第30話

 翌日。


 先輩のお兄さんの車に乗せてもらい、病院に向かった。数十分車を走らせ、総合病院に着いた。僕が知っているくらいの大きな病院だ。広い駐車場に駐車し、病院の中へ入る。入った瞬間、病院特有のアルコールのニオイが鼻腔を抜けた。

 彼に先導してもらい、僕は後ろをついていく。病院は当然のように清潔に保たれていて、病院全体が緊張感に包まれているような気がした。


「病室には一緒に入るけど、俺はすぐ出ることにする」

「どうしてです?」


 エレベーターで昇っている最中、彼は言った。


「だって、怒られそうじゃん? 君が一旦華蓮を落ち着かせてくれ!」

「は、はぁ……わかりました」


 病院にまで連れてきてもらっている立場で何も言えない。僕は了承した。


 エレベーターを降りると、緊張が加速した。同じ側の手足が一緒に出てしまいそうなくらいには、緊張している。まさか先輩に会うだけなのに、こんな気持ちになるなんて思いもしなかった。

 病室まであと少し。花火大会で別れたのが数日前のことなのに、とても久しぶりに会う気がした。それくらいこの数日間は密度が濃く、目まぐるしく情報が入ってきた。整理するだけで一日が潰れてもおかしくないほどに。


「ここだ」


 お兄さんの声にも緊張が含まれていることが伝わった。顔も幾分か固くなっているような気もした。お兄さんは何度も訪れているはずなのに、それでも死が迫る妹に会うというのは、緊張が伴うものなんだと思う。


 先輩の母親は不在らしいので、病室の中にいるのは先輩一人だけだ。


「華蓮入るよ」


 お兄さんは軽くノックをし、入った。僕も取り残されないように一歩前へ足を踏み出した。

 ベッドに座り、窓から晴れた空を眺める先輩の姿があった。先輩はまだ僕の存在に気付いていないようだ。


「ねぇ、お兄ちゃん。プリン買ってき──へっ!? な、なんで夏樹くんがそこにいるの!?」

「じゃっ。あ、これプリンだから。また後で!」


 お兄さんは電光石火の速さで、病室から出て行った。それを驚いた顔で呆然と見続ける、先輩。数秒して、現実に引き戻されたのか、僕の顔を一回見たと思ったら、すぐに逸らした。


「うわっ、夏樹くんが来るならもっとちゃんとしとけば良かった……化粧もほとんどしてないし、服もパジャマだし、髪もちょっとボサボサだし……最悪だ」


 僕が思っていたよりも元気そうで、安堵した。僕の突然の来訪のせいで、先輩からは悲壮感が漂ってくるけど。


「てか、なんでここにいるの? 夏樹くんは私のこと嫌いになったんじゃないの? そもそも、どうしてここに私がいること知ってるの?」

 かなりテンパっているのか早口になっていた。そんな矢継ぎ早に質問しなくても、僕は逃げないのに。


「あ、ずっと立ったままなのもあれだね。そこに座って」


 ベッドの前にあるパイプ椅子を指して言った。


 先輩の言う通り突っ立っていても話しづらいので、座ることにした。少しパイプの部分は冷たかった。


「えっと、私の頭の中はパニックです」


 彼女が座るベッドの後ろにあるテーブルの上には、以前僕が取ってあげた小さなぬいぐるみがちょこんと飾られていた。大事にしてくれていることを知り、なんだか嬉しくなった。


「そうだと思う。でも、急に来るくらいの意地悪はさせて欲しい。誰かさんのせいで、僕だって頭の中がまだ整理できてないんだから」


 いきなり僕が病室に来たのだから、驚いていることだろう。しかし、僕も先輩に負けないくらいの衝撃をこの数日与えられたのだ。


「意地悪?」


 後ろに向けていた顔をこちらへやっと向けてくれた。


「うん。先輩は僕があんなメールくらいで嫌いになると思ってたの?」


 前置きなんて一切なく、言いたいことが出てきた。思っている以上に、僕自信も余裕がないようだ。


「……ならなかった?」


 先輩は罪悪感があるのか、申し訳なさそうに言った。顔はこちらを向いているが、目線は僕の方を向いていなかった。


「ならないよ。僕はとっくに先輩のことが好きになっていて、その気持ちが流行り物みたいな一過性のものじゃないことくらいわかっている。この数ヶ月。先輩と過ごす日々が楽しくて、僕の生活の色を晴れやかなものに変えてくれたんだ。ありきたりだけど、先輩の全てを好きになった。そんな先輩のことをあれくらいのメールで諦められるわけがない。僕は意外と往生際が悪い性格なんだって気づいた」


