第12話

 起きた頃には、部屋は真っ暗だった。スマホの明かりを頼りに、部屋の電気を点けると、一気に視界が良くなった。枕元にあったスマホを開くと、新着メールを受信していた。そういえば、迷惑メールが寝る前に来ていたことを思い出した。


 届いたメールも同じ『ミライのボク』からで、迷惑メールにしてはやけに僕に固執するな、と思った。文面は『明日の登校中、水無華蓮はナンパにあう』というものだった。


「水無華蓮……先輩」


 一瞬誰のことかすぐに認識できなかった。先輩の名前を久しぶりに字面で見た。水が無いって書いて、水無。華蓮はなんて説明してたっけ? 自己紹介をしたときに試された気がするけれど、記憶が正確ではなかった。


 今はそんなことどうでもいい。この迷惑メールが単なる迷惑メールでないことは、理解した。特定の人物を指していて、さらに身近な先輩の名前がそこにはあった。誰かの悪ふざけにしては趣味が悪い。


 明日、本当に先輩はナンパされるのだろうか? 


 まさかな。そんなことあるはずない。未来なんて誰にもわからない。僕が一時間後どうなっているのかさえもわからないのだ。

 きっとそれなりの容姿を持っている先輩と不釣り合いな僕が付き合っていることに対する嫌がらせみたいなものだろう。誰が送ってきているのかまではわからないけれど、学校の人である可能性は極めて高いように思えた。


 僕と先輩のことを知っている人物は、学校の外に出たら他にいるだろうか? そもそも、校内にも僕の存在を知る人はそう多くないと思う。悲しいけど。

 情報が少なすぎて犯人を突きとめることは難しそうだ。そもそもヒントがあったとしても、名探偵の資質がない僕に犯人を見つけることができるか甚だ疑問だ。


 僕は単なる嫌がらせだと判断し、特に返信することなく、明日を迎えることにした。先輩に何かあってからでは遅いので、少しだけ注意をしておこう。


 翌朝、スマホを確認したが、あれからメールは来ていない。


 普段通り準備し、いつもより少しだけ早く家を出た。

 先輩と下校することはあっても、登校することはほとんどなかった。朝はお互い眠いし、好きな時間に行こうといつぞやに決めたのだ。たまに僕が早起きできたときに先輩と会うことはあった。先輩はいつも眠そうで、顔が起きていないところを見られたくないらしく、基本朝は目を合わせて喋りたがらない。いつもは目を見て喋るのに、そのときだけはどこか遠くの山をぼんやり眺めているようだった。


 先輩に遠慮して僕もあえて早い電車で行くことは避けてきた。久しぶりに先輩が乗る電車に合わせて家を出た。先輩が乗る車両も把握している。なんだかストーカーみたいだが、先輩の方からその情報は教えてくれたのだ。学校近くの駅は電車を降りると、階段を上る必要があるのだが、降りるときのことを考えて、階段に一番近い車両にいつも乗ることにしていることも教えてくれた。


 家を出て、数分。少し前まで満開の桜で綺麗だった桜並木もすっかり花びらは散り落ちてしまい、殺風景なものに変わり果ててしまっていた。


 桜も可哀想だと思う。満開の時期はみんなから興味を持たれ、綺麗だ綺麗だ、と褒められる。けれど、散ってしまったその姿に足を止める人は誰一人いなかった。少し前まで登下校の際にこの道を通ると、誰かは足を止めて、桜を見たり、写真を撮ったりしていた。ピンクの花びらを咲かしている姿が美しいのだから仕方がないのかもしれないが、一年の一瞬だけ日の目を浴びる桜の人生というのはどういった気分なのだろう。


 わかりようもない。桜にインタビューしたところで、何も返事がない。当然だ。木だから。マイクを持って、桜に問いかけでもすれば、精神科医に連行されることになるだろう。

 そんなどうでもいいことを考えながら歩いていると、カメラを持ったご老体がいた。珍しい光景であったため、そのカメラは何を映しているのか気になり、視線をやると、桜だった。満開の桜でなくとも、足を止め、その風景を残したいと思っている人に出くわし、なんだかほっこりした気分になって、口角が少し上がった。


