第3話 風神の加護

 かつて友だった男は魔族に成り下がってしまった。


「お前はそんなことのために……」


 己の保身のため、嫉妬に身を焦がし、国を売ったキーンに、レティスはただただ落胆する。


 キーンに不意打たれた腹部の刺傷に、レティスは加護の力を行使した。仄明るく新緑色に発光し、みるみるうちに傷口が治癒されていく。


「風神の加護か……厄介な」

「キーン……お前が魔族を国に引き込んだのか? ……あまりに不自然だった。十万を超える魔族の軍勢が人知れず国境を越え、突如王都に攻め入るとは」


 レティスはまだ傷口が塞がらない間に立ち上がり、ゆるりと剣を抜く。


「その通り! 一部の国境警備を私の私兵に変更させ、大量の魔族を引き入れたのさ! 奴らにローゼンタールの国土の半分をくれてやる代わりに、私は新ローゼンタール王国の王となるのだ!」

「お前は王の器じゃない!」


 『風神の加護』レティスが持つ風の最上位の加護。新緑色のオーラがレティスの全身を包む。最大限に力を引き上げると、その光で坑道が明るく照らされた。加護の力を最大限まで引き上げると、強大な力を手に入れることができる。しかし、力はその強大さから、己の身さえ焼き尽くす。レティスがこの力を制御できるのは、せいぜい一、二分だ。

 レティスは剣を握る手に力を込めると、疾風の如き速さでキーンを斬りつけた。


「おっと危ない」


 レティスの剣がキーンの脇腹を捉えた時、間一髪のところでキーンは帯刀した細剣を抜き、風を纏ったレティスの剣を受け止めた。

 キーンは知略に長けた軍師とは言え、剣の実力も相当のものだ。ローゼンタール王国ではレティスを除いては、キーンに剣術で勝る者はいないだろう。


「千里眼か」


 キーンの加護『千里眼』千里先の物事を把握することができるという。それはまた、副次的に人智を超えた動体視力を与えた。

 キーンはこの力を用いて、あらゆる攻撃を受け流してきたのだ。


 それにしてもおかしい。

 レティスは動揺を隠せなかった。腹に傷を抱えて動きがいくらか鈍くなっているとは言え、それでも加護の力を乗せた攻撃だ。キーンがこんなにもいともたやすく受け止められる程度の攻撃ではない。

 そもそも腹の傷が癒えない。風神の加護を最大限に引き上げた『憑依風神』時はどんな傷もたちまち塞がってしまう。それなのに、キーンに刺された傷は一向に塞がらない。厳密には治癒しても、直ぐに悪化してしまうような不思議な感覚。


