第6話 天命

 レティスはマフを見送り、一度意識を失った。そのまま意識はこの世の淵に落とされた気がする。それでもレティスを、もう一度だけこの世に呼び戻す声があった。


 マフは高原に辿り着けたのだろうか。

 地面にうつ伏せに倒れ込んだまま、擦れ行く意識の中で、レティスはそのことだけを考えていた。


 血液を大量に放出したことから、自分がそう長くないことを理解していた。本当ならとっくに死んでいるはずだ。そんなレティスがまだ首の皮一枚繋がれて生きながらえているのは、風神の加護がもたらしてくれる生命力のおかげだろう。

 だからこそ、レティスには残された短い時間で使命を果たさなければいけないと思っていた。


「くそっ。キーンめ」


 レティスはうつ伏せだった体を仰向ける。

 太陽の位置が気を失う前とそう変わらないことから、時間はそれほど経過していないと思われる。


 ゆっくりと上体を起こし、服をたくし上げて患部を目視した。

 純粋な刺傷とも違う。まるで、呪われた生き物が巣食っているような歪さ。刺傷には真っ赤に浮き上がった血管が蛇のように肌を這っていた。


「う……何だっ、これは……」


 レティスは自分の腹の見た目の気持ち悪さに衝撃を隠せなかった。


 刺されたのは短剣のようなものだった。おそらく、何らかの呪い等が付与された魔術具だ。憑依風神の回復力にも引けを取らない呪力、相当高位の魔術が付与された魔術具だろう。

 刺傷は今も広がり続け、五センチほどだった傷は十五センチほどまで伸びている。

 不思議と痛みはない。当初感じた激痛が今は噓のように消えている。死の間際に際限なく放出される脳内物質の影響なのか、加護の力なのか本人にもわからない。


 キーンには千里眼がある。

 すでに居場所は特定されているはずだ。追いつかれるのも時間の問題だ。


「ここで止めなければ……」


 子供の足で森を抜けるには、どんなに早くても半日はかかる。その間、マフが高原に到着するまでの時間を確保する。


「これがおそらく、私の最後の仕事となるだろう」


 レティスは剣を杖代わりにふらふらと立ち上がり、目を閉じて風を感じる。

 付近のあらゆることは風が教えてくれる。風速、風向、風が乗せてくる匂いや塵、それらを風神の超感覚で感じとることができるのだ。


「数は二十……」


 こちらを目指し猛スピードで追いかけてくる小隊らしき気配。おそらく先頭はキーン。その後を十九名の兵士、または魔族が追従している。

 そう遠くはない。ものの数分でここまで辿り着くだろう。


 その時、猛烈な殺気を正面に感じた。

 殺気の主をまだ目視できないが、風が運んでくるのだ。


 突き刺すような突風が吹き——。

 眼前にキーンが立っていた。背後には様々な異様の存在、魔族の群れが追随していた。


 瀕死のレティスをキーンが嘲る。


「レティス……王国一の剣士と呼ばれた貴様が、無様だな……。どうだ、腹の傷は痛むか?」


 返す言葉もない。

 レティスは杖にしていた剣を鞘から抜く。


 呪いのように癒えない傷はやはり、キーンによるものらしい。

 加護は一人一つ。千里眼を持つキーンにその他の加護は与えられないはず。となれば、魔術具の類だろうか。

 そんなことはどうだっていい。やることは一つ。


「かつての友として。これ以上の過ちを繰り返させないために、私がお前を連れていく!」


 憑依風神。

 後先は考えない。考えてどうなることでもない。


 レティスは風に乗る。地面すれすれの低空を滑空し、キーン目掛けて後ろに引いた剣を右斜め上方向に斬り上げた。

 キーンは千里眼でレティスの攻撃を先読みし体をやや後退させた。しかし、重たい一撃がキーンの頬を掠める。レティスの攻撃のあまりの速さに、キーンの脳が体に信号を送ることが間に合わなかった。


