100秒、つまりは1分と40秒まえ ②

 

 雉小橋通りからサクラホテルに向かう道に入って直ぐとも言える場所に、それはある。気をつけていないと素通りしてしまうほど、間口の狭い、小さな古書店。

 僕が、何度も通う場所。

 傘を閉じ、雨を払って顔を上げた先の文字を、見つめた。


綴堂つづりどう古書店】

 

 そう……は、文字を読んでいるというよりも、音を聴いているのに近いのかもしれない。

 脳の可塑性を高めるために、脳内に埋め込まれたマイクロチップは、多重言語にも対応するからである。

 文字を判別する視覚処理を行うと同時に、言語中枢にある言語処理モジュールを強制的に動かし、別の記号に置き換えられた文字言語は、瞬時に音に変わる。

 そうやって、見慣れない文字が脳内で音に変わった時、まるで黙読をしている時のように、僕にとって馴染みあるものとして頭の中に聴こえるのだった。


 古色蒼然とした木製の看板に、控えめな白い草書体で書かれている消えかけた店名。

 その文字の形を暫く眺めた後、開け放したままのガラス扉を潜る。

 店の中の壁は隙間なく本棚で埋まり、入り切らない本が棚の上、天井付近まで積み上げられていた。さらに並列する本棚が幅を利かせるただでさえ狭い店内は、地面にも雑多に置かれた本がうずたかく積もり、擦れ違うのもやっとの複雑に入り組んだ迷路のようだ。


 その細い隙間を縫うように僕は、奥へと歩みを進める。

 年月を経た、紙とインクの相混じる土臭い独特な甘たるい香りが、僕の身体に染み込む雨の匂いを上書きするように、纏わりつく。

 耳を澄ませば静かな店内には、ぱたぱたと柔らかく控えめな音が響いていた。

 あの人が、キーボードを打つ音だ。

 姿など見えなくても、それだけで僕の心臓は狂ったように騒ぎ始める。

 それは恐怖、というのに似ている。

 あるいは焦燥、とも。

 ただ、あの人が居るのだと思うだけで空気が薄くなり、息苦しさを覚える。実際に姿を目にすれば、胸が、きりきりと痛む。

 その理由が何であるのか、この感情が何であるのか、僕には分からない。


 積み重なる本が倒れないように手を置き、避けた先、店のいちばん奥に、飴色になった木製のレジカウンターを机にしてノート型のパソコンを広げているその姿が目に入った。


 柔らかに緩く癖をつけた、耳を半分隠す長めレングスのセンターパートの髪型は、すっと鼻筋の通った甘めの顔によく似合う。

 外見的年齢は、僕より十歳ほど歳上に見えるその人は、僕のことを大学生だと勘違いしていた。実際には、この時代では同い年の二十八歳であると、僕だけが知っている。

 時折、画面に向かって睨むように目を細め、マスクを顎にずらし覗く唇を長い指でなぞるのは、原稿の執筆中、悩んでいるときに見られる無意識の行動だった。


 小説家、摺木するき つづり


 彼の目に映る世界が、誰も目にすることのない彼の頭の中に浮かぶ世界が、文字に変わり文章になる不思議に、僕は恐怖を感じ魅せられているのだろうか。

 彼の目が僕を認め、笑いかける柔らかな表情に、なぜ僕は焦燥感を覚えるのだろう。


 分からないからこそ、答えを知りたい。

 答えを探して僕は、彼を見つめずにはいられない。

 だから、会いに行くのだ。

 その為に、何度でも時空を超える。

 答えを、求めて。

 何度でも。

 会わずに、いられない。



 僕が、この古書店に何度も足を運ぶようになるのは、21世紀の最初の時間遡行トリップに2017年という時代のこの場所を、気紛れで選んだことから始まる。

 

 つづりと初めて会ったのもこのときだ。


 古書街であるなら、僕の依頼人が求めている本が見つけやすいと思ったことと、自分のルーツがある日本を訪れてみたいと考えていた為だ。


 僕たちは、その年その月の新刊本を未来へ持ち帰ることが出来ない。

 誰かがを、未来へ持ち帰ることは、違反とされる歴史改変に抵触する恐れがあるからである。

 先の確定していない真っ新なものを、未来へ移送することは出来ないのだ。

 ただそれだけのことで、歴史が変わるかどうか実のところは、分からない。おそらく変わることはないだろう。

 また、天災や戦争で失われた絵画などの歴史的文化財を過去から未来へ移送するのも不可能だ。それをもとに複製を作ることは可能だが、蘇らせたり、失われた事実を無かったことには出来ないのは、歴史的事実を変えることになるうえ、それが唯一無二のものであるからに他ならない。

