超迷宮・武蔵野

大上 狼酔

超迷宮・武蔵野

「お前さん、止めなさい。」

「いえ、行きます。武蔵野の雑木林に一度入ってみたかったんですよねー。」

 そんな事を言ったのが確か四時間ほど前だったか。


 独身のサラリーマンである俺は、現代社会に疲れ果ててしまった大衆の一人である。同じ職場に行き、同じデスクワークをし、変わらない食事を摂る。そんなことをしているうちに自殺を考えるようになっていった。大げさな事では無く、ごく自然な流れであったことに今でも驚嘆している。

 流石に己の窮地、生命の危機を感じた俺は仕事を休み、故郷の武蔵野へと舞い戻って来た。そこで自分の人生を見つめ直し、それでも想いが変わらないのなら、いっそこの地で自殺をしようと決めていた。



 吉祥寺駅に着いた時の懐かしさは俺の精神に優しく干渉した。郷愁ノスタルジアに、闇へ向かって歩む足を穏やかに止めて欲しかった。……それでも、やはりそれでも死への欲求が消え去る事はなかった。どうやら一度死を想った人間はそうそう変わらないらしい。武蔵野への愛さえも埋もれてしまったのかもしれない。

 俺の横を学校帰りの二人の女子高校生が通りかかった。楽しそうに話しながら歩いている。あぁ、学生なら変わる環境に期待を抱けるのかもしれないな。未来も輝かしく見えていることだろう。でも、恒久の監獄に囚われた俺はそんな淡いものにもう頼れない。そんな邪道な思考と学生への嫉妬とをスーツの胸ポケットに入れながら、俺は雑木林へと歩いた。


 少し歩けば自然が豊かな雑木林に辿り着く。武蔵野はそういう町だ。夏に差し掛かる時期であったため、緑はより一層生い茂っていた。林の入り口には立ち入り禁止のロープが仰々ぎょうぎょうしく張られている。林に足を踏み入れようとした時、一人の老人が声をかけてきた。

「お前さん、何をしているんだい?」

「え? 林に入ろうとしてました。」

「“入ろうとしてました“じゃないよ。武蔵野の林ってのは『茫漠ぼうばくの野』と言われていてね、一度迷えばそうそう出れるもんじゃないよ。」

「大丈夫ですって。スマホもありますし。」

「だからね――。」

 その後も延々と爺さんの説教が続いた。どのみち自殺しようと決めたのだから迷子など些細な事なんだが。

「とりあえず行きますね。すぐ戻ります。」

「お前さん、止めなさい。」

「いえ、行きます。武蔵野の雑木林に一度入ってみたかったんですよねー。」

「……君、死ぬよ?」

 それは本望だった。



 今俺は迷子になっている。当然の事のように思えるか? いや、何かがおかしい。

 まずスマホが問答無用で圏外だ。これだけでもとんだ災難である。

 そして何よりも特筆すべきは、道が人工的であり格子状になっていることだろう。景色は歩けど歩けど変わることがない。左に曲がり、右に曲がり、延々と道が続くかと思えば意味もない所で道が途切れている。ナイフかなんかで切ったかの如く、林も雑草も無くなっている。


 俺は一心不乱に走り続けた。走り、右に曲がり、走って、左を選び、行き止まりでは引き返した。何回繰り返したことだろう。

 本当に大自然の迷宮としか言えない。武蔵野とはいえ、ここまで広い林があっていいものだろうか。

 常人であれば、脱出して生きて帰ることを心から願うのだろう。しかし俺は自殺を遂行するためにこの迷宮から脱出するのだ。死のために死を避けるというのは随分とおかしな話なのかもしれない。

 その後も、俺は永遠と歩き続けた。いつの間にか月は上り、星空に輝いていた。偶然にも月は満月であった。

 そういえば、学校でも『茫漠の野』を習ったな。限りなく広いさま……、そんな感じの意味だった気がする。それにしても四時間迷って抜け出せない不気味な雑木林とは、いくらなんでも茫漠すぎやしないか。


 ついに迷宮の中で倒れた時、俺は疲労困憊ひろうこんぺいし、もう歩けなくなってきていた。気のせいだろうか。先程から月が全く動いていないような気がする。

 抜け出すことは永遠に不可能と断定したいが、不思議なことに死だけはあり得ないと直感が訴えた。それが俺を骨のずいまで狂わせた。死だけが最後の頼みの綱であり、俺を解放してくれるものであったからである。



 ふふ、ハハハ!! 俺は何を言っているんだ! 直感? そんなもんが何の足しになるんだ! そうだ。そこら辺の木々を掻き分けて脱出しよう。それが出来ねぇならぶっ倒せばいいや!



 先程の疲労はどこへやら、俺は壁となっていた武蔵野の木々に突っ込んだ。体中に若葉がまとわりついてくる。煩わしかったスーツは泥に汚れ、枝と擦れて傷付いた。月も木の葉に顔を隠し、一層暗くなってしまった。

 ほんの10秒ぐらいのことだが、林を掻き分けてただ前進するのは獣のようで気分が良い。


 その刹那の快感の後、視界がいきなり開けた。無論、草木の壁を越えた先に待っていたのは先程と何ら変わりの無い迷宮の道である。おそらく、木をぎ倒して直線に進んだとしても意味が無いのだろう。つまり俺の迷子は確定したことになる。

 迷宮の脱出が出来そうにない。力技もダメ。……その時、人間は何をするだろう。



 ハハハ! 関係ない、関係ない! 他人ひとの事は知ったこっちゃない! どうでもいいや! 俺は死ぬんだ! どうせ誰も理解しちゃくれない。こんな結末を。この超迷宮ラビリンスを!!


