第15話

 帰り道、先輩から「家族ともちゃんと話すんだよ」と言われたことで、家族ともきちんと向き合う覚悟ができた。先輩の声は僕の背中を優しく押してくれた。感謝してもしきれない。


 父さんと母さんは僕のことをまだ恨んでいるかもしれない。僕のように楓の死から目を背けているかもしれない。


 楓の死から家族は変わってしまった。けれど、そんな家族の姿を妹が見て、喜ぶだろうか?

 喜ぶわけないだろ。楓は優しかったから、自分のせいで……。そんな風に思うかもしれない。


 以前のようにというのは難しいのかもしれない。みんな歳もとった。環境も変わった。色々変わったんだ。それでも、普通の会話が生まれる家族に戻りたかった。


 あの事故以来、僕は一人で夕食を食べるようになった。居心地の悪さから僕は家族が唯一揃う場から逃げ出したのだ。今日は逃げ出さず、家族が揃う場で、向き合いたい。


 リビングの扉を開くと、母さんがトレーに夕食を並べてくれているところだった。


「今日は、ここで食べるよ」


 僕が言うと、母さんは瞬きもせずに、こちらを見つめ、「珍しい……」と一言言った。リビングで夕食を食べるのなんて、実に五年ぶりくらいだろうか? 母さんが驚くのも無理はない。一方で、椅子に座って、新聞を読んでいた父さんは何も言わず、一度だけこちらを見て、また視線を新聞に戻した。


 四角いテーブルのそれぞれの辺に母さん、父さん、僕が座った。僕と父さんが対になるように座り、その間に母さんがいた。空いている辺に昔は楓が座っていた。この席順だけは何年もそのままであることに、今気づいた。


 食べ始める前に、「いただきます」を言ってから、誰も喋らない。僕がいないときの夕食時もこんな感じなのだろうか? 僕はその場にいないので、わからない。けれど、普段は多少の会話は両親の間にはあるような気がした。今日は二人にも緊張が走っているように感じ取れた。

 いつもひとりで食べている息子が、急に一緒に食べることになったら当然の動揺だろう。


 きっと僕が口火を切らないと、このまま沈黙が続くと思った。


「父さん、母さん……楓のことなんだ」


 僕がそう言うと、二人は驚きとも予想通りともとれる表情をした。

 心臓がまた速くなった。昼間は隣で先輩がいた。だから、安心できたし、少しずつでも言葉を紡ぐことができた。今、隣に先輩はいない。それでも、僕の背中にはまるで先輩が手を添えてくれるような感じがした。


 落ち着くことができた。


「ごめんなさい」


 僕は頭を下げて、言う。


「夏樹……」


 母さんが食べ始めてから初めて声を出した。


「あのとき、僕が楓の面倒をきちんと見ていれば、その席で楓は夕食を食べることができた。過去をずっと悔やんできた。僕は幸せになんてなってはいけない。なる資格はない。そう思って生きてきたんだ」


 酸素を肺に入れる。


「けれど、本当に楓はそんなことを望み続けているのか。優しい楓は、きっと僕だけでなく、父さんや母さんの幸せを望んでるはずだ。そんな簡単なことに気づくのに、何年もかかった。いや、気づかせてくれる人がいたんだ。その人のおかげで前を向くことができたし、楓の死とも向き合えるようになった。楓は父さんや母さんの笑った顔を見たいはずなんだ。原因を作った僕が言うのもお門違いだと思うけど、また、昔みたいにどこにでもいる家族に戻りたい、って思う」


 僕が言い終えると、リビングに沈黙が流れた。母さんの手と机が擦れる音、父さんの息を吸って、静かに吐く音。全部聞こえる。誰かが生きて、生活をしている限りこの世のどこかで音がする。こんなにも音に囲まれて生きているなんて、意識しないと気づけないことだった。


 全て話し終えたことによる達成感だろうか。居心地の悪さは微塵も感じなかった。自然と入ってくる生活音が心地の良いBGMだと思えるくらいには、心に余裕があった。


 母さんは椅子から立ち上がった。今まで聞こえていた音とは異質だったので、僕の視線は母さんの方に向いた。きっと父さんも同じだろう。

 たった数歩歩くだけだが、一歩一歩、踏み締めるように歩き、僕の隣に立った。何をされるのかと少し慄いたが、母さんは両手を広げ、僕を抱擁し、それから何も言わなかった。すすり泣く声が耳に入ってきた。


「母さん……?」


 僕の声には、驚きや困惑が混じっていた。


「ごめんなさい。本当にごめんなさい」


 突然の、予想外の出来事で戸惑っている。

 何か言葉を口に出そうとしても喉でつかえて、外に出ることはなかった。動くことも、話すこともできなくなってしまった石のような僕は、母さんの言葉を待つしかなかった。


「あのとき、夏樹は目の前で楓を失って、一番しんどかったはずなのに、私は何も言ってやれなかった。本当に後悔してる。楓がこの世にいないという事実を受け入れなくて、夏樹のこともきちんと向き合ってあげられていなかった。本当に、本当にごめんなさい」


 ああ。そうか。僕だけじゃ、なかったんだ。


「本当にすまなかった。俺たちは何も声をかけてやれなかった。そのことでお前が悩み、苦しみ、こんなに自分を犠牲に生きていることを俺たちは知らなかった。気づいてやれなかった。親として失格だ。楓は大切な娘だ。だが、同じくらい夏樹も大切な息子なんだ。それなのに俺たちは……すまない」


 父さんは僕という一点を見つめ、言った。楓の死以前から寡黙で、口数の少ない父さんだった。そんな父さんのこんな姿を見たことがなかった。


 過去の選択を悔やみ、今を生きていたのは僕だけじゃない。母さん、父さん、みんなが何かしらの後悔を抱えて、生きていたんだ。


 後悔が家族をバラバラにしていた。お互いがお互いに後悔から生まれる遠慮や後ろめたさといった感情が心を支配して、お互いに心から向き合うことを避けてきた。

 バラバラになるのは一瞬だ。けれど、一つになるのは時間がかかると思う。それでも、着実に、一歩一歩僕たち家族は話し合って、以前のように一つになれるそんな日が来るような予感がした。そして、家族団欒する姿を見て、楓を安心させてあげたい。


「父さん、母さん。僕に幸せになる権利はないと思って、生きてきたし、楽しいと思うたびに、それと同時に楽しそうにする自分が許せなくなった。けれど、今は違う。楓はきっとそんなことを望んでいない。僕は父さんのことも母さんのことも全く恨んでいない。むしろ、恨まれていると思っていたくらいだ。僕のために毎日ご飯を作ってくれていたのも知ってるし、僕の学費のために仕事を頑張ってくれているのも知ってる。僕がこうして生活できるのも二人のおかげ。めちゃくちゃ感謝してるんだよ。ありがとう」


 僕が言い終えると、母さんのすすり泣く音だけが部屋に響いた。目の前に座っていた父さんは立ち上がり、僕と母さんを包むようにして、抱きしめた。


 あったかい。


 二人に抱きしめられていることによって、物理的にあたたかいのもあるけれど、それ以上に心があたたかかった。こんな感覚を覚えたのは、いつ以来だろう。


 高校生にもなって、両親に抱きしめられるなんて普通なら恥ずかしいし、やめてほしいと思う。しかし、今は数年分のあたたかさを感じたかった。ここ数年、冷えて、凍っていた心が少しずつ溶かされていくような気がした。


 ああ、僕まで泣きそうになってきた。僕は目頭が熱くなったのを誤魔化すように、二人を強く、優しく、抱きしめた。

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