第31話 カリファの無意味な指示

 カリファと一悶着ひともんちゃくがあってから、一週間が過ぎた。

 そのあいだ、僕がカリファから教えたれたのは忍耐力だけ。

 毎日、保管小屋に来て真っ先に掃除をする。

 丁寧にホコリを払い、床のチリを掃きだす。

 ここまではいい。

 ネウマ譜は貴重品だから、保管小屋を清潔に保つのは重要。


 問題はネウマ譜の整理だ。

 掃除が終わる頃、カリファがやってきて整理方法を指示する。

 あるときは曲が長い順、またあるときは短い順に——。

 まったく意味のない条件を出しては整理をさせる。

 時間の無駄以外のなにものでもない。

 完全に嫌がらせだ。

 時間を浪費させるだけのカリファの行いに毎回腹が立つ。

 とはいえ、僕の立場ではどうしようもない。

 カリファの嫌がらせを止める方法は、おそらくないだろう。

 

 僕が嫌いで教えたくないことは理解する。

 採譜師になるなんて分不相応ぶんふそうおうだと言いたいのもわかる。

 だったら、僕を無視すればいい、放っておけばいい。

 僕なりの方法で勝手に勉強するから。

 この小屋には、独学するための教材が山のようにあるから問題ない。


 ……無理だろうな。

 カリファは了見りょうけんが狭いから、僕がなにをしてもきっと気に入らない。

 視界のなかに入ってくるというだけで、何癖をつけて怒るだろう。

 まして、採譜を独学で勉強するなんて認めるはずがない。

 見つかったら最後、邪魔をしてくるだろう。

 やるなら隠れてこっそりと。

 チャンスはカリファがいないとき——。


 カリファが保管小屋にやってくるのは、掃除が終わる頃。

 ネウマ譜の整理方法を指示するためにくる。

 それが終わると、立ち去っていく。

 次にやってくるのは、一日の仕事が終わる夕方。

 つまり、二度やってくる。

 それ以外は僕ひとり。

 独学するならそのときだ。


 思いたったら即行動。

 僕は朝一番、掃除をしながらネウマ譜を書きそんじて捨てられた紙を探した。

 発見。

 紙は貴重品なので、孤児がおいそれと手に入れられない。

 だから、捨てられた紙を活用する。

 なにも書かれていない部分を丁寧に切り取っていく。

 うん、これだけの広さがあれば十分使えそうだ。

 早速、紙に昨夜寝ずに考えたことを記した。

 

