高校二年生 秋

第33話

 今日も僕は病室に足を運んでいる。九月に入り、学校が始まったせいで毎日お見舞いに行くことはできなくなった。本当は毎日病室に行きたかったけれど、先輩からも『学業は疎かにしないこと!』と言われたので、放課後に時間がある日は会いに行くようにしている。土日は当然病院へ行く。今日で何回目だろう? もう両手で収まりきらないくらい来ている気がする。


 先輩のご両親とは一週間ほど前に挨拶を済ませた。彼らに会うのは、二度目だ。神ヶ谷公園で僕を騙していたことを強く謝罪された。とんでもない大罪を犯したのかと勘違いしそうになるくらいの勢いだった。僕としては、そこまで謝られるほどのことをされた覚えはないし、別に怒ってもなかったので複雑な気分だった。


 むしろ、謝るのは僕の方だと思っている。僕が先輩と面会しているときは、彼らは席を外してくれているのだ。家族との貴重な時間を僕が奪っている気がして、申し訳ない気持ちがこみ上げてきた。そのことを伝えたところ、娘の幸せが一番だから、と父親は言ってくれた。母親は彼の言葉に優しく微笑み、同意の姿勢を見せて、僕を庇ってくれた。


 そこまで言われたら、今まで以上に先輩を幸せにし、笑顔を増やしたいという気持ちが一層強くなった。


 あと最近の出来事で言えば、堀内さんと二人で先輩のお見舞いに来たこともあった。三人で顔を合わせるのは初めてだと言うのに、全く気まずい雰囲気はなく、病室が常に笑顔に包まれていた。

 へッドボードにもたれかかって笑う先輩。ベッドの足側に座る堀内さん。その二人をパイプ椅子に座りながら見る僕。


 楽しい時間というのは一瞬で過ぎ去ってしまう。もっともっと先輩といたい。まだまだたくさんの楽しい思い出を作りたい。そう思えば思うほど、日に日に痩せていく先輩の姿を見て、無力感に苛まれる。


 彼女の前くらいマイナスな思考をやめたいのに、どうしても頭の中に色々浮かんできてしまう。僕はマイナスな気持ちを全て振り払うかのように、頭を横に振り、しっかり切り替える。少し前まではいつまでも引きずっていたので、こうして切り替えられるようになっただけでも、少しは成長したのかも。


「そういえばさ、六月くらいだったと思うんだけど、三週間くらい休んでたことあったよね? あれって本当に海外旅行に行ってたの?」


 急に先輩が学校に来なくなるから、何事かと思った。初めて先輩に対して怒りに近い感情が生まれたときだから、よく覚えている。


「あのときね。ふふっ、夏樹くんはどう思う?」

「病院絡みかなって思ってる」

「正解だよ。さっすが私に興味津々な、夏樹くんだねぇ」


 先輩はクスクス嬉しそうに笑った。僕が興味津々なだけで、こうして笑ってくれるなら、僕の関心の全てを彼女のものにしてくれていい。そう思った。


「そっかー。それも夏樹くんに言ってなかったんだねー」

「それも?」

「あ、いや、なんでもないよ。なんでもなーーーい」


 強引に話を終了させられた。含みのある言い方で気になったけれど、先輩が言いたくないのであれば、追及はしないでおこう。


 先輩は、「うーん」と言って、伸びをした。


 こうして笑っている瞬間も病魔と闘っていて、ずっと苦しいはずだ。僕がここにいることで先輩に無理をさせているんじゃないか? 僕は自分のことばかり考えていて、先輩の気持ちを考えていなかった。


「先輩……苦しかったり、しんどかったりしたら、言ってくださいね。僕、帰りますんで」

「え? なんで?」

「いや、僕がいることで、色々負担になっているんじゃないかと思ってしまって」

「はぁ〜。私に興味あるくせに、そういうところは全然わかってないよねぇ」


 彼女は大きくため息をつき、呆れている様子だった。あぁ、僕はまた悪い方へ考えを巡らせてしまっていた。自己嫌悪に陥ると、負のループが始まる。せめて、それだけは避けようと前を向いた。


「私は一分一秒でも長く君といたいの。まあ、学校とかはちゃんと行ってね。前にも言ったけど、そういうところは疎かにして欲しくないから。それ以外の時間はずーっと会いたいくらい。君がこうして会いに来てくれることで、私がどれだけ救われてるか知ってる? 知らないだろうなー。しんどいときでも、君がいてくれるだけで、笑顔になれるんだから。君はすごい。すごいんだよ」


 そんな風に先輩が僕のことを思ってくれているなんて知らなかった。なんだか照れくさいし、彼女と目を合わせることができなかった。視線を逸らす前の先輩は、とっても優しい表情をしていた。やっぱり、ちゃんと先輩のことを見たくて、すぐに視線を戻した。


 僕にとっては、マイナスな考えを吹き飛ばしてくれる先輩の方が、もっとすごい。


「ねえねえ、夏樹くん」

「ん?」

「私ね、病気が治ったら夏樹くんと旅行に行きたいなぁ」

「うん。行こう。絶対に行こう」


 僕は絶対に叶えてあげたかった。


「へへっ。ごめん、ごめん。嘘だよ。私の病気は治んないんだよ。もうここから出ることもできないの」


 彼女の口ぶりは清々しく、爽やかな表情だった。陰鬱な表情をしているであろう僕とは相反する表情をする先輩。傍から見ればどちらが病気に冒されているのかわからないな、と思った。


