だから僕はロックフェス参戦を辞めた
人間を陰と陽の二種類に分けるとしたら、僕は典型的な「陰」の者に属するのだが、ロックフェスという「陽キャ(「陽」の人間特性を有する根が明るい人々の俗称。陰キャの対義語)の集い」みたいなイベントに好んで参加していた時期がある。端的には、「好きなアーティストが数多く出演していたから」という理由が一番であって、そこだけ聞くと陽キャと一緒である。でも、僕は陰キャである。勿論、「ロックフェスに参戦できる時点で全く陰キャじゃない」という見方はあるだろう。確かに、「私は陰キャだけど、夜と水が好きだからナイトプールにはよく行く」という主張を見かけたら、僕もさすがに納得できない。でも、ロックフェスだけはぎりぎり陰キャのままの参戦を許していただきたいと考えている。
僕の好きなアーティストがロックフェスに数多く出演していることには、陰キャならではの絡繰りがある。つまり、「売れ線のポップスではなく、マイナーなロックバンドばかり好んで聴くという人間が格好良いのではないか」という、サブカル方向に偏った思考/嗜好により、僕が所謂「ロキノン系」と言われるジャパニーズロックの曲を好んで聴いていたという理由だ。2000年代前半から後半の話である。一般的な知名度があるのは「くるり」とか「アジアンカンフージェネレーション」とか「サンボマスター」とかになるのだろうか。知名度を一切無視して、僕がアルバムを集めていたバンドということであれば、「ART-SCHOOL」「チャットモンチー」「Syrup16g」「フジファブリック」「People in The Box」「凛として時雨」というラインナップになる。ロキノン系と呼ばれるだけあって、彼ら彼女らは、株式会社ロッキング・オンが主催するフェス、すなわち、夏の「ROCK IN JAPAN FESTIVAL」と、年末の「COUNT DOWN JAPAN FESTIVAL」に出演することが多かった。だから、最初からこの二つのフェスには興味があった(なお、そのような理由から、僕にとってのフェスの認識は非常に偏っており、フジロックなど他の有名な音楽フェスの話は一切出てこないのでご了承いただきたい)。
事の発端は、2006年、当時学生だった僕が、7月の終わり頃に「来週、茨城のひたちなかでロックフェスがある」みたいなことを、研究室の後輩(陽キャのイデアみたいな存在で音楽好き)に話したら、面白そうだから行ってみませんか、みたいな話になり、さすがにチケットがとれないだろうと言ったら、平日開催の初日の分ならとれそうです、みたいな返事があり(おそらく、今だったら不可能だ。当時は何とかなったのである)、俺も行きたいです、俺も俺も、みたいに横から入ってきた陽キャ2人の勢いも借り、あっという間に4人で参戦する流れになってしまったのだった。陽キャの数の暴力には勝てない。かくして、真夏の地獄みたいな暑さの中、ロックフェスに初参戦する陰キャという構図が出来上がった。
当日、会場に到着した頃には既に疲れ果てていたが、フェスの良いところは、自分のペースで参加できるというところであり、休憩スペースがふんだんに用意されているし、一番大きなステージは、何万人でも入れる広い草原に設営されていて、後ろの方で座りながら聴くことだってできた。僕はロックバンドのライブの観客として全く適性のない人間で、モッシュアンドダイブなんて絶対にやりたくないのはもちろんのこと、コールアンドレスポンスや、楽曲のサビで手をあげたり手を振ったり、「踊れー!」というボーカルの煽りを受けて飛び跳ねたりといったことさえやりたくない。せっかく生で演奏している人や歌っている人がいるのだから、落ち着いてしっかり見たい。終わった後に盛大な拍手はするけど、基本的に「地蔵」になっている。そういう意味で、ロックフェスはむしろ僕のような人間に向いている。狭いハコで行われるワンマンライブでノリの悪い奴がいると白眼視されるが、ロックフェスはそのアーティストのファンでないけど試しに聴きに来た、みたいな人がいっぱいいるし、後ろの方で大人しくしていれば、前の方で盛り上がっている熱狂的ファンに目障りだと思われることもない。誰も損しない。初参戦のロックフェスでは、「せっかくだから記念に前の方に行ってみましょうよ!」という陽キャの同行者に唆されて、二番目に大きなステージでトリをつとめたマキシマム・ザ・ホルモンのライブで前方に陣取ることとなり、サークルモッシュに巻き込まれて死にそうな思いをした。陰キャは絶対に近づいてはいけない。
