16.その朝は遅れてやってくる《お題:朝の曲》
ぴ、とリモコンのボタンを押した。オルゴールの音が流れ出すと共に、病院の朝は始まる。
待合室にモップを掛け、金庫からレジにお金を移したら、開院までに急いで事務の仕事をしておく。
届いた手紙を整理したり、請求書を書いたり、備品を補充したり。あれもこれもと思うと、あっという間に時間が過ぎていくのが常だった。
テレビからNHKのニュースが流れている。隣のカルテ庫から笑い声がした。朝は手持ち無沙汰になりがちな看護師が井戸端会議をしているようだった。
「あ」
隣でカルテの不備を修正していた後輩が、間の抜けた声を上げた。パソコンを見ると、画面の時計が開院時間を表示している。
「時間なんで玄関開けまーす」
私はぱたぱたとサンダルの音を響かせながら、玄関のロールカーテンを開ける。
「あれ?」
外を見ると、誰もいない。
「まだ誰も来てないみたいです」
「珍しいですねぇ。まだ請求書書き終わってないし、ラッキー」
事務歴8年のベテランパートさんが、顔を上げずに言う。
手元のボールペンは、絶えず走らせたままだ。
私はポケットからやることリストを取り出し、他の仕事に移る。小さいクリニックだが、いつもなら、玄関を開けた瞬間から患者がなだれ込んできて、受付が慌ただしくなるのが茶飯事だ。それに比べて楽なのは確かだけど、何だか落ち着かない。
「ねえ、音鳴ってなくない?」
看護師が顔を覗かせる。ふと気づけば、さっきまで流れていたオルゴールが止まっていた。
30分ほど経っても、誰ひとりとして患者は来ない。
最初は書類とか、早急に進めないといけない仕事を黙々と片付けていったけれど、それが終わると徐々に普段しないような仕事に手をつけ出した。
棚いっぱいに詰まった紙カルテの整理とか、印鑑の汚れたインク部分を拭き取ったりとか、プリンターのインクの交換とか。
何だか季節外れの大掃除を始めた気分だった。全部必要なこととはいえ、仕事をしてる気がしなくなってくる。
オルゴールは止まったままだ。ビデオデッキを触ってみたけど、原因が分からないまま音が止まってしまっている。仕方ないので、後々院長先生にお任せすることにした。
無音の中で作業をしていると、病院の中の時間が止まってしまったような気がする。大きな窓からは燦々と朝日が差し込んでるのに、世界からこの建物が切り取られてしまったような心地だ。
「あら、まあ」
少ししゃがれた、でも落ち着いた女性の声。常連の老婦人だった。
「今日はどうしちゃったの? 駐車場も車が停まってないから主人が驚いてたわ」
「おはようございます。今日は朝からこんな感じで」
後輩が慌てて受付に戻る。誰も居なかったとはいえ、受付が空っぽな病院は流石にまずかった。
「早く済みそうで良かったわ。……あら、まあ」
老婦人が鞄を荒々しく弄る。嫌な予感がする。
「診察券と保険証、車に置いてきちゃったわ」
後輩が途方に暮れた顔で振り返った。カルテを見なくても覚えている。ここ3回連続の保険証忘れだ。
「でしたら、今日は自費になります。医療費10割負担です……」
「あらぁ……」
老婦人は、頬に手を当てていた。
「さっきまで駐車場ガラガラだったから来たのに、今になって混んで来たねえ」
「ええ、まあ」
困惑した様子のおじさんに、曖昧に返す。
常連の老婦人を皮切りに、それまで静かだった院内はあっという間に患者で埋まっていた。
かなり大がかりな作業にまで手をつけ出していたパートは肩を落としている。中途半端に放置された作業の跡は、キリのいい所まで終えるだけでも大分かかりそうだった。
いつの間にか、オルゴールの音も再び鳴り出している。
病院の朝は、いつもより遅れて始まっている。
「おはようございます!」
新たに入ってきた患者に向けて、私はお仕事用の笑顔を向けたのだった。
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