第18話

「やっぱり、Sだー」


 芝すべりが終わってからも僕はずっと先輩から糾弾されていた。お昼を食べている今も。


 案外滑り降りるのは気持ちがいいもので、最後の方になると羞恥心はほとんど消えていた。

 僕が周りを見ていないのと同じで、僕らのことも周りはそれほど見ていない。目立つ格好をしているのならまだしも、特に代わり映えのない普通の高校生だ。そのことを頭ではわかっているのに、始まる前は色々被害妄想を頭の中で展開してしまう。マイナス思考の悪いところだろう。


 常にプラス思考な先輩が羨ましい。


「まあ、楽しかったからいいけどねー」


 サンドイッチを呑み込んだ先輩は言った。

 予想通り、お昼はサンドイッチだった。


「私たち、付き合って結構経つじゃん?」


 間髪を入れずに、僕は言う。


「そうですね。三ヶ月くらいですかね?」


 適当に言った。記念日とか気にしないタイプなので、全く覚えていなかった。じゃあ、なんでそんな即答するんだという話だが、先輩の性格を考えると僕を試そうとしてくる気がしたのだ。『私たちは付き合って何ヶ月経ったでしょーか!』みたいな風に。遅かれ早かれ、どうせ怒られるのであれば、先に怒られておこうと思ったのだ。


「夏樹君はほんと適当だよねぇ。私じゃなかったら、怒られてるからね? 今月でもう五ヶ月だよ。十二月でしょ? 付き合ったの」


 言われてみれば、そんな気がする。寒かった記憶が微かに残っていた。

 

 怒られはしなかったが、代わりに呆れられた。


「このままずっと続けばいいなー。今日も楽しかったなぁ」


 先輩は遠くを見つめ、僕ではない誰かに向かって言うように呟いた。

 一瞬、どこか遠く、僕とは違う世界を見ているように思えた。


「ねえねえ!」

「なんです?」


 いつもの先輩が帰ってきた。


「そろそろ敬語やめない? 付き合ってるんだし、タメでいーじゃん」

「先輩が構わないなら、僕はいいですけど」

「じゃあ、これからはタメね。あっ、華蓮ちゃんとか華蓮、って呼んでくれてもいいからね?」

「先輩って呼びますね」


 先輩はしかめ面で僕を見た。はぁ、と小さくため息をつき、そんな気はしてたけどねー、と言った。


 僕はまだ先輩のことを先輩としか呼べない。呼んではいけない。そう思っている。

 僕の中で線引きが必要で、その線をまたいでしまうことで何かが変わってしまう。きっとその何かもなんとなくわかっている。けれど、今の僕は現状を心地よく思っていて、崩したくない。


 先輩と呼び続けることによって、僕らの関係性を可視化しようとしているのかもしれない。


「言い忘れてたけど、敬語使ったら罰ゲームね」

「罰ゲーム受けるの僕だけ……?」


 今まで敬語だったので、違和感しかない。


「おぉ、違和感!」


 先輩は謎の感動を覚えているようだった。慣れさえすれば距離感は近くなるんだろうな。


「確かに、私が一切受けないのも変な話だ! じゃあ、夏樹くんが一ヶ月敬語使わなかったら、なんでも言うこと聞いてあげるよ。あっ、君が考えてるようなことはなしだからね?」

「安心してください。一ミリたりとも何も考えてないんで」


 僕がそういうと、そんなに魅力ないかなー、と肩を落とした。

 お昼を食べ終えた後、彼女は歯磨きをするためにペットボトルと巾着を持ち、お手洗いへ向かった。食後、どんな場所であっても歯を磨きに行くのは彼女のルーティンだ。出会ったときから変わらない。朝、夜は僕も磨いている。昼は磨けるときは磨くくらいの感覚なので、えらいなぁ、と思っていつも彼女の帰りを待っている。


 歯磨きを終えた彼女が帰ってきた後、芝生に敷いたブルーシートの上に寝そべると、春の心地良い風が吹く。芝生が揺れ、まるで踊っているようだった。


「ねむーい。ちょっと寝よっか」

「うん」


 ちょうど僕も眠かった。こんなに大勢の人がいる前で、堂々と盗みを働く輩はいないだろう、と思い、ゆっくりまぶたを落とし、眠った。

 

