第32話 カリファにはない僕だけの能力

「これで本当に整理したのか? めちゃくちゃじゃないか」

 カリファが整理したばかりのネウマ譜を棚からはたき落とした。

 完全なる言いがかり。

 僕はカリファの指示通りネウマ譜を並べ替えた。

 その並びに全く意味はない。

 だけど、従った。

 その結果、これだ。

 並び順を全く確認することなくダメ出しをした。

 

 ネウマ譜を教える気がないのなら仕方ない。

 あきらめる。

 でも、それならせめて邪魔をしないでほしい。

 互いに無視する。

 それが一番の解決策。

 なのに、なにかと横槍を入れてくる。

 なにがなんでも僕に採譜師としての仕事をさせたくないのだろう。

 

 僕はため息をつき、落ちたネウマ譜を拾いはじめた。

 このままでは精神的にやられてしまう。

 どうにかしてカリファの支配下から逃れなければ。

 そうするためには、次に行われる採譜の再試験に突破する必要がある。

 つまり、採譜を学ばなければならない。

 それも短期間に。


「整理もできないなんて本当に無能だな、おまえは」

 ストレスを発散するような捨て台詞を吐き、カリファは小屋から出ていった。

 しばらく様子を見て、カリファが戻ってこないのを確認。

 よし、はじめるか。


 カリファの支配下から逃れる手っ取り早い道は、ダレッツォに認められること。

 そのためには短期間でネウマ譜を知り、かつ採譜技術を向上させなければならない。

 効率よく学ぶには、写譜——真似ることが一番。

 この方法は、もとの世界で僕が真剣に音楽をはじめたときにやった。

 才能も技術も必要ない。

 ただひたすら真似て書く、ただそれだけ。

 古典的な手法ではあるけど、確実に実力がつく。

 

 さっそく手本となる数種類のネウマ譜を机に広げた。

 選んだポイントは——。

 ここ数年で書かれたネウマ譜であること。

 見た目が美しく、間違いなどの修正が入っていないもの。

 この二点。


 その結果、意外な共通点が見つかった。

 それは全てカリファが採譜したものだということ。

 意地悪で陰険で、人間的に好きになれない。

 だけど、採譜師としては一流。

 ダレッツォが採譜の指導者としてカリファを選んだ理由がようやくわかった。


 カリファ本人とカリファが書いたネウマ譜は別物。

 念仏のように心のなかで唱え、一枚のネウマ譜を丸めた。

 ネウマ譜を書き写すには紙が必要だ。

 でも、ここでは紙は貴重品で練習のために使えない。

 そこで考えた。

 気兼ねなく何度も写譜する方法を。


 丸めたネウマ譜を持ち、こっそり小屋から出た。

 ネウマ譜の保管小屋には、関係者以外はやってこない。

 とはいえ、ダレッツォやカリファが突然来る可能性はある。

 辺りを確認し、人目の付かない場所を探した。

 小屋にやってくる者から姿を隠せ、かつこちらからは確認できる絶好の場所を発見。

 僕は地面にネウマ譜を広げ、小枝を探した。

 適当な長さと太さの小枝を手にし、地面に写譜していく。

 自然の黒板だ。

 地面ならいくらでも書ける、消せる、練習できる。

 

 数日間、覚えるくらい何度もカリファのネウマ譜を写譜した。

 そこから記譜方法を学んでいく。

 考えなくても勝手に手が動くまで、何度も何度でも繰りかえす。

 そうしているうちに、以前僕が書いたネウマ譜のダメなところに気づいた。

 古い記譜方法だったというだけでなく、根本的な間違いもたくさんあった。

 ひとまず、今日の写譜はここまで。

 次の段階へ進もう。


 教会で聖歌の練習がはじまる前、僕はこっそりとリコに近づいた。

「レオ、どうした?」

 リコが不思議そうな顔をしている。

 僕はリコが持つネウマ譜を指す。

「貸してくれって? ああ、ごめん。いまはちょっと……」

 断ろうとするリコに向かって、僕は大きく首を横に振った。

「じゃあ、なんだ?」

 リコが聞いてくる。

 僕はネウマ譜を広げる仕草をやってみせた。

「見せろって?」

 訳がわからないといった表情を浮かべながらも見せてくれた。

 この曲は……うん、たしかあの棚にあったはずだ。

 僕はリコに頭を下げ、急いで小屋に戻った。

 

 目星をつけた棚からネウマ譜を探しだし、それを抱えて教会に戻った。

 カリファに見つからないよう注意しながら、教会の側面に身を隠す。

 そこでネウマ譜を広げる。


 しばらくすると教会から聖歌が聞こえてきた。

 音を拾いながら目でネウマ譜を追っていく。

 こうすることで、実際の曲とネウマ譜の関係性をりあわせられる。

 それと同時に五線譜との違いを確認。

 ネウマ譜は五線譜より記される情報が少ない。

 五線譜は正確に音程やリズムが伝わる。

 だけど、ネウマ譜は音の流れがメインでリズム的な情報は少ない。

 知らない聖歌をネウマ譜だけで伝えるには不向きだ。


 僕がいま必要なのは五線譜ではなくネウマ譜。

 耳で聞いた聖歌をネウマ譜に書き起こす能力が必須だ。

 現代でいうところの聞いた曲を楽譜に起こす能力——耳コピ。

 音源を聞きながら譜面を書くことには慣れている。

 でも、この世界ではそう簡単にいかないだろう。

 なにせ、何度も再生したり、止めたりしたりできる音源がない。

 あるのは修道士たちの生歌だけ。

 加えて、書くのは不慣れなネウマ譜。

 

 カリファに負けないくらいの採譜の能力が必要だ。

 それだけじゃない。

 カリファにはできない僕だけの能力がほしい。

 これがカリファから逃れられる唯一の道。

 僕だけの能力ってなに?

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