 僕が言うと、先輩は頬を赤くして、またそっぽ向いた。


「なっ、夏樹くんは自分が何を言ってるのか、わかってる? そんなに直球で気持ちを伝えられると思ってなかった……なんだか変わったね」

「変えてくれたのは先輩だよ」


 彼女と出会っていなかったら、今頃過去のことばかり考えて、自分自身を憎みながら過ごしていたことだろう。幸せになんてなってはいけない。そう思っていたはずだ。人を好きになる気持ちを教えてくれて、過去から現在いまへ目を向けさせてくれたのも、彼女だ。


「昔にも言ったけど、私は誰かを変えられる力なんて持ってないよ?」

「先輩はそう思っていても、僕は先輩のおかげで変わったと思ってる。クラスにも馴染めていなかったのに、先輩と付き合うようになってから、それなりに話す子も増えたんだ。感謝してるんだ、先輩に」

「そんなに褒められると照れちゃうなぁ」


 後ろを向いていても髪の隙間から見える耳まで赤くなっていたから、本当に照れていることがよくわかった。


 僕が先輩に言いたかったことは、これだけじゃないんだ。


「散々褒めたし、そろそろ文句を言ってもいい? 先輩に勘違いされたままだと嫌なんで」

「え? 私、今から文句言われるの?」

「うん。さっきも言ったけど、僕があれくらいで折れると思われてたことが心外だった」

「それは……ごめんね。私は最低なんだよ。自分のことしか考えてない自己中心な女なんだよ。勝手に夏樹くんを巻き込んで、最後はあんなメールで突き放して……最低なんだよ」


 先輩はこれ以上一緒にいることで、僕の時間を奪うことになると思い、遠ざけようとしたのだ。決して先輩は独りよがりな理由だけで、僕を突き放そうとしたわけではないことくらいわかっていた。


「僕だって先輩の立場なら、やり方は違えども、先輩のように遠ざけていたかもしれない。文句を言いたいのは、先輩が自分の時間を有意義に使って欲しいって言ってたやつ。僕は先輩と一緒にいたいからいたんだ。僕にとっては先輩といる時間が大切なんです。勝手に僕の気持ちを決めつけられたことに、ちょっとムカつきました」

「お兄ちゃんから聞いたんだね……ごめん」

「でも、そんな先輩が好きなんです」

「ねえ、意味わかんないよ? ムカついたんでしょ?」


 彼女は心底不思議そうに訊ねた。声に覇気がなかった。

 僕自身も無茶苦茶な話の流れだな、と思う。けれど、ゆっくり順序立てて話すことなんてできなかった。思ったこと、感じたことを素直にそのまま言葉にして、紡いでいく。


「そうだよ。先輩が全く僕の気持ちを察することができていないことにムカついた。けど、同時に何も気づけなかった自分に対してもムカついた」

「そりゃあ、バレないようにしてたんだから、気づけなくて当然だよ……。えっと、夏樹くんがそこまで言うなら、私だって言いたことあるから、言わせてもらうね。まず、全く気持ちを察することができてないって言ったけど、夏樹くんが、私のことが好きなことくらいわかってたから。とっくの前に気付いてたんだよ」

「え?」

「確信に変わったのは、花火大会の日。私に言おうとしたよね?」

「……そうだっけ?」


 つい最近の記憶だ。僕だってしっかり記憶していた。そして、あのときの先輩の涙も蘇ってきた。あのときの先輩の気持ちが、今なら少しわかる気がした。


「わかってた。わかってたよ! 私だって夏樹くんのことを異性として好きになってたんだから! 世界で一番君のことを見てた自信があるくらいだよ? 君のちょっとした変化にも気づいちゃうくらい好きになってたの。これから先一緒にいることができない私と時間を共有することで、夏樹くん自身が苦しむことになるんだよ? それをわかってるの!?」