「──ッ⁉︎ 夏樹くん……?」


 僕はたまらず先輩の細くて、今にも折れてしまいそうな身体に腕を回し、抱きしめた。数週間前よりもさらに痩せ細っていた。


 このまま抱きしめ続けて、先輩の温かみを感じていれば、一生先輩は僕の前からいなくならない。そんな風に思いたかった。


「夏樹くんは、まだまだ子どもだねぇ」


 そう言って先輩は僕の頭を撫でた。まるで小さな子どもをなだめるかのように優しかった。


「──鼻を啜ってる先輩には言われたくないな」


 先輩は小さく、「そうだね」と言った。


「──前に先輩が僕に無茶ぶりしたプレゼント持ってきたよ」


 忘れる前に渡しておこうと思った。僕はゆっくり後ろに回していた腕をほどき、カバンに突っ込んで、直方体の箱を取り出した。


「無茶振り?」キョトンとした顔で言った。

「自分で言ったのに忘れたの? 覚えてないなら、没収だね」

「ちょ、ちょっと待って。考えるから」

「うん。当てられたらあげる」


 綺麗にラッピングされた箱を大事に両手で包み込むようにして持ちながら、先輩の回答を待った。さすがに先輩も数週間前のことを忘れておらず、すぐに答えは出たようで、「敬語!」と元気いっぱいな子どもみたいに言った。もう鼻を啜っていなかった。


「そう。はい」


 僕は手渡した。


「ありがとう。でも、なにこれ? 開けてもいい?」すでに開け始めながら言った。


 待ちきれない先輩に口角が上がってしまっていることを自覚しながら、頷いた。


 ラッピング用紙を丁寧に外すと、真っ白な箱に刻印されたブランドのロゴが見えてきた。先輩は中身にピンと来ていない様子だった。最後のフタを開け、中身を見た先輩の表情は驚きからすぐに喜びに転じた。


「ペアリング! ってことは、こっちは夏樹くんの?」

「そうだよ。サイズがわからなくて、小さかったらごめん」自分のリングを手に取りながら言った。


 僕は以前に先輩が結婚指輪を見て、羨ましがっていたことを思い出した。確かあのときはペアリングというワードを出して仄かしただけだった気がする。先輩の状況を鑑みればあのときにどうしてペアリングが欲しいとか、買いたいとか、そういった言葉が出てこなかったのか理解できた。


「ううん。ぴったし。嬉しすぎて、泣きそうだよ」


 鼻を啜る音が先ほどよりも大きく響いた。本当に先輩は泣きそうになっており、目には涙が溜まっていた。その涙は純度百パーセントの喜びで満たされていてくれたらいいな、と思った。


「あー、もう、夏樹くんのせいで涙腺がやばいよ。本当にありがとう。大切にします」


 先輩は、涙を堪えながら、最高の笑顔を見せてくれた。たとえ、どんなにすごい芸人でも、ここまで良い笑顔を引き出すことはできないだろう。


 彼女は一度瞬きをすると、堰を切るように涙が溢れ出てきた。


「あぁ……ごめんね。なんだか涙が止まらなくて。夏樹くんの前では泣かないように頑張ってたんだけど……耐えれなかったみたい」くしゃくしゃになった顔で言った。それでも、綺麗な泣き顔だった。

「僕の前くらい我慢しなくていいよ」

「へへ。そんなこと言えるなんて、なんだか男らしくなったね。ちょっとだけね。夏樹くんは変わった。あー、もっと夏樹くんの成長見ていたいなぁ」


 涙を手で拭いながら、無理やり作った笑顔で言った。


「……見ててよ」


 叶わないことがわかっていながらも、僕は呟く。


「ごめんね」

「……」

「夏樹くんを置いて、先にいなくなってごめんね」

「……」

「こんな私を好きになって、後悔してますか?」

「……してるわけないだろ。怒るよ」

「その言葉が聞けて、安心した。私も夏樹くんを好きになって、後悔なんて一つもないよ。大好きな君から、こんなプレゼントまで貰えて、幸せ者だなー、私」


 病室の窓から見える空は青くて、九月というのに夏の終わりを感じさせるには不十分に思えた。


 先輩と秋を感じて、僕たちが出会った冬をもう一度過ごしたい。そして、また春になって、夏が来る。どれだけ思い描いても、そんな未来は訪れるわけがないことくらいわかっている。未来にばかり目を向けるのではなく、まさに今を生きているこの瞬間を大切にしたい。そう思った。

 泣いているのか笑っているのかわからない表情をする先輩を見て、幸せを感じる。それでいい。未来についてあれこれ考えても仕方ないじゃないか。どうなるかなんて誰一人としてわからない。タイムマシンでもあれば話は変わってくるが、そんな都合のいいもの存在しない。


 未来がどうなるか、先輩の最期がいつなのか。わからないからこそ、毎日を大切に、かけがえのないものとして過ごすことができるのだろう。


「そうだ! 最後になるかもしれないから、写真撮ろ?」

「うん。撮ろう」


 僕らはお揃いのリングをつけて、一枚撮った。


 優しく微笑む先輩。その隣の僕は、ほんの少しだけ笑顔が上手くなっていた。そんな気がした。


──先輩と過ごす最後の日となった。

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