第29話 試される能力
カリファが僕を睨んでいる。
どんなに凄んでも、睨みつけられても少しも怖くない。
僕が恐れているのは、教会から追放されることだ。
なにか策を講じないと……。
追放されずにすむ方法を考えた。
でも、思い浮かばない。
「どうかしましたか?」
騒ぎを聞きつけたのか、教会からダレッツォが出てきた。
僕とカリファを交互に見ている。
「修道士長さま。こいつがこっそり教会をのぞいていたんです」
カリファが僕を睨みつける。
「そうですか」
ダレッツォが答えながら僕に近づいてくる。
「聖歌の練習中は、教会に近づいてはいけないという決まりを知ってましたか?」
確認するように聞いてくる。
僕は目を伏せ、うなずく。
優しいダレッツォとはいえども、禁止されていることをした僕を許さないだろう。
罰を受ける覚悟はある。
でも、教会からの追放だけは勘弁してほしい。
減刑の訴えを身振り手振りでしようとしたそのとき——。
ダレッツォの視線が僕の目から下に移動した。
僕が地面に書いたネウマ譜を真剣な目つきで見ている。
「これは……」
途中で言葉を飲みこみ、その場にしゃがんだ。
なにか思案するように宙を見つめ、それから地面に視線を戻す。
それを数度繰り返したあと、真正面を向いた。
目を見開いている。
その表情の意味するところが僕にはわからない。
驚きにも思えるし、恐怖にも感じられる。
ダレッツォは手を伸ばし、僕の肩に置いた。
「レオ」
重々しい声で僕の名前を呼び、しっかりと視線を合わせてくる。
答える代わりに僕は瞬きをした。
「ネウマ譜を知っているのですか?」
ダレッツォが問いかけてきて、僕は返答に困った。
知っている。
そう答えれば、なぜと聞かれるだろう。
ネウマ譜を見たから。
ここまで話をしたら、リコの名前を出さなくてはいけなくなる。
それはできない。
恩をあだで返す行為だ。
黙秘。
これが僕の出した結論だった。
「答えなさい」
いつになく厳しい口調でダレッツォが聞いてくる。
この様子だと、リコのことがバレたら僕の共犯として罰せられるだろう。
ダメだ。
それだけは避けないと。
僕は下を向いた。
嘘も本当のことも言えない。
口を固く結び、ひたすらダレッツォがあきらめるのを待った。
でも、ダレッツォは動こうとしない。
ダレッツォの視線が僕の顔に突き刺し続ける。
だったら根比べするだけ。
「修道士長さま。私がレオにネウマ譜を見せました」
聞き覚えのある声が聞こえてきた。
誰かが僕を
内容からすぐに誰か気づいた。
リコだ。
僕は慌てて顔を上げた。
リコが申し訳なさそうな表情をしている。
「私が勝手にやったことですから、処罰はレオではなく……」
「どのネウマ譜を見せたのですか?」
ダレッツォは立ちあがり、肩を落としているリコの真正面に立った。
「昨日練習した聖歌を三曲です」
リコの答えを聞き、ダレッツォは再度地面を見た。
「今日の分のネウマ譜は?」
視線をそのままにし、ダレッツォが質問をした。
「いいえ。見せていません」
リコの返答にダレッツォが視線を動かした。
確認するようにリコを見て、それから驚きの表情で僕を見つめる。
最後にダレッツォの視線は地面で止まった。
「リコ。あなたは採譜ができますか?」
ダレッツォの問いにリコは首を横に振った。
「では、写譜の経験は?」
再度、リコが首を横に振る。
「そうですか。あなたはネウマ譜を見せただけなんですね」
「はい、申しわけありません。罰を受けます」
リコが頭を下げた。
僕は慌ててダレッツォの腕をつかんだ。
違う。
悪いのは僕であって、リコじゃない。
必死に目で訴える。
すると、ダレッツォが腕をつかむ僕の手を包みこむようにして握ってきた。
「レオ、安心しなさい。リコを罰したりしません」
ダレッツォがにっこりと微笑んだ。
「あ、ありがとうございます。二度としません」
リコがほっとした顔をした。
