エレベータの女

 この話を最初に聞いたのも、確かこの部屋だったはずです。 話してくれたのはよく知らない先輩でした。あのときはここでゼミのメンバーを集めて飲み会をしていたのですが、その内の誰かに誘われて飛び入りしてきた人らしい、と後で聞きました。

 そもそものきっかけは確か、蒸し暑い夏の夜だったこともあり、怪談話で涼を取ろうって話になったのだったか。とにかくその時に、この話を聞いたんです。



 その先輩――仮にKさんとします――は、研究熱心な学生で、みんな帰った後も残って作業をすることがよくある人でした。日付が変わってから研究室を後にすることもしょっちゅうだったらしいですね。


 さて、話というのは、ある日の深夜のこと。研究室に残っていたKさんが、コンビニへ買い出しに行こうとエレベータへ向かったところから始まります。

 彼がエレベータの前に着いたとき、現在位置は8階となっていました。エレベータの乗り込む部分はかごと言うそうですが、それが1階にないということは、こんな深夜になっても残って作業している人が自分以外にいるんだな、と思ったそうです。

 彼の研究室は6階にあるため、ほどなくして到着したエレベータに乗り込み、1階へと降ります。そのエレベータはどうも古臭いものらしく、上下動の速度は遅く、人がたくさん載ると変な音がするという噂もあるほどです。とはいえ、そのときは彼一人を載せるだけであり、快調に降っていったエレベータはやがて終点へたどり着きました。

 ドアが開いた先は非常に暗くなっていました。ただこれは当たり前で、節電のため、夜間の照明は人が通らない限り点灯しないことを彼はよく知っていました。

 だからKさんは気にも留めず暗がりに足を踏み出し、少し先に見えている外へつながるドアを目指します。


 そのとき、でした。暗いままの視界の端に、何かをとらえたのは。

 エレベータのかごから一歩出たところ、思わず彼は振り向きました。しかし、視線の先にはただエレベータの操作ボタンがあるのみで、異常なものは何もありませんでした。いえ、誰もいなかったというのが正しいでしょうか。彼の視界にほんの数舜前映りこんでいたのは、背の高い女性のように見えました。

 そのまま少し立ち止まっていた彼でしたが、照明が自動で点灯したことで再起動します。疲れているのだろうかと思いながら、明るい廊下を心なしか早い歩調で進みます。

 先ほど見たように思った女性は、ひどく妙な風体に思えました。ゆったりとした白いワンピースをまとい、お腹の前で組まれた腕も異様に白く、そして何よりも不思議に、今思うと不気味に思えたのは、その女性が頭を大きく後ろにそらして、真上を凝視しているように見えたことでした。

 ぞわり、とした感覚が不意に背中を撫ぜます。彼はふと振り返りたい衝動に襲われたといいます。そうすべきではないと心のどこかでは思っているのに、体はそれに反してゆっくりと動きました。

 首だけで後ろを向き、見えたのは何の変哲もないエレベータの入り口でした。もちろん、誰かがいることもありません。

 彼はちょっとほっとした心持ちを取り戻し、改めてエントランスの夜間外出用扉を開け、外に出ました。



 さて、この話はまだ続きます。

 Kさんはコンビニで買い出しを済ませて研究棟に戻り、またエレベータの前に立ちます。表示は1階のままだったので、彼が使ってから誰もエレベータを利用しなかったことは明らかでした。

 上向きのボタンを押してから数秒もたたずしてドアは開き、彼をかごの中に招き入れます。

 手元のスマホを弄りながら乗り込んだ彼の頭からは、行きがけにあった出来事はすっかり消えていました。だからだったのだろうと、彼は言っていました。その前のものとは比べようもない違和感にすぐ気づかなかったのは、そのためだったのだと。


 そのエレベータは、かごの中に鏡を貼っていました。ドアがある側面のちょうど反対側にです。それはかごに乗り込む際、背後にまだ乗り込む人がいないか確かめることに一役買っていました。そしてもちろん、その場でもその役割は果たされたのです。

 Kさんがかごに乗り込み、振り返ってボタンを押そうとしたとき、違和感に気づきました。

 それは鏡の中にいました。女性のようでした。長く伸ばした黒髪を持ち、白いワンピースを身に着け、足には何も身に着けていませんでした。

 そして相変わらず妙なのは、彼女の首から上でした。真っ白なおとがいを見せつけるように、彼女は真上を向いていました。それだから、彼女の表情はもちろん、人相を確認することもできませんでした。

 そんな女性が、今後ろからエレベータに乗り込んでくるのを、Kさんは鏡越しに見たのです。

 もちろん驚いたKさんは、ひゅっと浅く息を吸い込み、そして同時に、体が全く動かなくなっていることに気づきます。

 振り返りたい。目をそらしたい。このエレベータから今すぐ逃れたい。どの欲求も叶うことはありませんでした。ぴくりともしない体に焦りを覚えているうちに、エレベータは静かに閉まりました。中にKさんと、その女性を入れたままで、です。


 ひゅうひゅうと、自分の息遣いの音がやたら大きく聞こえます。感覚が鋭敏になっているようでした。ドアが閉まったからか、かごの中が妙なにおいで満ちていることにも意識が向きます。それが何なのかすぐには思い当たりませんでしたが、不快なことには違いありませんでした。

