西暦2017年

150秒、つまりは2分30秒まえ

 


 初めての21世紀への時間遡行トリップに、僕が選んだのは2017年だった。

 神田神保町、東京、日本。

 3月26日。

 翌27日に掛けて冷たい雨の続く、日曜日。


 どうしてその年の、その場所にしたのかと問われても、猫が顔を洗うと雨が降るのは本当かと尋ねられたときと同じくらいの答えしか僕には出来ないだろう。つまりは、それを聞いたところで根拠は曖昧なうえ、長いばかりでたいした話じゃないってことだ。

 だって、そうだろう?

 時を超え、誰とも交わることもない僕の存在は、特定の人の目にしか映ることのない不確かな彷徨う亡霊のようなものだ。ならば擦れ違うだけの亡霊の戯言に、いちいち耳を傾ける必要も意味もない。


 とはいえこんな僕にも、傘を持ち上げた途端、開かれた視界に飛び込んで来たものに目を奪われてしまう、あまりにも鮮烈な一瞬がある。それは時代や場所に関係なく、いつだって不意を突いて僕の胸を打つ。


 あるときは22世紀初頭のウィンダミアの湖上。冬に向かう鉛色の空に低く濃く垂れ込める雲の下、突き出した桟橋に立ち、水面に落ちる硝子のような雨粒で描かれた無数の波紋が、不意に雲間から差す微かな陽光で銀色に煌めく様を目にしたとき。

 また、あるときは23世紀末、第三次世界大戦によって基壇と4本の尖塔だけを残し、瓦解したタージ・マハルの墓廟が、かつては白く美しい大理石で出来たドーム状だったことを偲ぶように柔らかく朧に霞む姿を雨の向こうに見たとき。


 美しいものは、すべからく哀愁を伴う。

 雨は、時の流す涙となって僕の頬をも、しとどに濡らすのだ。

  

 そして、21世紀のこのとき。

 目蓋を持ち上げた僕の瞳に映し出されたのは、闇く翳った路地で、薄灰に染まる空から降りる波打つ透明なヴェールの中、傘も差さずに立つ、ブラックのスーツにブラックのタイを締めた、ある人の姿だった。


 ――それが誰かを偲ぶための服であるのを、このときの僕は、まだ知らない。


 傘も差さずこの場所に、どのくらい立ち尽くしていたというのだろう。

 髪も、服も、たっぷりと雨水を含み、中に着たシャツまでが身体に張り付き、しどけなく緩めたネクタイの結び目から覗く肌は、濡れて白く光っていた。

 その人が身じろぎもせず、ひたと見据える先にあるのは何だろうと視線を辿れば、閉じた店の鎧戸に貼られている一枚の紙のようだ。

 だが、その目は映し出されているものをであるのは離れていても分かり過ぎるほどに、分かった。

 

 僕が時と融合する亡霊であるのなら、その人は、時から切り離されてしまっているようだと思いながら、美しく哀憫を誘う色のないその横顔を見ていた。

 

 その人の黒いスーツの袖口から次々に滴り落ちる透明な雫が、かなりの速さで落下し、黒い靴の足元で跳ねる。

 真っ直ぐな線を描く涙滴に目を奪われ、地面をたたくやけに大きなその音に耳を澄ませていた僕は、雨がその人を溶かしてしまうのではないかと不安を覚える頃になって、それが自身の心臓の音だと気づき、思わず胸を押さえた。


 水が地面をたたく音ではない。僕を閉じ込めている傘が、耳に届けていたのは、自身の微かな呼気と激しい心音だった。

 神経の昂りを自覚すると同時に、ふらふらと吸い寄せられるようにして、僕は、その人に近寄ると知らず傘を差し掛けている自分に驚く。


 ――マシンを誰かと共有したり貸してはならない。


 タイムトラベルの規約のひとつを、こうも簡単に違反することになるとは思ってもいなかった。

 これだけ濡れているなら、いまさら傘なんて必要もないのは分かりきっている。

 それなのに……。

 僕は、意味のないことをしている自分が信じられなかった。

 触れず離れていても、意識せずにいられない片側から、隣に並び立つ人の体温を感じて息苦しさを覚える。

 

「……ばあさんが、死んだんだ」


 心地よい声音が、僕の鼓膜を震わせた。

 誰に向かって話しているのか辺りを見回し、少し遅れて僕だと気づく。

 

「遠い親戚っても実際には俺とは血の繋がりなんかないのに、母親に捨てられた俺を引き取って育ててくれたお人好しでさ」


 傘が、小さな音を集める。

 その人の微かな息継ぎが、僕の睫毛を震わせた。


「あと少し、あと少しだった。

 ……本になるんだ。

 俺が書いた小説が、本に。ずっと内緒にしてて、さ。それを手渡しながら、言ってやるつもりだったんだ。俺の本は、ここじゃ売れねえなあって。そんで、笑いながら言い返されるんだ。

 アラ心配しなくても、すぐに売るようになるわよ、ってさ。

 酷いよな。

 あと少しだけで良かったんだ。

 ……ホント、ひでぇわ。

 あーなんで見ず知らずの奴に、俺こんなこと喋ってんのかなって、ははッ。知らねえから良いのか」


 彼の目線を辿る。

 鎧戸に貼られた紙。中央に忌中と書かれた文字、その周りを囲む太い黒枠。

 視線を上げれば、そこに【綴堂つづりどう古書店】という看板。

 僕は、このとき彼の言っていることの半分も分かっていなかった。彼が何をもって、と言っているのかも。


 何度も時間遡行を繰り返していると、『時』というものの曖昧さに眩暈を覚えると同時に、それを実に疎ましいものだと思うようになる。

 いや、違う。

 別の見方をすれば、過去の世界には実在することが決してない僕という存在が、亡霊でしかない僕が、疎ましいものに他ならない。


 ふっと、その人が僕に顔向けた。

 僅かな動作の後、熱と共に立ち昇る雨の匂いに混じるその人の肌の匂いを嗅ぎ分けた瞬間、情欲を催した自分に愕然とする。 




 それが、僕とつづりの出会いだった。



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