 レティスは高く跳躍する。周囲の木々よりも高く飛んだ。

 常人の視力では、突如目の前から消えたように見えただろう。現にキーンが引き連れてきた魔族の誰しもがそう思った。

 キーンの千里眼だけがレティスの居場所を捉えていた。


「上だ! 馬鹿者共!」


 キーンはゾッとした。彼だけが状況を把握していた。一度だけ見たことがあるレティスの最強技。

 連れてきた魔族に指示を出す。


 十九体の魔族が口に魔力を溜める。そしてそれをキーンが指さす方向に、一斉に撃ち放った。黒や赤の光線が混じり合い、極大な魔力の光線となる。

 魔族は自己が持つ魔力を光線や塊として放出することができる。魔力放出咆哮(キオ・バースト)と言い、一体でも強力な光線で、高位の魔族のものとなれば一撃で街を崩壊させる威力を持つ。それが十九体分。直撃すれば塵も残らないだろう。


 レティスは上空で一呼吸置く。


「風神風見鶏」


 最後の一撃。術者の寿命を奪う、レティスの最大最高の技。

 レティスは意識を集中する。


 レティスの背後に風神が顕現する。レティスの体を覆い隠すほどの濃緑色の体躯。鬼のようなおどろおどろしい風貌。全身に目視できる濃縮された風を纏っている。

 風神はレティスの寿命を吸い取っていく。黒い影のような靄がレティスの体内から抜け出て、風神の掌に渦巻いて流れ込む。


「私の残りの寿命、全部くれてやる! だから、力を貸してくれ!」


 レティスは剣を振り下ろす。

 渦巻いた竜巻が雷を伴い、剣を舞う。


 撃ち上がってくる魔力放出咆哮を一瞬で相殺し、勢い止まらぬ竜巻はキーンと背後に控える魔族に命中した。

 大地を抉る轟音が耳を劈く。


 視界が晴れた時、王宮の東に広がる森は地形変えていた。直径一キロメートルほどの大穴ができていた。凹んだ地面は地層が剝き出しになっている。


 キーンや魔族の姿は見えない。おそらく、塵も残らなかったのだろう。


 レティスは天命を終えた。

 微かに残った寿命も時期になくなるだろう。


 力尽きたレティスが落下していく。

 地に着く前に風が落下力を緩衝してくれた。風神が最後に残していった慈悲の風だ。


「姫様……」


 マフは無事高原に辿り着けただろうか。

 残りの命でレティスはそんなことを考えていた。

 他にも追手はいるだろうが、キーンを倒すことができたので憂いはない。彼の千里眼なくして追跡するのは困難だからだ。


 心の中でホッと胸をなでおろすと、そのまま天に登ってしまいそうな気がした。


 全て終わったのだ。


「……くも……」

「——ッ⁉」


 何者かの声が聞こえて、レティスは驚いた。

 何を言ったのかまでは聞き取れなかった。声のする方向を確認することさえ、もうできない。レティスはうつ伏せに横たわったまま、耳に意識を集中させた。


「よくも……。ゆるさ……な……」


 鈍く濁った声は一体どこから。


 石が転がる小さな音。何かが割れた音。

 感覚を研ぎ澄ませ、あらゆる情報を取得する。


「貴様だけは許さない!」


 レティスから少し離れた地面が起伏し割れた。

 はっきりとした声。

 地面から飛び出してきたのはキーンだった。


 レティスは何とか顔を上げて、その姿を視認する。

 キーン……。もはや彼の原型はなく。

 そこには一体の魔族……魔人が立っていた。人皮が捲れあがり、筋肉繊維が剝き出しになっている。右腕に限っては、人のものではない。鋭利な角が肩から突き抜け、胴体と同じくらい腫れ上がり太くなっている。


「キーンなのか……」


 レティスの声は小鳥の囀のように弱弱しい。


「ああ。そうだとも。レティス……褒めてやろう。ここまで私を追い込むとはな。魔王様より賜ったこの新しい力がなければ、私は貴様に敗れていただろう」


 ……魔王。

 魔王は十年前、勇者によって打ち取られたはず。


 右腕を嘗め回すように眺め、キーンは嗤う。

 一頻り嗤い。嗤い疲れると、とぼとぼとレティスに向かって歩いてくる。


「レティス。言い残すことはないか? ……最後の慈悲だ。聞いてやろう!」

「……ひめ——」


 キーンの右腕がレティスの胴体を貫通する。


 唐突な地形変動により吹き荒れていた風が止んだ。


「馬鹿め! やったぞ! 私はレティスに勝ったのだ!」


 何もない荒れた窪地で、キーンの無慈悲な嗤い声だけが永遠に続いた。


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