 先輩の頬には一筋の涙が静かに伝った。声も震えていた。


「先のことなんて知るかよ……僕は先輩とこの瞬間を一緒にいたいんだよ! たったそれだけの理由じゃダメなのかよ! 僕にとっての大切な時間は、先輩と過ごす時間なんだ。僕が先輩のことをどう想っているのかわかってたら、これくらい理解できるはずだろ!」

「だから、わかってるよ! でもそれって、夏樹くんは私のいない未来から目を背けているだけでしょ? 想像したことある? 想像した上で、同じことを言える? 私だって、一緒にいたいよ……けどね、一緒にいることで大好きな人の悲しみを助長させることがわかっていて、それを願うことなんて私にはできない」


 先輩はまるで自分自身に言い聞かせるかのように、呟いた。


 確かに僕は先輩のいない未来に真正面から向き合ったことはなかった。先輩の言う通り、目を背けていたのかもしれない。


 一息に言った先輩は、またすぐに口を開く。


「私はあと少しで君の前からいなくなるんだよ? 私のことが好きな君は受け入れられる? 私のことが好きなまま私がいなくなって、それをちゃんと受け入れて、日常に戻れる?」

「それは……」


 ほんの一瞬、言葉に詰まった。


「無理だよね?」


 僕が答えあぐねていると、先輩が言葉を被せた。


 先輩がいない未来が必ずやってくる。その事実から目を逸らすことなんてできなくて、僕がここに来たということはそれを受け入れる覚悟でやってきたはずだ。堀内さんからも言われた。全てを受け入れる覚悟はあるのか、と。


 病室のベッドに座る先輩を見ると、現実を突きつけられて、自分でも気づかぬうちに覚悟が揺らいでいたのかもしれない。

 先輩を不安にさせてどうする? これじゃあ、僕の覚悟に信憑性が薄れ、自分自身を信じられなくなる。僕は先輩の傍にいると決めたんだ。先輩の笑顔をもう一度見たくて、ここに来たんだ。


 先輩がいなくなった後、悲しむのは間違いないだろう。けれど、その悲しみを恐れ、逃げて、目の前の先輩からも逃げたら、僕は絶対に後悔する。


 少し冷静になった。ゆっくり口を開く。


「──うん。すぐには無理だと思う……僕は絶対に悲しむ。泣くかもしれない。今の僕では想像できない感情も押し寄せてくるんだと思う。けれど、そうなることがわかっていても、先輩といたいって気持ちは変わらない。未来の僕のために、現在いまの僕を犠牲になんてしたくない。きっと未来の僕なら大丈夫。過去は乗り越えられものなんだって、先輩が教えてくれたんだから。僕だって先輩と一緒にいたいっていうわがままを通して、先輩の気持ちを確かめもせず、ここまで来た。先輩が自己中心なら、僕も自己中心だ。先輩が最低なら、僕だって最低だ。相性抜群だと思わない?」


 病室に来て、僕は初めて表情を崩すことができた。いつの間にか緊張も消え去って、普段の調子を取り戻すことができそうだ。


 僕は一度目瞑った後、ゆっくり開き、言う。


「最期まで僕を先輩の傍にいさせてほしい」


 僕が言い終えるまで、先輩は目を逸らさず、ずっと見ていてくれた。僕も彼女から目を離さなかった。


「こんな最低な私でもいいの?」

「ああ」

「もうすぐ会えなくなっちゃう私でもいいの?」

「うん」


 僕が頷くと、先輩は破顔した。僕はその表情に懐かしさを感じた。


「──色々迷惑かけて、ごめんなさい。私の方こそ、夏樹くんの傍にいさせてください。夏樹くんのことが大好きです」


 先輩が流した涙はとても綺麗で、まるで宝石のように光り輝いて見えた。以前よりも痩せた小さな身体を優しく、抱きしめた。先輩が泣き終えるまで、僕は腕を解かなかった。

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