 俺はすでにネクタイに手をかけている。


 う~ん。丁度頃合いの木はないだろうか……。ある程度枝の高さがあれば逝けそうだな。背丈も高い訳ではないし。



 ふらつきながら近くの木に近づく。その時の俺は俺ではなかった。迷宮で身体だけでなく心も血迷っている憐れな男であった。



 男は考えた。

(ネクタイだと長さが足りないか?確か会員証はそれなりの長さだった気がするな。)

 男はもう使う事はないであろう紐を木にくくりつけた。木の幹は非常に頑丈であるように見える。

(首吊りのやり方は把握していないが見よう見まねでどうにかなんだろ。)

 準備万端、意外に簡単。もうあの世へと逝ける。

 一息ついてもう一度考えた。

(人生の最期がこうなるのは予想外だがもういいか。迷宮に迷っちまうなんてな。結局ここは何処なんだろうな。これがホントの迷宮入りというやつか。)

 紐の輪の中に首を入れる。すぐ隣の窪みに向かって飛び込めば大丈夫だろう。

 男はそっと窪みへと飛び降りた。


 首が締め付けられる――と思った刹那、男は地面に叩きつけられた。

(木の幹が折れたのか?)

 咄嗟に振り返った時、男は唖然とした。

 木の幹どころか、樹木全体が灰のように崩れ去ってしまったのだ。もはや夢でなければあり得ぬ超常現象だった。

(武蔵野は……、武蔵野は俺を殺してくれなかった。)

 その時男は、はっと我に返った。



 ……俺は何をしているんだ?



 先程の俺は俺でなかったことをここに弁明する。自分でも意識が浮わついてしまい客観的になってしまっていた。

 俺はひたすらに歩き続けた。どんなに歩けど景色が変わらない。やっぱり月は動く気配がない。

 そんな事を心に浮かべ、ふと顔を上げた。先程とは比べ物にならないほどに月は光り輝いている。道標と言わんばかりに煌々と夜空に灯り、その魅力にエロスを感じさせられた。

「綺麗……。」

 武蔵野の月はこれほどまでに綺麗であったか。いや、我が故郷、武蔵野がここまで素晴らしいのか。思い返してみれば分かることである。この感情は幼少期にすでに心に秘められていた。

 ハモニカ横丁の横を通ったときはあの昭和感に心が踊った。居酒屋が並ぶあの景色は東京だからこそと言って良い。ただ武蔵野はこれだけに留まらない。都会の町並みと豊かな自然が共存し、――そのせいで散々な目にあっているが――俺達を楽しませてくれる。初めて井の頭恩賜公園いのかしらおんしこうえんに行った時は嬉々としたものだ。純粋無垢な精神を東京の自然は優しく包み込んだ。


 そうか。俺は好きなのか。時に俺達を楽しませ、時に俺を惑わせるこの町が。


 気付いた時には、月に向かって思いっきり走っていた。目の前に壁が迫れば、月はすっと俺を左右に導く。ただ月を眺めているだけだが、立ち塞がった樹木にぶつかる気がしなかった。この追いかけっこを心ゆくまで堪能したかった。

 生きたい。生きたい。生きていたい!

 走り、左に曲がり、林を駆け、右に曲がった……その時だった。突然、木の看板が目に飛び込んできた。曲がり角で見えなかったとはいえ、心臓に悪すぎる。一体全体どんな暇人が、こんな摩訶不思議な場所に看板を建てるのだろうか。

 看板には霞んでいたが墨のようなものでこう書かれていた。


『武蔵野は数百里の平原にして月光万里玉川に及び富士の嶺を照し無双の勝景』


 思わず声に出して読み上げた瞬間、俺は意識を失った。



「お前さん、大丈夫かー?」

 はっと意識が戻った時、あの老人が物珍しそうにこちらを見ていた。背後にはあの立ち入り禁止のロープがあり、入り口に戻されたことを悟った。太陽はすでに東の空に見えていた。意識が朦朧としてはいたが俺は口を開いた。

「あぁ、戻って来たんですね。」

「そういう事になるね。いやー、まさか戻ってきちまうとはな!」

「……あなたはこの林が何か知っているんですか。」

「一言で言えば“迷宮“だろうな。武蔵野ってのは『数百里の平原』なんだからこんな場所があってもおかしくないさ。あと、あそこは月が良いよなー。万里に及ぶとはよく言ったものよ。」

「あんな場所が他にもあったらたまったもんじゃないです。」

「ガハハ!」

 老人の答え合わせを聞きながら、あの看板を思い返した。勿論、迷宮の事も。そこで俺はある疑問が生まれた。

「それならどうやって俺は迷宮から脱したのでしょうか?」

「そんなもん……決まってるさ。脱出できる条件はただ一つ。」

「?」

 老人がニヤニヤとしている。話に集中しようと俺が固唾を飲んだとき、偶然にも老人の顔が武蔵野の朝日に照らされた。

 老人は胸を拳で叩きながらこう言い放った。



「武蔵野への“愛“、だよ。」




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