夏フェスは楽しかったが、とにかく暑かったし大変な思いもしたので、もう金輪際行くことはないだろうな、と思っていたら、年末に幕張メッセでもフェスが開催されるという。屋内ならさぞ快適だろうし、何より、会場がひたちなかよりアクセスしやすい。自宅から片道1時間以内なのである。こちらの方が良いけど、どうせチケットがとれないだろうと思っていたら、開催日の直前になって、夏フェス同行者だった陽キャの一人が、ヤフオクで四日通し券が原価より安く投げ売りされているのを発見してきた(当時はチケットの転売全盛期であった)。そんなわけで、「COUNT DOWN JAPAN 06/07」に四日間参戦することになった。冬のフェスは案の定、快適だった。ライブで騒ぎたい陽キャ達は、Tシャツ一枚になって汗だくになり、我に返って防寒対策してみたりと大変そうにしていたが、「地蔵」はそれなりの格好で場内を歩き回れば事足りた。リクライニングシートが何百席と並んでいる謎の休憩スペースに横たわって、隣のステージから漏れ聞こえてくるライブの喧騒をバックに転寝をした。雰囲気だけで旨い「フェス飯」に舌鼓を打った。陽キャの同行者と行動を共にしていても、別れて単独で行動していても、楽しいと素直に思えた。そんなイベントは中々貴重である。
年末のフェスは、参加日数の差はあれど、四年連続で参加することになり、僕の恒例行事みたいになった。思い出はいっぱいある。志村正彦が生きていた頃の「フジファブリック」を遠くから眺めた。「Base Ball Bear」のベース関根詩織が年明け最初のステージで巫女装束を着て演奏しているのを見た。2006年には一番小さなステージで演奏していた「凛として時雨」が、次の年には二番目に大きなステージを任されていて感動した。でも、「チャットモンチー」と「凛として時雨」が同時刻に別のステージで演奏していて、どちらかを諦めなくてはいけなくて、運営を呪った。有名になり始める直前の「Perfume」を見た。生前の忌野清志郎のステージを見た。「NIRGILIS」が「交響詩篇エウレカセブン」のオープニングテーマを歌うのを生で聴いた。「くるり」が新作アルバムの曲ばかりで、有名な曲を全然やらずに呆然とした。真夜中、紅白歌合戦の後にやってきた中川翔子が「空色デイズ」を歌ってくれて、本当に感動した(この年の深夜枠は、トータルテンボスと野生爆弾が現れて漫才もやっており、バラエティに富んだ謎のステージだった)。
年によって試行錯誤があったが、1月1日の午前四時みたいなとんでもない時間にライブが終演した年のことを覚えている。JRは終夜運転をしていたので、最寄りの海浜幕張駅に向かった僕は、折良くちょうどやってきた電車に飛び乗った。そして、乗換駅で目の前で電車を逃し、凍えるような寒さの中、ホームで30分立ち尽くした。携帯プレイヤーの音量を上げ、爆音で音楽を流しながら、「家に帰るまでがフェスなのだと、今日のライブのMCで誰かが言っていた。自分はまだロックフェスのただなかにいる。楽しい思いをしている」という幻想に逃げ込みながら耐え続けたあの30分は、生涯忘れ得ない。カイロ代わりにするため、自動販売機でホットの缶コーヒーを買った。僕は普段コーヒーを全く飲まないので、缶コーヒーはロックフェスの思い出と直結している。
五年目、僕はロックフェスに参戦することを辞めた。理由は単純で、僕が就職してしまい、僕とフェスに参加してくれていた陽キャ達が周りからいなくなったからだ。当時、後に妻となる人間と既に交際しており、四年目の年末フェスは彼女も一緒に(一日だけ)参加していたのだが、僕も彼女も「陰」の者であったので、二人だけでロックフェスに参戦しようという話にはならなかった。「陽」の力が足りなかった。以来、フェスにはもう参加していない。
僕は、自分自身が会場ではしゃぐタイプでもないので、ライブ参加そのものに不向きだと思っている。ライブを映像で見るだけで満足してしまっている。好きなアーティスト(最近では「Amazarashi」)のライブDVD、Blu-Rayは極力買うようにしている。コロナ以降、無観客ライブの配信イベントも少なくない。全部オンラインライブで良いんじゃないかと思ったりもする。でも勿論、「現場に行ってこそ」得られる「実体験の強さ」みたいなものも知っている。
フェスでない形式のライブに参加するのは、(地蔵スタイルなので)やっぱり他のファンに申し訳なさがある。僕の好きなアーティストが活動を続けている内に、ロックフェスのあの空気感を、もう一度味わってもよいかな、と少しだけ思う。
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