第4話
「私のこと好きですかー?」
先輩と付き合い始めて、三日目の放課後。今日も先輩と一緒に下校することになった。
わざわざ先輩は僕の教室にまで足を運び、それなりに大きな声で名前を呼んだせいで、教室中の視線が僕の方に集まった。
教室がざわつき、揺れるような感覚だった。基本的に表立ったことをしてこなかった人生なので、あんなに注目を浴びることはなく、困り果てている僕にはお構いなしで、先輩は「はやく、はやく」と急かしてきた。
逃げるように教室を後にした僕は、先輩を恨みながら靴を履き替え、学校を出て、今に至るというわけだ。
「これは彼氏としてふさわしい回答をすべきなんですか?」
いまいち距離感を掴むことができていなかった。一応、付き合っていることにはなっているが、きっと僕らに恋愛感情は生まれていない。少なくとも僕にはまだ生まれていない。生まれる予感もまだまだない。
先輩は恋人のように振る舞ってほしいらしいけど、それは嘘を交えてもいいものなのか。そもそも、交際経験のない僕にはハードルが高すぎる要求だ。やはり、先輩は恋人にする相手を最初から間違えているのだ。
「それはもちろん! だって、君は私の彼氏でしょ?」
「はぁ……」
「相変わらずの反応の薄さだね。はんぺんくらい薄いよ」
どうして薄いものの代表格とは言い難いもので喩えるんだ、とツッコミたくなった。そもそも、はんぺんってそんなに薄いっけ?
「昔からなんで許してください。そういう先輩は僕のこと好きなんですか?」
「おっ、逆質問ときたか。そうだねえ。好きだよ。だって、私が告白したんだよ? 好きでもない男の子に告白したりする?」
「普通はしないと思います」
普通はしないだろう。しないはずだけど、初対面の相手にいきなり告白もしないだろう。
三日経っても、先輩の真意はわからない。人の心を正確に読み取る能力は僕に備わっていない。全てが推測で終わるのだ。当たっているかもしれないし、外れているかもしれない。それなら無駄に考えることをやめて、先輩の望むように接した方が楽なんじゃないかと思えてきた。
「でしょ? だから好きだよー。私は言ったんだから、君も答えてよ」
先輩はそう言って、わざわざ僕の前に立ち、顔を覗かせてきた。
僕のことが本当に好きだとは思っていないが、深く追求することは避けた。空気を悪くしても、良いことがひとつもない。
「おそらく、好きですよ、多分」
「好きって言葉を弱める単語で挟まないでくれるかなぁ。まあ、君は私のこと好きにならなそうだもんね」
先輩はため息混じりの声で言った。
「どうですかね。今のところ好きになる気はしてないですけど」
嘘をついても仕方がないと思い、正直に言うことにした。きっと百パーセント嘘で塗り固められた言葉を言っても、どうせバレるだろうし。
「そんなにはっきり言われると傷つくなー。じゃあ、どうしてOKしてくれたの?」
先輩の疑問はもっともなものだ。初対面の相手に告白する先輩もおかしい。けれど、その告白をOKする僕も同じくらいおかしい。先輩もわかっているのだろう。僕がノリとかそういうので付き合ったりするタイプではないことを。
好きでもない相手の告白を承諾する人も中にはいるだろうし、否定するつもりもない。けれど、僕自身はそういう付き合い方はしないというだけだ。これは僕のエゴみたいなものだ。僕自身が変わることができるのかもしれない。そう思ったから付き合った。
果たしてそんなことをバカ正直に伝えていいものなのかわからなかった。
先輩は小首を傾げて、僕の回答を待っているようだった。
「僕が変わるため、ですかね」
逡巡した末、そのまま伝えることにした。
やっぱり、先輩に嘘をついても見破られる、そんな気がした。
先輩は僕の目を見て喋る。胸の内を見透かされているような気分に陥るのだ。目を見て喋ることが苦手な僕にはとことん相性の悪い人だと思う。
「私なんかに人を変えられる力はないよ?」
「そうかもしれません。それでも──いや、なんでもないです」
僕が曖昧な回答をしたせいで、先輩の頭上には疑問符が浮かんでいるようだった。
過去の話をしようと思った。けれど、その話を聞かされた先輩はきっと反応に困るはずだ。喉まででかかったその話を僕は呑み込んで、腹の奥底にしまった。
思い出すだけで背筋が凍るような感覚に襲われ、時は止まったように感じるのに心臓の鼓動はいつにも増して速く刻む。
あのときの光景を鮮明に思い出してしまったため、冬だというのに冷や汗が出てきた。手も湿ってきた。
「何かあった?」
様子がおかしかったのだろう。
先輩は優しく声をかけてくれた。先輩はきっと話を聞いてくれる。僕の心はきっと軽くなると思う。
「少し寒かっただけです。なんでもないです」
「そっかそっか。何かあったら、私に言ってね? 私は君の彼女になったんだから」
「はい」
僕は、何も言えなかった。上手く誤魔化せなかった。先輩は優しいから、何かあることに気付いていながらも、それ以上何も訊いてこなかった。ありがたかった。でも、その優しさに胸がチクリと痛んだ。