 ネウマ譜が作成された年代順。

 時系列に並べて聖歌の特徴、記譜方法の特徴を調べる。

 記譜した修道士ごとに採譜方法に特徴がある可能性あり。


 ネウマ譜には書かれた日付が記されている。

 それを手掛かりに古い順に読んでいく。

 そうすることで、聖歌やネウマ譜の時代の流れがわかってくる。

 まずは大枠を知ろう。

 全体を把握できたところで細部を調べていく。

 独学の方法を固めた。


 カリファの目を盗み、独自の方法でネウマ譜を調べて一ヶ月。

 徐々に成果が現れた。

 一番大きな発見は、聖歌とネウマ譜は進化しているということ。

 聖歌は曲の展開の仕方。

 ネウマ譜は採譜の方法。

 そこから、僕がリコに見せてもらったネウマ譜はかなり古いという結論に達した。

 つまり、僕が独学で身につけた採譜方法は古いと判明。

 通用しないわけではないけど、完全に流行遅れ。

 例えるなら、令和時代を生きる者が江戸時代の文体で文章を書くということ。

 かなり滑稽だ。

 僕が身につけるべきは新しい採譜方法。


 道が見えた。

 やるべきは比較的新しいネウマ譜を探し、書き方をマスターすること。 

 明日から早速取りかかろう。

 やる気が溢れてくる。


 保管小屋の掃除を終えた頃、カリファがやってきた。

 いつも通り、意味のないネウマ譜の整理方法を指示するだろうと思った。

 けど、今日は違った。

 まずカリファから刺々とげとげしい雰囲気が一切感じられない。

 なぜだろうと首を傾げていると、ダレッツォが姿を現した。

「順調に進んでいますか?」

 ダレッツォが微笑みかけてくる。

 僕は返答に困った。

 曖昧に笑ってその場をやり過ごす。

「ここで採譜師の修行をはじめてそろそろ一ヶ月ですね」

 ダレッツォが小屋を見渡している。

「修道士長さま。今日はどのようなご用件で……」

 カリファが遠慮がちに尋ねる。

「どのくらい進歩したのか、採譜師としての適性があるのか」

 ダレッツォは言いながら、棚からまっさらな紙を机のうえに置いた。

 机のうえにある羽ペンを手に取り、僕に差しだす。

「レオ。いまから私が歌う聖歌を採譜してください」

「えっ……」

 カリファが後ずさった。

 僕はダレッツォからペンを受けとり、椅子に腰かけた。

 紙を見つめ、唾を飲みこむ。


 ダレッツォが期待するようなネウマ譜は書けない。

 僕が知っている採譜方法は古いものだ。

 ダレッツォが求めているのは、僕が以前書いた古い記法ではないもの。

 つまり、カリファから習ったであろう最新の記譜方法だ。


 困った。

 カリファからなにひとつ教えてもらっていない。

 無理だ。

 わざと教えなかったカリファが全面的に悪い。

 でも、それを伝えられないし、伝わったところでカリファは言い逃れるだろう。

 最悪、一ヶ月経っても進歩がないとダレッツォに匙を投げられるかもしれない。

 そうなったら、採譜師の修行を取り消され、もとの教会内の掃除に逆戻り。

 もう二度とネウマ譜が書けなくなる。

 どうしよう……。

 策が思い浮かばない。


「では、はじめましょう」  

 ダレッツォが歌いはじめた。

 高齢とは思えない透き通った高音で歌っている。

 綺麗だ。

 ……って、聞き惚れている場合じゃない。

 我に返り、僕は採譜をはじめた。

 なにもしないより、古い方法でもいいから採譜したほうがマシだ。

 急いで書いていく。


 ダレッツォが短いフレーズを歌い終えた。

 僕は頭に残るダレッツォの歌声を再現しながら採譜していく。

 視線を感じる。

 おそらくダレッツォが採譜の様子を見ているのだろう。

 落胆といった雰囲気は伝わってこないけど、かすかに息を吐くのが聞こえた。

 

「そこまで」

 ダレッツォが僕の腕に手を添えた。

 えっ? まだ書き終えていないのに?

 僕はネウマ譜を書くのをやめ、顔をあげた。

 ダレッツォの視線が横に動いていく。

 ちらりとカリファを見て、それから僕が書いたネウマ譜を見つめる。

「これは使えませんね」

 ダレッツォがつぶやく。

「おっしゃる通り使えません」

 カリファが早口で言った。

「ネウマ譜は修道士たちに聖歌を伝達するための手段。だから完璧でないといけません」

「そうですとも。こいつはダメですよ、物覚えが悪くて使えません。適性がないんですよ」

 嬉しそうにカリファが発言した。


 違う、そうじゃない。

 反論したい。

 けど、僕には無理だ。

 唇を噛み、カリファを睨んだ。

 そうしたところでどうなるものでもない。

 わかっているけど、悔しくてたまらない。


「こいつには無理ですよ。だから、もとの仕事に戻しては……」

「来月、もう一度やりましょう」

 ダレッツォはカリファの話を聞くのを拒否するように背を向けた。

「いいですね?」

 ダレッツォが僕に目を向けた。

『はい』

 僕は大きくうなずいた。

「では、しっかり勉強をしておいてください」

 ダレッツォの声から怒りも落胆も感じなかった。

 どういう心境なのか僕には全くわからない。

「では、修行を続けてください」

 そう言い残し、ダレッツォは去っていった。


「おまえ、運がいいな。でも、次はないぞ」

 ダレッツォの姿が見えなくなるやいなや、カリファが本性を現した。

「今度も失敗したら、教会外の仕事に逆戻りさせてやる」

 吐き捨てるように言い放ち、カリファは保管小屋から出ていった。 


 どうにか難は逃れた。

 でも、カリファの言う通り三度目はない。

 次までにどうにかしないと採譜師の道が断たれてしまう。

 頼れるのは自分だけ。

 やるしいかない!

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