第17話

「それ、持ちましょうか?」


 僕はずっと先輩が持っていたバスケットを指差して言った。


「えっ?」

「何ですかその、虚をつかれたような顔は」

「だって今までそんなこと言ってくれたことなかったじゃん? そりゃあ、驚きますよ、私も。なんだかいいことあった?」


 僕の優しさは通常運行ではなく、かなりレアなものとして扱われているようだ。僕らが出会った頃、僕のことを優しいと言っていた先輩はどこへ行ったのだろう。あれは僕の気のせいだったのだろうか? まあ、確かに先輩に対して何かしてあげたことってほとんどなかった気もする。先輩が言うのも無理ないのかもしれない。


「あったかもしんないですね」


 今朝の母さんの表情が頭に浮かぶ。


「そっかそっか。家族ともいい感じっぽいね」

「え? 先輩はエスパーかなんかですか? 僕の考えてることわかるんですか?」

「ははっ。当たってたんだ。偶然だよ、偶然。今までたまーに夏樹くんから漂ってた負のオーラが綺麗さっぱり消えた気がしたらからさ、家族絡みのことかなーって思ったの」


 先輩は「夏樹くんのことよく見てるから、ちょっとした変化にも気づいちゃうんだぁ」と何の気なしに言った。僕はそんな先輩を直視することができなかった。僕の頬に熱が帯びることを感じた。先輩はちょっとした変化にも気付かなそうだ、と思っていたことを心の中で謝罪しておく。

 意識を先輩から公園に移す。いつの間にか芝生の広場まで来ており、寝そべる人やバドミントンで遊ぶ家族連れの人たちでいっぱいだった。


 僕の気なんてつゆ知らず、バドミントンいいなー、とボソッと呟いた。


「やればいいじゃないですか」

「できないよ、私は」


 なんだかいつもより声のトーンが低い気がした。そして、寂しそうというか、諦めというか、そんな目をしている。思い過ごしかもしれないけど。


「もしかして、運動音痴なんですか」

「ん。そうなの。びっくりするよ? 多分、引くよ?」


 引くレベルと言われたら、逆に気になってしまうのが人間の性というものだ。


「今度やりましょうよ」


 僕も運動はそれほど得意と呼べるレベルではなかったけれど、先輩よりは動けそうだ。


「えっ、いやいや。絶対無理無理!」


 先輩は頭と手を素早く振って、無理だということを全身で伝えてくれた。そこまで言われると本当に気になるな……。


「しっかり引いてあげますんで、やりましょうよ」

「夏樹くんはやっぱりSだね?」

「そうかもしれないですね」


 そんな無意味な会話をしていると、芝すべりの施設が見えてきた。僕の記憶上でも神ヶ谷公園に芝すべりができる場所はあったけれど、実物を見ると思っていたよりも小さかった。記憶が小学生の頃のものだったから、今よりも大きく見えたのかもしれない。僕も目線だけは高くなったんだと思うと感慨深かった。


「私、やったことないなー。ねえねえ、やらない?」


 先輩の顔には、デカデカとやりたい、と書かれていた。

 近くまで行き、料金表や注意事項が書かれている看板を見ると、ソリはレンタルさせてもらえることがわかった。


 ワクワクした表情の先輩には悪いけれど、正直悩むし、あまり乗り気ではなかった。滑っているのは大半が子どもで、僕らと同じくらいの年代の人はほとんどいなかった。カップルらしき人たち一組と同い年くらいの男子数人グループがいたが、あの中に混じって滑りに行く自分の姿を想像するのは困難なことだった。


 悩んだ末、芝すべりを体験することにした。


 ちょっと恥ずかしかったし、ギリギリまで悩んだが、彼女の懇願する目を見ると、子犬にねだられている気分になり、とてもじゃないけどやらないとは言えなかった。それにここ数日かなりお世話になっていたわけだし、お礼の意味合いも込めて。こんなことで返せる恩ではないけれど、少しずつ返していけたらいいな、と思う。

 僕が渋々了承すると、パッと笑顔になり、まだ滑ってもいないというのに愉快そうだった。そんな彼女の笑顔を見ると、滑る選択をしたことに後悔なんてしないだろうな、という確信を持つことができた。


 言葉にするのは難しいのだけれど、僕の中で何かが変わり始めているそんな気がした。その何かを具体的に説明するには、今の僕では無理だった。


 受付のお姉さんの話によると、十五分四百円ということだった。入園料にそり代は含まれているらしい。

 支払いを済ませようと先輩が財布を出そうとしたところで、僕は言う。


「僕が払いますよ」

「いいよいいよ。いつも通り払うよ」


 僕らは基本的に、支払いに関しては分担している。


 昼食や夕食の代金というのは僕が払い、それ以外のコンビニやカフェといったちょっとした休憩などで利用するようなところは先輩負担になっている。

 映画代や今回みたいな入園料は各自で払うことにしている。


「今日は僕に払わせてください」

「いやいや、私、先輩だよ? なんならいつも申し訳ないなって思ってるくらいなんだから」


 先輩の威厳というやつだろうか? 別に一つしか歳は変わらないし、と思うのは僕が後輩の立場だからだろうか?