結局、僕は嘘をついた。
その日の夜、夢を見た。絶対に忘れてはいけない夢を──
目を開くと、色とりどりの花に囲まれた場所に立っていた。眩しいくらいに明るいのに、どこにも太陽は見当たらなかった。頭上には絵の具で描いたような真っ青な空のような何かが広がっていた。ここがどこなのか見当もつかなかった。
数十メートル先に誰かがいる。
その一人を除き、この世界には誰もいないようだった。僕は少しずつ近づいていった。
ぼんやりとしか見えていなかった背中がくっきりと見えるようになってくる。誰かわかった瞬間、僕は叫んでいた。
「
僕の目の前には死んだはずの妹がいた。腰まである長い黒髪、日焼けとは無縁の真っ白い肌。振り返り、屈託のない笑みを浮かべる彼女は、少し大きくなった気はするが、まさしく僕の妹だった。
「そうだよ。お兄ちゃん。謝りたくて、会いに来たんだよ」
「違う! 謝らないといけないのは、僕の方だ。あのとき──」
僕がそう言いかけたとき、轟音とともに何もない空間からトラックが現れ、楓に向かってきた。僕が「楓!」と叫び、手を伸ばそうとしたときには手遅れで、僕が楓に触れるよりも先にトラックがぶつかった。
また救えなかった。
無力感に苛まれていると、夢は醒めた。
目を開くと、見覚えのある天井だった。さっきのは夢だったのだとすぐに理解した。
ベッドから降りた僕は、カーテンを開けた。カーテンの向こう側にあるガラスには涙を流す僕が映っていた。
ああ、まただ。
死んだ妹の夢をたまに見る。
楓は僕が小学校五年生の頃に交通事故で死んだ。当時、彼女は小学校二年生だった。
仲の良い兄妹だったと思う。家では一緒にゲームしたり、外では鬼ごっこしたり、どこにでもいる普通の仲の良い兄妹だった。喧嘩も滅多にしない。記憶に残るほどの大きな喧嘩をした覚えはなかった。面倒見のいい僕は、母さんからもよく褒められていた。
あのときも些細な喧嘩だった。僕ら二人は母さんから貰ったお小遣いを握りしめ、近所の駄菓子屋に向かっていた。母さんから貰った三百円。何円ずつ使うか、そんなことで喧嘩した。まだまだ子供だった僕たちは、自分の方が多くお菓子を買いたいと譲らなかった。それで言い合いになり、僕は妹を放って青になった信号を小走りで渡った。
遅れて妹も渡ろうとしたとき、信号無視するトラックが妹に迫ってきていた。振り返った僕がトラックの存在に気づき、声をかけようとしたときには時すでに遅く、トラックは無常にも妹が歩く横断歩道に突入し、妹を轢いた。
妹は頭部を強く打ち、即死だった。真っ赤に染まった妹の姿。妹を中心にして広がった血溜まり。何もかもが見たことがなく、現実感のない光景が広がり、高校生になったいまでも脳内にこびり付いていた。妹の事故を知った両親はすぐに病院に駆けつけたが、両親の前で一度も声を発することはなかった。
そのとき、両親の涙を初めて見た。その涙には娘を失った悲しみが凝縮されていたことだろう。楓の死を受け入れられない両親は、憔悴しきって、両親たちが死という選択を選んでしまうのではないかと小学生ながらに思った。
それ以来、家族から笑顔が消えた。残ったのは、必要最低限の会話だけだった。
あのとき僕が楓の近くにいれば助けられたかもしれない。手をつないで渡っていれば、あんなことにならなかったのかもしれない。変な意地を張って、楓を見捨てたりしなかったら、彼女は今も生きていたかもしれない。
僕だけが生き残って、妹だけが死んだ。
僕が身勝手な行動をとったせいで、楓は死に、家族とも疎遠になってしまった。家族もバラバラにした。両親はきっと今でも僕のことを恨んでいると思う。
僕が妹を殺したんだから。
一生十字架を背負って生きていくしかない。妹を殺したんだから僕は幸せになる権利がない。家族を不幸にした張本人は僕だ。頭ではわかっていても、そんな現実から目を背け、逃げ出したくなることもある。十字架の重さに潰されそうになることもある。
絶対に忘れてはいけない記憶なのに、綺麗さっぱり忘れ去ることができれば、苦しむこともないのかな、と心のどこかで思っている自分もいる。
──最低だ。
先輩の告白を了承したのは、先輩なら僕を先の見えない暗闇から救ってくれると思ったからだ。
楓の死から人と深く関わろうとしていなかった僕に話しかける人は日に日に減り、中学校で友人と呼べる友人は誰一人できなかった。
そんな僕に先輩は話しかけてきてくれた。
先輩と話しているその一瞬、心が軽くなり、意識の大半が先輩に向けられていた。久しぶりの会話だったというのもあっただろう。とにかく、気持ちが楽になって、そんな気持ちにさせてくれる先輩に助けてもらいたかった。僕は自分が楽になれないか考えていた。どこまでも最低だ。
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