「──ッ⁉︎」


 目を覚ますと、目の前に先輩の顔があって、飛び起きてしまった。ぼやっとした頭は一気に冴え、先輩と横並びで昼寝していた記憶が蘇ってきた。


 すやすや気持ち良さそうに寝ている先輩を起こすのも悪いので、そっとしておくことにした。

 時間を確認すると、三十分ほど眠っていたようだ。やることもなかったので、カバンから小説を取り出し、静かに読むことにした。が、あまり集中できなかった。


 左隣で寝る先輩の寝顔は綺麗だった。


 どうしてこんなことをしたのだろう。自分らしくない。そう思った。自然と僕の右手は小説を置き、先輩の頬に触れていた。触れた瞬間、ビクッと先輩の身体が携帯のバイブレーションのように震えた。


 僕は我に返って、しまった、と思い、すぐに手を引っ込めた。が、手遅れなことくらい僕でもわかった。


「起きてる……よね?」


 僕が訊ねると、数秒の間が空き、びっくりしたー、と飛び起きた。


「起きてたなら言ってくだ──くれよ」

「いや、寝てるフリしたら、何かされるかなーってドキドキして待ってたんだけど、実際にされると想像以上にびっくりしちゃった」 


 意外と大胆だねぇ、と先輩はどこか楽しそうにからかってくる。冷ややかな目を向けられるかな、とも思っていたので、少し安心する。恥ずかしいことには変わりないけど。

 僕はどうしてあんなことをしてしまったのだろう。手を伸ばしたのは事実なので、何も言い返せなかった。


「無防備な私の頬に触れるだけってのが、夏樹くんっぽいけどね」と言い、ははっ、と笑った。

「いつから起きてたの?」

「えっとね、カバンから小説を取り出すときにごそごそしてたから、それで起きちゃった」


 起こさないように気をつけたつもりだったけれど、起こしてしまったのなら申し訳ない。


「すみません」

「いいよいいよ。頭もすっきりしたことだし、そろそろ行動開始しよっか」

「うん」


 ブルーシートを片付け、カバンに詰め込んでいると、「あっ、写真撮ってない」と先輩は言った。

 あまり乗り気ではないが、先輩の心情を考えると、きっと撮りたいのだろう。そうでなければ、わざわざ言わない。


 どうせ撮ることになるんだろうし、無駄な労力を使っても仕方がないと思い、素直に訊くことにしよう。


「撮る?」

「うん! 芝生の上に寝転がって撮りたい!」

「汚れるじゃん」


 僕ができる可能な限りの嫌そうな顔をすると、大丈夫、と親指を立てて先輩は言った。何の根拠もないし、何が大丈夫なんだ、とツッコミたくなるけれど、先輩が大丈夫と言うのなら大丈夫なのかもしれない、と思わせてくれる謎の説得力があるのは、彼女の特権だと思った。


 先輩は芝生に対して、ごめんねぇ、と言いながら、芝生にお尻をついて、寝転んだ。気持ちはわからないでもなかった。ブルーシートを敷くと、何も思わなかったが、直接綺麗に生え揃う芝生の上に寝転ぶことに少し抵抗感が生まれた。


 先輩はスマホを操作し、準備ができたのか、早く早く、と言わんばかりに手招きしている。

 先輩のように声は出さないが、心の中で謝罪しながら、寝転んだ。


「よし、じゃあ、撮るよ。ポーズして、ポーズ」

「どんな?」

「なんでもいいよ。指でハートでも作る?」

「僕に一番合わないポーズだね」

「ははっ。間違いない! でも、青春って感じしない? こうして、芝生に寝そべって、ツーショット撮るとか」


 青春の定義は人それぞれだろうけど、傍から見れば青春してんなぁ、と思われるのだろうか。

 恥ずかしくて、普通なら躊躇うことも青春という言葉の前では、なんでもできるようなそんな勘違いをしてしまう。青春という言葉に守られた人間だけの世界が繰り広げられ、他の誰もそこに足を踏み入れることなんてできなくて、僕らとそれ以外、といった構図になるんだと思う。


「そうかもね。こういうこと、僕がしてもいいんだ」

「ふふっ。当たり前でしょ? これからも今までできなかった青春を取り戻して、一緒に思い出を作りたいね」


 女神のような微笑みを見せ、カメラを構えた。


「よしっ、じゃあ、さん! にー!」


 パシャッ

 カウントダウンが終わる前に、シャッター音が響く。

 先輩は、にひひ、と魔女のように笑う。女神みたいな先輩はどこかへ消え去ってしまったようだ。


「さっきのお返し」といたずらをした子どものように言った。


 そんな無邪気な先輩と目を合わせられなかった。僕の心はかき乱され、青々とした緑の芝生に視線を逃して、心を落ち着かせるしかなかった。

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