 先輩がフランクに話しかけてくれるので、あまり先輩感というか年上感みたいなものが薄い。確かに年下に奢られるのって複雑な気分になるのかもしれない。想像力が豊かな方ではないと思うので、間違った感覚なのかもしれないけれど、奢られる行為は大抵嬉しいものであるはずだ。だって無料で何かを食べたり、貰ったりできるのだから。けれど、それが年下に、となると先輩として格好がつかない側面もあり、奢られる側からすれば手放しで喜べる状況ではないのかもしれない。奢られると立場がその一瞬、逆転したかのような気分に陥る可能性もある。僕は誰かの先輩になったことはないので、理解しがたい感覚だ。


 威厳とか気にしない人はすっと奢られてくれるのだろう。きっと先輩は奢られて嬉しいよりも、申し訳なさと威厳などから抵抗色を見せたのだろう。と拙い僕の脳みそで分析した。


「気にしないで奢られてください」

「んー」


 中々折れないな。先輩は意外と強情なのだ。


「先輩には、感謝してるんです。先輩のおかげで僕は前を向くことができて、家族も少しずつ戻り始めたんです。感謝の気持ちとして奢るっていうのも変ですけど、一つの誠意の形として受け取ってください」

「……わかったよ。ありがとね」


 僕の説得により、やっと折れてくれた。


 先輩と少し言い合っていたせいで、受付のお姉さんを少し待たせることになってしまった。後ろに人は並んでいなかったので良かった。

 何を見せられているんだ、という表情のお姉さんに心の中で謝罪しつつ、そりを受け取り、僕らはゲレンデの上まで登っていくことにした。


 ひゃー、とか、きゃー、とか、そんなジェットコースターにでも乗ったかのような悲鳴が聞こえてくる。本当にジェットコースターに乗りでもしたら、金切り声でも聞こえてくるんじゃないだろうか?

 僕らが頂上と呼べるほどのものでもない高さに到達すると、それなりに眺めは良かった。公園が一望できるくらいの高さはあるようで、日が沈み始める夕方に見ればいい景色なんだろうな、と思った。


「なんかドキドキしてきた」


 先輩からすれば思ったよりも高かったのかジェットコースターの順番待ちをしているときのような緊張感が放たれている。


「前か後ろどっちがいいですか?」

「んー、前! いや、後ろ! やっぱり、前?」


 彼女は小首を傾げて、訊いてきた。僕は彼女と違って心の中を覗き見ることはできないので、どうしたいのか察することはできなかった。


「自分で決めてくださいよ。僕、後ろ座りますね」

「はーい」


 子どもが不貞腐れたときのような返事をした後、よっこらせ、とおじさんのような掛け声とともに座った。偏見だけど、先輩って意外とお酒とか強そう。二十歳になって一緒に呑みに行くことができたら楽しそうだ。


 先輩は「ふぅ」と息を吐き出し、心の準備中のようだ。


 先輩が座った後にまたがるようにして、僕も座る。わかっていたけれど、恥ずかしい。こういうのを純粋に楽しめる心をすでに失ってしまった。別に過去がどうこうとか、そういうわけではなくて、僕という人間はこういう雰囲気みたいなものが苦手なのだろう。別に自分が大人になったからとかそういうことを言いたいわけでもない。


 何が羞恥心を生み出しているのかよくわからない。周りが叫ぶ中、ひとり澄ました顔で滑ることに対してなのか、周りから一回り年齢が上である僕がこの場にいることに対してなのか、わからない。

 きっと誰も僕らに興味なんてなくて、気にしていないことはわかっていても、気にしてしまうのだ。自意識過剰だ。この歳になっても純粋にワクワクして、楽しそうな表情を浮かべることができる彼女のことを羨ましく思うし、素直に尊敬する。


 僕に尊敬されているなんてつゆ知らず、ドキドキとワクワクが止まらない、と彼女の背中は訴えかけてきているように思えた。そんな姿を見ると、笑みが溢れた。


「い、いくよ。さん、にー、いちで」


 先輩は一度深呼吸をした。


 悪い僕が、心に生まれてきた。


「さん、にーいぃぃ!」


 カウントダウンが終わる前に、僕は芝を足で蹴り、そりを滑らせた。彼女の悲鳴は風に乗り、一気に降下する。

 風を全身で浴びながら滑る僕の顔は、きっと良い表情をしている。

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