第34話 採譜師の修行をはじめて一年

 ダレッツォの計らいにより、孤児でありながら採譜師の修行を始めて早一年。

 あっという間だった。

 教会一の採譜師になるため、修行に明け暮れる毎日。


 朝日が登ったら、すぐさま様々な修道士が書いたネウマ譜を写譜する。

 聖歌の練習が始まったら、教会内で採譜を作業を行う。

 午後からはネウマ譜を発展させるために研究したり、聖歌の構造を学ぶ。

 朝から晩まで修行だ。

 そのおかげで、ネウマ譜の採譜速度と正確さ、見た目の美しさが格段にあがった。

 確実に採譜師として力がついていると実感している。


 でも、実力だけでは越えられない壁があった。

 それは僕が孤児で、本来教会内で採譜をするような身分ではないことだ。

 例外的に採譜師として修行をしているけど、あくまで助手的存在。

 修道士副長であるカリファが、採譜をさせる者を指名する権限を握っている。

 そうなると、当然僕を選ばない。

 ダレッツォの手前、僕が教会に入って採譜の練習をするのを止めはしない。

 でも、いくら書いたところで所詮しょせんは練習。

 どれほど正確で、早くて、美しくても、僕の書いたネウマ譜は採用されない。


「レオの書くネウマ譜はとても読みやすいので、正式採用してはどうでしょうか?」

 僕の悔しさに気づいたリコが、カリファに提案してくれた。

 面と向かって同意はしないものの、他の修道士たちもうなずいている。

 修道士たちを味方につければ、もしかしたらと淡い期待を抱いた。

「リコ修道士、それは無理な話ですよ。孤児が書いたネウマ譜を採用した前例がありません」

 カリファが少しも考えずに答えた。

 リコは言い返そうと口を開いたけど、僕はそれを腕を引っ張って阻止。

 カリファにはなにを言っても通じない。

 おまけに、前例まで持ちだされてしまった。

 それを言われたら、もうお手あげ。

 教会は前例主義の保守のかたまりだ。


 採譜師は修道士として修行を積み、かつ選ばれた者だけが目指せる道。

 孤児がなれるものではない。 

 カリファ以外にも、そう考える修道士は大勢いるだろう。

 その前例がある限り、僕はどうしようもない。

 採譜師になるなんて夢のまた夢。

 あきらめるしかないのか?


「前例がなければ作ればいいのですよ」

 背後から声が聞こえてくる。

 振り向くと、そこにダレッツォがいた。

「ダレッツォ修道士長さま」

 カリファはうやうやしくお辞儀をした。

 リコや他の修道士たちもカリファにならって頭を下げていく。


「採譜の能力を持つ孤児を私はこれまで見たことがありません」

 話しながらダレッツォが僕の横に立った。

「まさに前例がありませんでした」

 ダレッツォは僕が採譜したネウマ譜を手に取った。

「でも、レオが前例を作ったのです」

「じゃあ、レオが書いたネウマ譜の正式採用もあり得るということですか?」

 リコが前のめりになる。

 それに対し、ダレッツォがにっこりと微笑む。

「反対です。孤児なんかが書いたネウマ譜は信用できません」

 リコを押しのけ、カリファが叫んだ。

 なにがなんでも阻止する、カリファの必死さが伝わってくる。

「信用、ですか……。いいでしょう。それでは試しましょうか」

 ダレッツォが僕の肩に手を置いた。

「いまからレオに採譜をしてもらいましょう」

 その提案に僕は大きく首を縦に振った。


 チャンス到来。

 ダメでもともとだ。

 失敗したらいさぎよくあきらめられる。 

 よし、頑張ろう。


「私は反対です。修道士課程を経ていない孤児に機会を与えるなんて」

 カリファが口を挟んだ。

 その意見に修道士たちから賛同の声があがった。

「機会は平等に与えます。誰でも参加を認めましょう」

 ダレッツォが修道士たちを見渡した。

「今日練習する聖歌を採譜してください」

 ダレッツォの試験内容を聞くやいなや、修道士たちが次々を機会を求めて前に出た。


「ただし、予定を変更して別の聖歌にします」

「どの曲でしょうか?」

 修道士が質問した。

「それは歌う直前に伝えます」

「えっ⁉︎」

 修道士たちから戸惑いの声が漏れる。

 練習予定の聖歌なら、事前にネウマ譜を読みこんできたので採譜が可能だと考えたのだろう。

 その当てが外れたのか、修道士たちが次々と辞退しはじめた。


「修道士長さま、質問です。聖歌は何度歌うのでしょうか?」

「一回だけです」

「一回⁉︎」

「そうです」

「さすがに一回では……」

「完璧である必要はありません。参加者のなかで一番優れた者を見極めるのが目的ですから」

 ダレッツォが再び微笑み、修道士たちを見た。

「レオ以外にこの条件で参加する者はいますか?」

 誰も参加を表明しない。

「そうですか。では、カリファ修道士副長。せっかくですから参加しませんか?」

 ダレッツォがカリファを見た。


 面白い。

 僕は率直に思った。

 同じ条件で採譜すれば、現状での僕とカリファの能力の差が判明する。

 当然、カリファは参加するだろう。

 僕との実力の差を見せつけるために……。


「辞退します」

 予想外の言葉をカリファが発した。

「……なにか理由でもあるのですか」

「私はすでにこの教会の採譜師です。機会は必要ありません」

 カリファが僕を見た。

「採譜師として試験を自らの手で行いたいのです。いかがですか?」

 にやにやと笑みを浮かべている。


 明らかに怪しい。

 絶対、なにか企んでいる。


「いいでしょう。では、修道士副長が……」

「条件を足してください。

 こいつに能力がないと証明されたら、採譜禁止命令を出すと……」

 カリファは笑みを消し、真面目な顔をしてダレッツォを見た。

 ダレッツォは困惑している。

 修道士長として、これまでずっと中立の立場を貫いてきた。

 それは表向きで、実際は陰ながら僕を応援してくれている。

 誰もがそのことに気づいているはずだ。

 とはいえ、あからさまに贔屓ひいきはできない。 


「受けいれてくださらないなら、機会を与えることに反対します」 

 返答を急かすようにカリファが強い口調で言った。

「……レオ」

 ダレッツォがしゃがみ込み、僕と視線を合わせた。

「カリファ修道士副長が出した条件を受けいれますか?」


 ——受けいれます。

 僕はゆっくりと首を縦に振った。

 ほんの少しでも可能性があるのなら試してみたい。

 それに、これまで僕を手助けしてくれたダレッツォに恩返しできる機会だ。

 孤児だってやればできる。

 そう証明したい。

 問題はカリファだ。

 自分の力を誇示する機会を捨て、試験する側にまわった。

 これはつまり、僕を邪魔する方を選んだということ。


 仕掛けてくる。

 間違いない。

 それでもやるしかない。

 採譜師の修行を続けるために——。

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