 桜、良かったね。とまるで人に話しかけるように僕は心の中で呟き、桜並木を抜けた。


 最寄駅に着くと同時に電車が来た。桜に同情していたせいで普段より歩くペースが遅くなっていたのかもしれない。電車に乗り遅れなかったので、まあいいだろう。

 先輩がいつも乗る車両の目の前で扉が開くのを待つ。開くと、向かい側の扉に先輩がいた。が、もうひとり僕の知らない男が立っていた。


「あっ! 夏樹くん!」


 先輩は僕に気づいたようで、こっちへ駆け寄ってきた。

 チャラそうな見た目をしている男は僕を睨み、「ちっ」と舌打ちをし、他の車両へ移動していった。僕は状況が飲み込めず、とりあえず軽く会釈しておいた。


 先輩は「たすかったー」と小さく呟いた。


 安堵する先輩を他所に、僕は昨日のメールのことで頭がいっぱいだった。

 メールには、先輩がナンパされるという内容が書かれていた。


 この状況はメールの内容にそっくりじゃないか……?


 まさか、な……?


「おはよ!」

「おはようございます。先輩、さっきの人は知り合いですか?」

「え? ああ、あの人……知らないよ。いきなり連絡先訊いてくるもんだから、困ってたの」


 先輩は「可愛すぎるのも罪だよねえ」と笑って付け加えた。僕は苦笑いしかできなかった。

 先輩が受けていたのはいわゆるナンパだろう。先輩にワンチャン狙いで話しかけてきた邪な考えを持つ、良からぬ奴だ。年は僕らよりも上。大学生くらいに見えた。


 あのメールは本物なのか?


 にわかに信じがたい。メール通りの現実を素直に受け入れられるほど僕はまっすぐな人間じゃなかった。けれど、ただの迷惑メールとは違う。そう直感した。


「ナンパとか結構多いんですか?」

「んー。たまに、かな? 私には君がいるのにねえ」

「僕よりさっきの人の方がかっこよかったですよ」


 誰もが想像する大学生、という感じだった。髪も染めていて、チャラいけれど、大人っぽさを感じた。僕が歳を取ったとしても、ああはなれないだろう。女子は大人っぽい人が好きという話をよく聞くが、僕なんかよりもさっきのナンパ男の方がよっぽど大人っぽいように思えた。


「はぁ……あのねえ、私は見た目に惹かれて、コロッといっちゃうような、軽い女に見えるの?」


 先輩は少し怒っていた。


「それは……見えないですけど」

「そうでしょ? 誰よりも優しい心を持った君が好きなんだよ。私はそんな簡単に揺れ動いたりしない。もし、君から心が少しでも離れたときには、言う。ちゃんと言うから」


 強く、真剣な眼差しで、先輩は言った。


 ここを電車の中だということを忘れているんじゃないか。朝っぱらから公開告白をされているようで、居心地が悪かった。僕の隣に立つスーツを着た男性も、微妙な反応をしていた。


「……うん」


 コクリと僕は頷いた。


 先輩は僕のことを優しい心を持っていると評価してくれた。けれど、それは本当の僕なんだろうか?


 誰かに対する優しさも僕なりの贖罪なのだ。楓本人に謝ることはもうできない。誰か他の人に優しくすることで自分の罪を軽くしようしている。偽りの優しさだ。


 そんな僕でも果たして先輩は好きだと言ってくれるのだろうか?


 本当の僕を知ることで、嫌いになるんじゃないだろうか?


 怖い。先輩に嫌われることを恐れている。僕は変わってしまった。きっと一年前は誰に嫌われようが全く気にせず、嫌われることを恐れていなかった。別に誰かに嫌われたところで、僕の近くにいる人なんて元々いないからだ。

 先輩と長い時間を過ごすことで、変わった。先輩と今の関係が続いてほしいと思う。それにはいつか僕の過去を話さないといけない。先輩から様子がおかしいことを指摘されて、誤魔化し続けるには限度がある。話さないといけないことはわかっているけれど、怖いのだ。


 先輩に話さないことの理由づけとして、先輩を巻き込みたくないとか、そんなかっこいい理由をつけていたけれど、実際のところは嫌われるのが怖いことへの逃げだ。僕はまた逃げているんだ。


 過去の僕を知り、先輩はどう思うだろうか。先輩が見ているのは、満開の桜のような煌びやかな僕で、散り落ちたあとの僕でも先輩の目に僕を写してくれるのだろうか?


 先輩とこれからも関係を続けたいのであれば、避けては通れない。そろそろ腹括る必要があるな、と思った。

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