「リコ。これからもレオにネウマ譜を見せてもかまいません。許可します」
「えっ? は、はい」
リコが驚いている。
リコばかりでなく、僕もカリファを同様だった。
禁止されていることを許可されたのだから。
「修道士長さま、それはいけません。関係者以外にネウマ譜を見せる行為は……」
すぐさま異を唱えようとするカリファを、ダレッツォが手で制した。
「レオ。リコに見せてもらったネウマ譜を独学で読んだんだね?」
ダレッツォがいつになく真面目な顔をして聞いてきた。
『そうです』
僕は首を縦に振った。
「地面に書いたネウマ譜は、練習中の聖歌を聞いて書いたものですか?」
僕はもう一度首を縦に振った。
「嘘だ。そんなわけありませんよ」
カリファが小馬鹿にしたような口調で言った。
「……試してみましょう」
ダレッツォは答えるのと同時に、足で地面のネウマ譜を消した。
「試す?」
リコが首を傾げた。
「これから歌う聖歌を採譜してもらいましょう」
ダレッツォが僕を見た。
「採譜なんて無理に決まってますよ。私だってできるようになるまで何年もかかったんですから」
カリファが僕を見下すような笑みを浮かべた。
「短くてかまわないので、採譜して……聞こえたままをネウマ譜にしてください」
ダレッツォが地面を指した。
「リコ。なんでもいいので聖歌を歌ってもらえますか」
ダレッツォに指名され、リコは驚きながらも歌いはじめた。
僕はその場にしゃがみこみこんだ。
木の枝を手に取り、リコの歌声に耳を傾けた。
心のなかで僕も聖歌を歌っていく。
気にいったフレーズを見つけたところで、木の枝を動かす。
ネウマ譜として正しいとか正しくないとか気にしない。
ただ、頭に残ったフレーズを採譜していく。
次のフレーズを探そうとしたところ、リコの歌声が止まった。
「……いいでしょう。できましたか?」
ダレッツォに言われ、僕は急いでネウマ譜を仕上げた。
『できました』
枝を地面に置き、顔を上げた。
ダレッツォが僕を見ている。
「……」
無言でダレッツォがネウマ譜を読んでいる。
その間、表情が少しも変わらない。
良いのか悪いのか、ちっとも読めなかった。
ネウマ譜が間違っていた?
たかだか数枚のネウマ譜を見ただけでは、やはりマスターできなかったようだ。
仕方がない。
残念に思うのと当時に、もっと知りたいという欲が出てきた。
なにが間違っていたのか。
そうすれば正しく採譜できるのか。
欲が膨らむ。
「レオ。明日から掃除のあと、教会に入って採譜の仕事を学びなさい」
ダレッツォが言った。
「えっ?」
すぐさま反応したのはカリファだった。
目を釣りあげ、僕を睨みつける。
「レオ、やったな。ネウマ譜をもっと見られるぞ」
リコが僕のそばに寄ってきた。
「修道士長さま。孤児に採譜の仕事を教えるなんて前例がありませんよ」
「たしかにそうですね。これまでは、聖歌を歌う者のなかから適正を見極めてきましたから」
「そうです。私のような才能のある者だけが修行することを許される道です」
カリファが必死に訴えかける。
なにがなんでも阻止したいようだ。
「レオには適正があると思いませんか?」
ダレッツォはリコを見た。
「ええ、あると思います。独学でネウマ譜を読んだうえに、聖歌を歌えないけど採譜できます」
リコは我が事のように嬉しそうに語った。
「いや、歌えない者が採譜師になるなんて……」
「カリファ修道士副長。明日からレオに採譜を教えてください」
反対意見を潰すかのようにダレッツォが言い放つ。
「……はい」
渋々といった風にカリファが返事をした。
明日から採譜を学べる?
この僕が?
堂々と聖歌が聞けて、ネウマ譜が読めて、書けて……。
最高だ。
ただ、師事するのがカリファというのは……。
前途多難の予感しかしない。
嬉しいのやら悲しいのやら、複雑な心境だった。
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