 それでも絶滅種や枯渇した資源を未来へ移送することが可能なのは、未来へ移送したというが創られるだけで、それ等が『絶滅した』『枯渇した』歴史的事実を変えたりはしないからだ。


 一方で、時代を超え広く売り物とされている誰が手にしてもよい古書に於いては、時間軸の中で揺らぎが紛れ込んだとして片付けることが出来た。


 

「いらっしゃ……いま……って、なんだ那由他ナユタか。道理で」


「どうりでって、何ですか?」


「ははッ。いや、道理で雨の匂いがすると思ったってやつ。雨が、お前を連れて来るのか、お前が雨を連れて来るのか……どっちなんだろうな?」 


「……僕が『雨男』な、だけですよ」


「だろうなって言わせんな。大学は? 今はリモートだっけ?」


「今日は日曜日です」 


「ああ、休みか」


 襤褸ボロを出さないためにも質問されて分からないことは、無理に答えたり、聞き返したり意味を尋ねたりしてはいけない。僕が知っている事実だけを述べれば良いのだ。

 

 そうは言っても、先ほどはつい意味を尋ねる失敗――『どうりでって、?』――をしてしまったのだが、気づかれた様子はなかった。


 と言うのも、この時代の人たちは、精神感応力テレパシーを試しているとでもいうように、言葉で明言していない読み取れる筈のない言外にあるものを、その人にとって都合良く解釈することに慣れているからである。

 そのことを『言外の意味を汲み取る』と言うそうだが、ちからするとそんなものは全く意味を成さない。

 突然『なあ、分かるだろ?』なんて言われても、言葉にしない相手の気持ちなんて当然分かるはずはないのだ。

 

 ところで僕は自分が何語を、どんな言葉を、話しているのか知らない。

 分からない、と言った方が適切だろう。


 耳から入った未知の言葉も、目で見た文字と同様に、脳内に埋め込まれたシステムによって記号に置き換えられ再構築される。

 言葉である音声言語が音として聴神経を経て聴覚中枢に辿り着くや否や、脳は瞬く間にその変換処理を終え、言葉の意味を理解し僕が返答のため口を開く頃には、発言の元となる文章の構成をも済ませ、発語器官の筋肉に伝達し、何ら滞りなく極自然な様子で僕は、未知の言葉を声で発していることになるからだ。


 つまり、僕の口から発するのは、あくまでも聞いている相手にとっての意味を持つ言葉であるが、僕にとっては音にしか過ぎない。

 何故なら僕がしているのは、いつだって脳が記号に変換した未知の言語を読み取った後で、その言葉記号を音符の書かれた譜面のように、強制的に読まされ声で音楽を奏でているようなものだからである。

 


「今日も、お勧めの本を教えてくれますか?」


「いいよ……そうだな。ジョナサン・キャロルの短編集は、どうだ? ほら、丁度ここにあるって、さっきまで俺が読んでたからなんだけど。まずはこの短編集を読んで、気に入ったら長編を読めばいい。前にも言ったように好きかどうかは、読めば分かるよ」


 聴神経を経て変換処理された彼の言葉は、声は、美しい音楽のように心地く、僕の頭の中に響く。

 もしかしたら、は既に言葉としての特定の音声言語を持たないのかもしれない。


 もしも、なんて有り得ないと分かっているが……もし仮に、彼が僕の言葉を耳にする機会があったとき、それが彼にとっても願わくば、甘美な音楽のようなものであれば良いと思う。


つづりさんは、好きなんですか?」


「俺? うん、好きだな」


 差し出された文庫本を受け取る為に、手を伸ばす。


「あれ? 手、怪我してるぞ」


 言われて視線を落とせば、親指の下の皮膚が裂け、血が固まっている。

 慌てて引っ込めようとした僕の手首を、つづりの手が掴んだ。

 びくり、と身体を動かした僕に構うこともなく、つづりのもう片方の手が伸ばされ、唇に触れていたその長い指が、傷の上の固まる血を優しくなぞった瞬間――


 僕の身体に、震えが走った。

 




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