第26話 ネウマ譜との出会い

 僕は教会の外壁にもたれ、空を眺めた。

 異世界にやって来て、かれこれ数年。

 はっきり数えていないから、正確な日数はわからない。

 でも、体の成長から大体予想がつく。

 いまの僕は十歳にも満たない子供だ。

 このままこの世界に居続けたら大人になる。

 そのとき、僕の状況はどうなっているんだろう。


 教会から独立して、貧しいながらも奥さんをもらって子供が生まれて……。

 そんな生活を送れるのが、現状においては勝ち組。

 まともな仕事がなくて悪に手を染める一生を送るなら、それは負け組。


 だったら、大人になる前に死んでしまった場合は?

 勝ちも負けもない。

 生きてこそ勝負ができる。


 柄にもなく真面目なことを考えていると、教会から聖歌が聞こえてきた。

 修道士たちが練習をはじめたようだ。

 美しい歌声と旋律に耳を傾けていると、教会からダレッツォが出てきた。

 そのすぐあとにアリアの姿を発見。

 筒状の紙を大事そうに抱えるようにして持っている。

 それの正体を確かめたくて待っていたはずなのに、視線は別のものに釘づけだった。

 アリア——。

 初めてその姿を見たとき、女優のような容姿に目を奪われた。

 でも、いまは別のところに惹かれる。

 彼女がまとう空気感。

 それは氷のように冷たい。

 触れたら凍りついてしまいそうなほどだ。

 その一方で熱を感じる。

 氷のなかにあっても溶けない激しい炎。

 とても小さい、点のように微細びさいなもの。

 そこに僕は異常なまでに心を奪われている。


「次はいつ来ますか?」

 ダレッツォの声に僕は我に返った。

「わかりません」

 突き放すようにアリアがつぶやく。

「そうですか。では、ご自宅までお届けしましょうか?」

「……受けとり方法は後日お知らせします」

「承知しました」

 うやうやしくダレッツォが頭を下げた。

「それでは失礼します」

 アリアはダレッツォを一瞥いちべつし、去っていった。

 頭を上げたダレッツォは、哀れみを宿したような目でアリアを見つめている。

 しばらくそうしたあと、軽くため息をつく。

 アリアに対してなにやら思うところがあるようだ。


 なんだろう。

 考えたところで僕にわかるはずがない。

 でも、気になる。

 アリアのことを知りたい。

 強く思った。


 教会の外壁にもたれ、聖歌を聞きながらアリアのことを考えていた。

 頭をどれだけ働かせようが、彼女を知ることはできない。

 それでも考えてしまう。

 アリアのことを——。


 終わりのない思考の迷路をさまよう僕。

 BGMに聖歌が流れる。

 歩けど歩けど出口が見つからない。

 行けば行くほど迷う。

 でも、不思議と苦痛はない。

 いつまでもさまよい続けられそうだと思っていたさなか——。

 突然、現実に引き戻された。

 

 聖歌が聞こえてこない。

 練習が終わったのだろうかと思っていたところ、教会から修道士たちが出てきた。

 楽しそうにおしゃべりしながら歩いている。

 そのなかのひとりの手元から紙が落ちた。

 その修道士は気づいていない。

 僕は慌てて拾った。

 修道士を追いかけ、拾った紙を差しだす。

 そのとき、紙に描かれていたものが目に飛びこんできた。


 四本の横線、記号、文字——。


 僕は目を奪われた。

 修道士に紙を差しだしたまま、紙に描かれたものを見続ける。

「うん? あっ、拾ってくれたのか」

 修道士が僕に気づき、落とした紙を受け取った。

「リコ。なにやってるんだ、行くぞ」

 別の修道士が紙を落とした修道士——リコを呼んでいる。

「ああ、いま行く」

 リコが返事をし、歩きだす。


 待って。それはなに?

 とっさに僕はリコの腕をつかんだ。

 知りたかった、紙に描かれたものの正体を——。


「なんだ?」

 リコは不思議そうな顔をしている。

『それはなに?』

 伝わってくれと念じながら、必死に紙を指差す。

「これがどうかしたのか?」

『それはなに?』

 疑問を伝えようと僕は大袈裟おおげさに首を傾げてみせる。

「これがなにかって?」

『そう!』

 僕は大きくうなずく。

「ネウマを見るのは初めてか?」


 ネウマ譜——。

 なんだ、それは?

 聞いたことがあるような、ないような……。

 ない。


『知らない』

 首を縦に振った。

 すると、リコが僕の目線に合わせるようにしてしゃがみこんだ。

 紙を僕に手渡し、見るように促す。

「これはネウマ譜。簡単に説明すると、聖歌を修道士たちに伝えるものだ」


 聖歌を伝えるもの——。

 それは現代でいうところの楽譜ではないだろうか。

 この世界に来てから、一度も楽譜を見ていない。

 転生するまでは、見ない日はないくらい目にしてきた。

 ときには五線譜を見ただけで吐き気がしたこともあったけど……。

 いまでは懐かしく思える。

 ネウマ譜は五線譜とは違う。

 でも、類似点があるかもしれない。

 音楽である以上、きっとある。

 好奇心が騒ぎだす。


 今日、僕はふたつのものに目と心を奪われた。

 アリア。

 ネウマ譜。

 異世界に来て久々に感じる幸福感だった。 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る