 未だドアから背を向けたまま、鏡を向いた状態でいたKさんは、女性が動きを見せたことに気づきました。

 彼女はKさんの背後に立っている状態から、一転して背を向けると、乗降口脇の操作ボタンの前に立ち、そして。


「……こ?」


 ささやくような、かすれた声がKさんの元へ届きました。女性が何か言っているようでしたが、うまく聞き取ることができません。体も未だに動かないままです。

 何か、良くないことが起こる。そういう予感が、いや確信が彼の心に湧いたといいます。なんとかしなければ。なんとかして、この場から逃れなければ。それができなかったら……。焦燥感、危機感、そして恐怖がないまぜになって彼を襲っていました。


「……どこ?」


 今度は、さっきよりはっきり聞こえました。それでも、意味を理解することができず、余計に焦燥は募りました。

 どこ、だって? 何のことだ? 俺に話しかけているのか?

 様々な疑問が浮かびますが、問いただそうにも、口すら十分に動きません。のども痙攣するばかりで、「あ」とも「お」ともつかない声を発するのが精一杯でした。


 やがて、ピッという音が聞こえました。ボタンを押したようだとすぐ気づきました。

 ややあってKさんは足元の床から圧を感じ始めます。エレベータが上昇を始めたのです。


 このままじゃまずい、という感覚が彼にはありました。

 なんとか動かせる眼球を、必死にきょろきょろさせたところ、自身の右側にある壁のボタン群が目に入ります。そのうちの一つ、8階が点灯していることにも当然気づきました。彼女は8階、すなわち最上階を目指しているようです。

 彼女にこのまま着いて行ってはいけない。逃げなければ。このとき彼はとにかくそう思っていたそうです。


「どこ……?」


 また彼女が呟きました。三度聞いて、彼はその言葉にひどく悲しげな響きがあるようにも思えてきました。

 しかし、状況は無情にも進んでいました。普段よりもことさらゆっくりに感じる速度で、エレベータは上昇していきました。

 2階を過ぎ、3階を過ぎました。その間、Kさんは必死になって手を動かしていました。ほんの少しずつなら動くようになってきたのを幸いに、彼は女性と反対側にあるボタンの方へ手を伸ばしています。

 4階が過ぎたとき、もう少しで5階のボタンに手が届きそうになっていました。しかし、努力もむなしくそれを押し込むより前に表示が5階に変わってしまいます。

 あきらめず、彼はその隣にある6階に手を伸ばしました。未だに動くのは肩から先のみ。指先を壁に突き立てて、這うように、手繰り寄せるようにして6階のボタンを目指す。

 表示が6階に変わりました。また間に合わなかった。そう絶望しそうになるも、8階にたどり着くまでに残っているのは、もう7階のみです。


 また、彼女が「どこ?」と問うてきます。まるで「どこへ行くのか」と問い詰められているように、彼は感じました。

 ちらり、と彼はその時また鏡に映る女性を見ました。手を伸ばすにしたがって、だんだんと体も動くようになっていたからか、角度が変わり女性の横顔が見えるようになっていました。

 彼女の口元が目に入りました。口端は赤黒く汚れていて、それでもなお、少しだけ吊り上がっているのが分かりました。彼女は笑っているのです。

 恐怖のままに、最後の力を振り絞って彼は手を伸ばし、目で確認することもなく指の先が捉えたボタンを押し込みます。

 すると、彼の体にかかる力が軽くなった感覚を覚えました。減速しているのです。同時に、動かなかった体もほぐれていくように思えました。

 チン、と音がして。自動ドアが開きました。彼はやっと動くようになった体で、這うようにしながらドアを潜り抜け、エレベータの外に出ます。

 膝立ちになったまま、一つ息をついて手を握りこんだり伸ばしたりします。どうやら体は普段通り動くようになったようでした。


 背後から音がしました。ゴトン、という普段エレベータから聞かない音でした。Kさんは、駄目だと分かっているのにも関わらず、振り返ってみてみました。

 エレベータは、なぜかドアを開いたままで、動き出していました。ドアの脇には変わらず女性が立っていて、その足先が見えなくなり、服の裾が見えなくなり――そう、エレベータは今、下へ向かっていました。

 じっと、魅入られたようにその光景をKさんは見続けてしまったと言います。女性の腰まで消え、そして顔が床の下へと飲み込まれる、その刹那。彼はついに、ずっと上を見続けていた彼女の素顔を目撃しました。

 口から血の泡を吹き、鼻はひしゃげ、頭の形もどうやらおかしい。それでもなお、力のある血走った目がこちらを見つめていました。そのまま彼女が口を開きかけたとき、彼女の姿は階下へと消えていきました。



 さて、そのあとKさんはしばらくその場を動くことができないまま、エレベータ前にあったソファで少し眠り、朝日を確認してから6階に降りたそうです。それはもちろん、階段で。

 それから数日、あの時の体験は何だったのだろうとKさんが思っていたころ、最近この学校で飛び降り自殺を図った学生がいたらしいぞと噂に聞いたそうです。何やらその学生は、大学のある研究棟の屋上から、その身を投げたのだとか。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

短編集 アジキフータロー @mosasa

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る