「貴様は今、こう思っているな……なぜこの私が貴様の憑依風神の一撃を受け止められるのか? なぜこの刺傷は癒えないのか? ……と」


 聞く耳を持たず、レティスはもう一撃、二撃と続けるも、いずれもことごとく、それもいともたやすくキーンは受け流す。


 戦いが長引けばレティスは不利になる。後続のキーンの私兵や魔族の追従が、すぐそこまで来ているに違いない。

 しかし、全力の攻撃がたやすく何度も受け止められると、この状況を崩す手立てがレティスにはなかった。

 なにより時間がない。憑依風神を維持し続けられるのも三十秒程度だろう。次の一撃で決めなければ、もう後はない。


 レティスが握る剣の刀身に風が纏う。風が渦を巻き、研ぎ澄まされていく。


「鎌鼬!」


 風を纏った剣を振り落とすと、新緑色の斬撃が吹き荒れながら飛んでいく。それは、キーンの体を捉えることなく——。


「血迷ったか」


 ——キーンの体を越え、マフを覆う透明の檻に直撃した。透明の檻が硝子板のように弾け割れる。

 それこそがレティスの狙い。自分のプライドより、マフの命。王への恩返し。正気を失い、礼節を欠いたキーンに、今さら男の勝負をしてやる義理もない。


 レティスは駆け抜ける。

 マフを抱き抱え、憑依風神の続く限り走り続けた。


「キィーンッ! いつか、必ずお前を殺す——」


 レティスの怒号が坑道に響く。

 あっけに取られたキーンは嗤った。レティスは恐れをなして戦いから逃げたのだと。



#



 レティスは憑依風神の勢いのまま脱出口の井戸を飛び抜け、王宮東に続く森の中をマフに手を引かれ、ゆっくりと歩いていた。


「レティス、本当に大丈夫なの?」


 深刻なマフの視線は、真っ赤に染まったレティスの腹部に釘付けられている。

 憑依風神を解除したことで自然治癒の効果はなくなり、傷口は一歩、一歩、歩く度に広がっていった。大量に血液は流れ出て、徐々にレティスの意識は朦朧していく。


「はい。力を使い過ぎた弊害で、少し疲れただけです……。心配は無用です。姫様も私のご存知でしょう? 傷は……すでに塞がっています」

「ええ……。さすがローゼンタールが誇る騎士ですわ……」


 マフの声には力がない。自分が勝手に単独行動で王宮に戻ろうとした結果がこのザマだ。責任という重みはマフの心を押し潰す。

 マフが責任を感じていることを察したレティスは、何も言わず黙って笑いかけた。マフも顔を引き攣らせ苦い笑いを返してきた。


「ごめんなさい。もうしません……」

「そうしていただけますと幸いです。先に進みましょう」

「うん」


 一度森に入れば、この広大な森の中でレティスを追うのは、砂漠で金を探すくらい難しい。ただ一人キーンを除いては。

 キーンの千里眼を持ってすれば、そう難しいことではないだろう。


 キーンが追って来るなら、手負いだろうが何だろうがレティスが迎え撃つしかない。追って来ないにしても、腹部を呪いのように蝕む刺傷が塞がるとは限らない。

 レティスの歩はマフよりも遅く、薄れゆく意識の中で自分が足を引っ張っているということは理解していた。


「姫様……」


 レティスは足を止める。

 もう立っていることすらままならない。一瞬でも気を抜けば、その場に倒れ込んでしまいそうだ。


「どうしたの?」


 レティスの手を引き進んでいたマフが振り返って訝しげに首を傾げる。


「このまま東に進み、国境付近の高原を目指してください」


 ランゾからの最後の指令。マフを無事に国境付近の高原連れて行くということ。

 その高原に何があるのかは知らされていない。しかし、王が信頼する何かがそこにあるのだ。レティスに疑う余地はなかった。できることなら自分もお供したかった。


「レティスは?」

「私も直ぐに後を追います。憑依風神の疲れが出て、少し休みたいのです」

「それなら私も一緒に休むわ!」


 マフの表情に不安の色が落ちる。


「いけません。時間がない……。……それに、王の指令がまだ残っております」

「なら、私も手伝うわ!」

「いえ、王は私を信頼し、指令を与えてくださったのです。姫様……私に格好をつけさせてください」

「でも……」


 一人で先に進むのが怖いのか、それともレティスに関して何か感じ取ったのかはわからない。両方かもしれないし、どちらでもないかもしれない。


「大丈夫です。姫様は立派なお方です。一人でもきっとたどり着けます」

「私、怖いわ……」

「では、恐れながら私から姫様へのお願いです。先に森を抜け、高原から救援を呼んできてください。きっとそこに、私たちの力になってくれる方がいらっしゃるはずです」


 不安に満ちたマフの表情が引き締まる。彼女は決心したのだ。それは、先程の失態を払拭しようとする彼女の生真面目さがさせた決心か、今のレティスにそれを考える力は残っていなかった。


「私、きっと仲間を連れて助けに来るわ! だから、レティスの任務を頑張って!」


 可愛らしい鼻息を立てたマフは、小さい拳を握りしめている。


「その言葉が聞けて、幸せでございます」

「何度だって行ってあげるわよ! じゃあ、お互い頑張りましょう!」


 そう言い残して、マフは木々の影に消えて行った。

 その小さな背中を最後まで見送って、レティスは糸が切れた傀儡人形のように、その場に崩れ落ちた。


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