奴だ。


 教会では、新しい曲は作曲者によって口伝くでんされる。

 そのあと採譜師の立ちあいのもと、修道士たちが練習を開始。

 何度となく曲を聞き、採譜し、確認と修正を行い、ネウマ譜を仕上げる。

 かなりの時間と労力を必要する作業だ。

 

 骨の折れる作業を一回でしろってこと、か。

 僕はため息をついた。


 一緒に採譜するようダレッツォの提案を断ったこと。

 カリファが試験を取り仕切ったこと。

 全ては僕を蹴落とすための罠を仕掛けるための布石ふせき


 なんて卑怯なんだ。

 いきどおる気持ちを押しこめないと。

 焦ったり怒ったりしたら、カリファの思う壺。

 まずは冷静になるんだ。

 

 ふっと息を吐く。

 目の前に罠がある。

 それにかかるか、避けられるかは僕次第。


 大丈夫。

 できる。

 ペンを置いて目を閉じ、耳に入ってくる音に集中した。

 

 美しい聖歌。

 流れるような旋律は、とてもオーソドックス。

 暗譜が苦手な者でも覚えやすい。

 それでいて新しさもある。

 

 かなりいい曲だ。

 誰が作曲したんだろう。

 不意に浮かんだ疑問をいまは横にやり、心のなかで修道士たちと共に歌った。

 本当なら声を出して歌いたい。

 でも、いまの僕には不可能なこと。

 だから、心のなかで歌う。

 

 こんな風に歌うの初めてだ。

 曲が頭に思い浮かぶ経験は何度もある。

 でも、浮かんだ曲をなぞるように心のなかで歌ったことなはい。

 未体験。

 体のなかに曲が「いる」んじゃない、「ある」という表現がしっくりくる。


 なんとも不思議な感覚と感情に戸惑いながらも歌い続ける。

 頭も心も音で溢れていっぱいだ。

 とても心地よい。

 ずっとこの状態でいたいと思う。


 修道士たちの声が消えた。

 聖歌が終わり、教会内は静まりかえっている。

 

 終わった。

 心地よい時間は終わり、全身が緊張感に包まれる。


 僕は目を開けた。

 カリファがいやらしい笑みを浮かべて僕を見ている。

  

 カリファを越える採譜師になるため、この一年修行してきた。

 その力を発揮できれば、罠にはかからない。

 それどころか、罠を逆手に取ることも可能だ。


 ペンを取り、カリファを見た。

 採譜できるものならやってみろ、そう言わんばかりに僕を睨んでくる。

 カリファから視線を逸らし、修道士たちを見つめた。

 誰もがすまなさそうな表情をしている。

 おそらく、心のなかでカリファのやり方を批判しているのだろう。

 視線をダレッツォに移した。

 微笑みを浮かべ、軽くうなずいている。

 やれるだけやりさない——。

 そう言っているように思える。

 僕はうなずきかえし、リコの姿を探した。

 処罰を恐れずに協力してくれた優しい修道士。

 がんばれ——。

 リコの声は届かないけど、そう言っているのが口の動きでわかる。

 僕はリコの向かって微笑んだ。


 やるぞ。

 僕のためだけじゃない。

 応援してくれたひと達のためにも。

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